闘争と対話

 手塚姉妹は木枯らしが吹く中鶴野マリアの家を目指して歩いていた。会話はなく、二人とも心の中で別々のことを考えていた。二人の間を通り抜ける木枯らしは二人の間にできた疑念という名の谷に吹きつけているようだった。

「ねえ、果歩」

 果歩は突然立ち止まった姉に後ろから声をかけられたので、鶴野家で見た黒い悪意に対する不安から現実に引き戻された。

「どうしたの」

 日も落ちてきて風が冷たくなってきたので、果歩はできるだけ口を空けないように言った。そのせいで声はぼそぼそとしたものになってしまった。

「テレサとしゃべってみたい」

 果歩は驚いた。姉は部屋で説明したことなど何一つ信じていないと思っていた。それなのにテレサとしゃべってみたいと言ったのは少しぐらい信じてみようと思ったのか、それとも試しているのか。どちらにせよ断る理由はない。

「いいよ、ちょっと待ってね」

 果歩はそう言うと目を閉じてテレサを呼んだ。暗闇の中で果歩とテレサの意識が交代する。テレサが目を開くと、そこには黒いオーラをまとってなどいない美穂がいた。美穂には悪意はなかったのだ。ただ信じることができずに戸惑っている。彼氏や妹に裏切られたのではないかと悲しんでいる。ただそれだけだった。

「美穂、はじめましてテレサよ」

 美穂はその声が果歩のものではないことに気づいた。しかし妹の中に別の誰かがいるなんてまだ信じることはできなかった。だからこそ妹がテレサのふりをして話しているような気がして、自分をだましているような気がして、自然と涙がこぼれてきた。テレサはそんな美穂を黙って抱き寄せた。

 その時、当然テレサは美穂の背後を見ることになった。そして戦慄した。そこには黒いオーラにまみれた長身の男がこちらに向かって大股で歩いてきていたのだ。テレサはとっさに美穂から体を離すと、戸惑っている美穂をよそに護身用のスタンガンを取り出した。その様子を見た美穂はようやく男の存在に気づいた。

「止まれ!」

 テレサは叫びながらスタンガンのスイッチを入れて火花を散らしたが、男は全くペースを落とすことなくテレサに突進してくる。男がすぐ目の前まで来たところで、テレサはスタンガンを持っていないほうの手で美穂を突き飛ばしてから、男に向かってスタンガンを突きつけた。電流が流れる鈍い音が響き渡る。テレサに突き飛ばされて道にへたり込んだ美穂は、男が感電しながら小刻みにがくがくと震えているのを見た。しかしその顔は笑っていた。美穂には何が起こっているのかさっぱり理解できない。

 テレサも男の笑顔を見てこの程度ではだめなのだと悟ったが、電流を流し続ける以外どうすることもできなかった。

 男がテレサの体をつかもうと手を伸ばした。その行動に一瞬早く気づいたテレサは男につかまれる前にスタンガンのスイッチを切った。あのままつかまれていたら逆にテレサが感電していたところだ。しかし無駄だった。テレサをつかんだ男は、そのままもう片方の手でスタンガンを持っているほうのテレサの手をつかむと、自分にあてたままスイッチを入れたのだ。


 帝国ホテルの玄関前でサマンサ・スミスは大統領の到着を待っていた。この日本をはじめとするアジア来訪は昨今の不安定な世界情勢を安定に導くことに深い意味を持つ。孤立を深めるアジアの某国はアメリカに対する挑発を繰り返しており、いつその矛先がアメリカと同盟を結ぶ近隣のアジア諸国に及ばないともわからない。もしそんなことになったら某国の後ろ盾に影をちらつかせる大国が介入してきて、もはや第三次世界大戦は避けられないだろう。しかし大統領は某国首脳との言い争いにかまけており、言われたら言い返すばかりか、自分から戦争を仕掛けかねない勢いだった。大統領は馬鹿ではなかったが、少々頭に血が上りやすいのだ。そこでサマンサをはじめとする大統領補佐官達はアジア諸国からも某国への対話を持ちかけてもらえるように各国首脳と連携をとるべきだと提案したのだった。この提案を受けた大統領はしぶしぶこれを了承した。もともと人に言われて何かをするのが好きではないのだ。

 サマンサが大統領はもうすぐ到着するという連絡をもらってからすでに三十分が経過していたが、大統領を乗せたリムジンはまだ到着していない。外ではすでに木枯らしが吹いており、スーツ姿で長くいるのはよくないと思ったサマンサは一度暖房のきいたロビーに戻って携帯でSPに確認の電話を入れようとした。その時ようやく黒のRV車二台に前後を守られた、これまた黒いリムジンが玄関前に到着した。出迎えるはずがロビーに戻ってしまったタイミングで大統領が来てしまったので、サマンサは試されたような気がした。しかし不機嫌を表情に出すまいとロビーから出ていき、リムジンから降りてくる大統領を出迎えた。

「大統領お待ちしておりました」

「ああ」

 顔には疲れが表れている。大方渋滞にでも捕まったのだろう。それに飛行機や車の中という閉鎖された空間に何時間もいることを考えると疲れるのも当然だとサマンサは思った。しかし遅れたことに対する弁解はない。サマンサは弁解を求めるべきではないと自分の心に言い聞かせてから大統領に明日からのスケジュールを説明し始めた。


 田中たちを乗せた車は、鳥山さんの運転のもと帝国ホテルからそう離れていないコインパーキングに停車していた。車内では奇襲計画の最終確認が行われている。

「本当にやるんだな」

 言いながら千歳は震えていた。と言ってもハイドリヒからの監視を逃れるためにマリアの豪邸の地下駐車場で乗車を済ませた千歳は車の中で待機である。

「昨日までは普通の高校生だったのが、アメリカ大統領を奇襲することになるとは」

「確かにそう聞くと大問題ね、テロリストに感化された国内の危険因子ってとこかしら。でもそれは表向きの話よ。何も知らない人たちが危険にさらされているのに普通でなんていられない」

 言いながらマリアはダークセーバーをコートのポケットの中で握りしめた。猫の話だとそれは人を傷つけることはなく、ミスルトウだけを肉体から切り離すのだという。さらに切り離されたミスルトウは他の人間の肉体に入ることができなくなる。田中は猫で試そうかと思ったが今回の計画にアルブレヒトの能力は不可欠だった。安易に試すことはできない。しかしそこでまた田中は考えた。今回の計画は確かめようのないことで溢れすぎてはいないだろうか?本当にアメリカ大統領がダークレリジョンなのだろうか?確かめるすべはない。それもミスルトウとかいう何百年も生きている闇の意志に取りつかれている?確かめるすべはない。そして核戦争を引き起こそうとしている?確かめるすべはない。おそらくそういった疑問の数々が猫を信用できない要因なのだろうと田中は思った。しかし一つ確かなのはそれらがすべて事実なら、今行動しなければ大惨事は現実のものになるだろうという事だ。

「田中君大丈夫かい?」

 猫に言われてはっと我に返った田中は猫を見つめ返して一つだけ質問をした。

「この計画は誰も傷つかないんだな?」

「ああ、ハイドリヒだけだ。奴は今までダークレリジョンの犠牲になってきた者たちに責任を持つべきなんだ。それでダークレリジョンが壊滅するわけじゃないが、やつの監視システムがなくなれば今まで通りというわけにはいかないさ」

 猫の言葉はもっともらしく聞こえる。その表情からは真意を読み取ることはできないが嘘は言っていないだろう。

 そもそもが現実離れした話だ。今まで妄想と現実に明確な境界線を引いてきた自分にはそれを取っ払うのが困難なだけなのだ。田中はそう納得することにした。

「わかった。はじめよう」

 その言葉を合図にしたように田中、マリア、鳥山さん、アルブレヒトは一斉に車を降りた。


 本田啓二は警備員一筋三十五年の大ベテランである。怪しい人間に目を光らせるすべはドロップアウトした刑事や自衛隊員も含まれる部下同僚たちからも羨望のまなざしで見られていた。暴漢と格闘する体力こそ衰えたものの彼の前を悪意を持った者が通れば素通りすることはまずできない。今までも十七人の犯罪者予備軍を呼び止め(中にはクライアントと関係のない者もいた)その全員を警察に引き渡していた。その実績を買われて今回アメリカ大統領の宿泊する帝国ホテルの警備主任に選ばれたのだ。もうすぐ定年退職をする本田にとってこれはこの上なく光栄なことだった。それは今までのほとんどの仕事同様今回も何事もなく終わるだろうと心のどこかで思っていたのと、老後に孫に話す自慢話の種になると思ったからである。

 ふと本田は孫の顔を思い浮かべて上の空になってしまっていたことに気づいた。あわてて神経を仕事に集中させホテル前の通りに不審者がいないかを確かめる。しかし不審者どころか猫が一匹近寄ってくる以外は人影一つなかった。

「本田さん。定時報告の時間ですよ」

 トランシーバーから雑音交じりの音声が響き渡った。定時報告は警備主任の本田から始まることになっている。時計を確認すると、報告の時間を四十秒近く過ぎようとしているところだ。本田は慌ててトランシーバーの送話ボタンを押した。ちなみに本田の方針で定時報告が一分以上過ぎたら異常有りとみなされる。

「定時報告、玄関前、異常なし」

 本田は送話ボタンから指を放しながら、俺もそろそろ潮時だなと思い頭をかいた。今までに定時報告を忘れたことなどなかったのだ。なんともみじめな思いをしていると、先ほど近寄ってきた猫がまるで本田を慰めるかのように足にすり寄ってきた。本田は猫よりも犬のほうが好きだった。なので猫を払いのけることこそしなかったが、つんと前を向いてまた通りに目を光らせた。トランシーバーから部下たちの定時報告が続く。

「ちょっと聞きたいんだけど」

 突然男の声が聞こえたので本田は身構えた。しかし声は聞こえるのに相手の姿が見えない。どこだ?いやまてよ声は今足元からしなかっただろうか?そう思って下を見ると、猫がこちらを見上げている。まさか、いや、そんな馬鹿なと本田が混乱し始めたのをよそに猫は言った。

「トイレはどこかな?」


 帝国ホテルの向かいのビルの一階は土産物店になっている。そこで陳列棚に雑多に並べられた土産物を眺めているふりをしていたマリアは、猫が寄って行った警備員がこちらに背を向けてどこかしらを指さしたのを確認した。店内にいるのはマリアとマリアが店内に入ってきた時に裏からのっそり出てきた中年の店主だけだった。

 マリアは適当に選んだ物をレジに持っていき支払いを済ませると、店の出口で店主の方をちらと見た。どうやら店主はまた裏に引っ込んだようだ。テレビの野球中継の音が漏れ聞こえていることを考えると当分出てはこないだろう。そこで店の裏手に回って田中と鳥山さんに作戦開始の合図をした。そこで田中は一度二人と別れて、千歳と合流するためにコインパーキングに向かう。アルブレヒトの能力が発動した今、もはや監視されていようがいまいが相手には気づかれている。アルブレヒトが言うには彼の能力はミスルトウには通用しなのだそうだ。つまりホテル内で自由に動けている者はミスルトウであるハイドリヒだけという事になる。

 コインパーキングに到着すると同時に千歳は待ってましたと言わんばかりに満面の笑みで車から飛び降りてきた。

「ダークレジスタンス始動だな!」

「なんだそれ?」

「俺たちのチーム名だよ。待ってる間に考えたんだ。なかなかいいだろ?」

 田中は口にも表情にも出さずにあきれたが、とにかく今は時間がなかったので急いで千歳を連れて帝国ホテルを目指した。

 アルブレヒトの能力は人を操る事である。それも半径三十メートル以内にいる人間なら何人でも同時に操れる。しかしこの場合には制約が付く。それは全員に対して一つの指令しか出せないという事だ。つまり一人一人を別々に操ることはできない。なので指令は対象となった全員が認識できるごく単純なものになってしまう。今回の場合は「トイレはどこか指させ」である。こうしてミスルトウであるハイドリヒ以外の人間は皆無意識にトイレを指さし続けることになった。しかしハイドリヒが外部の仲間に連絡したり、ホテルの外からこの異常事態に気づく人がいつ現れるかわからない。その前にハイドリヒを片付けなければならない。これが今回の計画のすべてだった。

 二人が帝国ホテルのロビーに入っていくと、そこには奇妙な光景が広がっていた。玄関前で見た警備員と同じように、ホテルの従業員も客も皆立ち上がってトイレの方角を指さしている。体力のない田中はすでに息を切らしていたが、運動神経抜群の千歳は疲れを見せるどころかこの光景を見てうきうきしているようにも見える。その時ちょうどマリアが受付カウンターから出てきた。

「大統領の部屋は三二六号室よ。行きましょ」

「三階か、なら退路を塞ぐためにも二手に分かれたほうがいいな。隆はエレベーターで向かってくれ、俺は非常階段から行く。鶴野はどうする?」

 マリアはぜいぜい息継ぎをしている田中を見て、田中についてエレベーターで行くことにした。このホテルはエレベーターの中も含め、いたるところに監視カメラがあったがコントロールルームに向かった鳥山さんが対処してくれているはずだ。こうして三人は三二六号室を目指した。


 息を整えながら田中はダークセーバーを取り出して刀身を出した。急に不安に駆られる。やりきれるだろうか。エレベーターの暗めの照明の中で田中の表情を見て取ったマリアは安心させるようにその手に触れた。

「大丈夫、やれる」

 田中は今不安を口に出しただろうかと思ったが、マリアに触れられて気づいた。奇妙な武器を握る手は震えていた。恐怖を感じているのだ。恐怖は‟知らない”という事からくる。それは田中が闇論に書いたことだった。何故か今それが思い起こされた。そして自問してみる。僕は何を知らないんだ?その言葉はほとんど無意識に突然口をついた。

「トランスヒューマニズム」

「え?」

 一瞬マリアはキョトンとしたがすぐにその意味を理解したらしく表情が固まった。ポーンという音とともに三階に到着した。エレベーターの扉が開き始める。そこにはどこも指さしてはいない身長二メートルはあろうかという大男が立っていた。二人はとっさに扉の陰に隠れたが、すでに遅かった。男は開きかけの扉に無理やり体をねじ込むようにして入ってくると二人を後ろ手でつかんでエレベーターの中に放り投げた。

 エレベーターの壁にたたきつけられたマリアは一瞬意識が朦朧とした。隣には田中が上半身を壁に預けてピクリとも動かない。まさか死んでしまったのだろうか。しかしそんな心配が頭をよぎったことでマリアの頭は逆にクリアになった。

 乱入者は二人の手から転げ落ちたダークセーバーを踏まないように足元を確かめている。マリアはそのすきをついて男の脇をすり抜け、再び閉じ始めた扉に向かって突進した。その際ダークセーバーを拾おうとしたが滑って取り落としてしまった。大男はまるで取るに足らないとでも言うようにその様子をゆっくりと目で追いながらマリアを追ってエレベーターを出た。その時大男はエレベーターの扉に挟まれることになった。ガシャンという音を立てて扉が開き始める。この時一瞬振り返ったマリアには生気のない目を開いたままで、だらんとしている田中が目に入った。大男が出たところで扉が閉まり始める。この時のマリアの優先事項は、まず重傷を負ったであろう田中から大男を引き離すこと、そして非常階段へ向かい、まだ武器を持っている千歳と合流することだった。しかし非常階段へと走りだそうとした時、先ほどの衝撃の余波が襲ってきて再び頭が朦朧とする。なんとか平衡感覚を保とうとするが、ついに足が絡み合いその場に倒れこんでしまった。

 思うように立ち上がれず、なんとかほふく前進をするも、うしろからはドッドッドッドという足音が近づいてくる。マリアは殺されるという恐怖に陥った。そのせいで体は余計いう事を聞かずもはや動くことができなくなってしまった。

「おい!」

 突然エレベーター前の廊下に男の声が響いた。後ろから聞こえていた足音が止まる。マリアは恐る恐る首だけで後ろを振り向いた。すぐ後ろに先ほどの大男が立っている。どうにか肩を動かしてその顔を見上げる。すると大男の方も首だけで肩越しに後ろを見ていた。そこでマリアは今度はその視線の先を見る。すると信じられないことにそこには田中が立っていた。さっきまで死んだようにだらんとしていた姿からは想像もできないぐらい生き生きしている。それに先ほどの男の声は田中の声ではなかったように思えた。

 大男が田中の方に向き直って日本語でも英語でもない言語で何かを言った。マリアには全く理解できなかったが、「エーリヒ」という一言だけ聞き取れた。それは最後に付け足された一言でどうやら名前を呼んだらしい。それを聞いた田中は突然笑い出した。なんだか様子がおかしい。田中はいつも仏頂面だったので笑っているところを見たのは初めてだったが、それにしても笑いすぎだ。腹を抱えて涙をぬぐっている。この大男の何が田中をそんなに笑わせたのかがマリアにはさっぱりわからない。いったい何が起こっているのだろう。

「へいへいへい!ここは日本だぜ?日本語で話しなジョニーボーイ!」

 キャラが崩壊しすぎている。妙なポーズすらつけている。本当にこれが田中なのかとだんだんマリアには信じられなくなってきた。

「答えを聞こう」

 大男が今度は日本語で話し始めた。もはやマリアに注意をむけておらずそのすきにそろそろと仰向けになり伸びた足を体に引き寄せた。

「はん。そんなに知りたきゃ教えてやる。お前らが信仰しているものの正体が、神でも闇でもなくてただの恐怖だからだ。お前らは知らないという恐怖に屈したのさ。それで、良くて現状維持を続けるだけの決して前進しようとしない臆病者になり下がった。そんなものに迎合しろだなんて殺されてもお断りだぜ」

「そうか…どうやら対話はここまでのようだな。残念だ」

 ゆっくりと立ち上がりながらマリアは二人が何の話をしているのだろうと考えた。田中はこの大男と知り合いなのだろうか、まるでそんな風な話し方だ。しかしそうだとしても仲がいいわけではないのだろうと思った。何故なら大男が大声で叫びながら田中の方に突進していったのだ。男の陰から、田中の方もこちらに突進してきているのが見える。しかしその手にダークセーバーはない。今やエレベーターの扉は閉まりきっている。おそらくその中にあるのだろう。信じられないと思った。貧弱高校生の田中が生身であんな大男に勝てるはずがない!実際にさっきエレベーターの中で二人を軽々と投げ飛ばしたではないか!

まだ頭には痛みが残っていたが、マリアはさっと振り返ると非常階段を目指した。このままでは田中が殺されてしまう!早く何とかしなければ!

 廊下の角を曲がったところで千歳と鉢合わせになった。

「おう鶴野何してたんだよ!三二六号室はあっちだぞ。あれ、隆は?」

「早く来て!殺されそうなの!」

千歳を引き連れてマリアは急いでエレベーター前の廊下に戻った。千歳がダークセーバーの刀身を出して構える。しかしそこには信じられない光景が広がっていた。先ほどの大男はスクラップという言葉がぴったりなほどに体のいたるところが折れ曲がって一つの塊になっていた。首や背骨がありえない方向に曲がっているし、足や腕は奇妙に絡まって体全体が折りたたまれている。そしてその横で田中が片膝をついて顔を苦悶の表情にゆがめている。田中は二人を見るなり絞り出すようにつぶやいた。

「痛い!」


「いったい何があったの!?」

 マリアが田中に駆け寄る。千歳は大男の塊を見てひえーっと声にならない声を漏らしてから田中に「これお前がやったの?」と聞いたが田中は意識が朦朧としていたし、その上体中が痛かったので答えることができなかった。右手が特に痛むので見てみると手の甲が青紫色になっている。まるで怒りに任せて力いっぱいコンクリートの壁を殴ったかのようだ。しかしぼんやりとではあったが田中はさっき起こったことを記憶していた。そしてまた絞り出すように話し始めた。

「なんだか自分でもよくわからないんだけど、勝手に体が動いたんだ。水の中にいるみたいだった。視界はぼやけてたし、声もはっきりとは聞こえなかった。‟無意識”だったんだ」

 話しながら田中は立ち上がってエレベーターのボタンを押した。この時手の痛みが急速に引いていくのを感じた。

「もしかしたら他のミスルトウの干渉があったのかもしれない。多分そうなんだと思う。そう思うのも僕がこいつのことを知っているから。流れ込んできたんだ、そいつの記憶が」

 田中はぐちゃぐちゃに固められた大男の方を見ながら言った。そして扉の開いたエレベーターに入ると、ダークセーバーを二つとも床から拾い上げて一つの刀身を出した。

「田中、大丈夫なの?」

 さっきまで痛みを訴えていたにもかかわらず平然と立ち上がった田中に対して、マリアの心配はもう体のことだけではなかった。他のミスルトウの干渉。田中は田中ではなくなってしまったのだろうか。

「うん、もう平気だ。痛みもだいぶ治まった。それに僕は今間違いなく田中隆だよ」

 それを聞いてもマリアはまだ不安そうな表情をしている。しかし田中はこの大男の正体をマリアに教えなくてはいけないと思った。マリアは知らなければ。

 田中は再び大男の塊を見ながら言った。

「こいつの名前はジョナサン。同時に複数の体に存在できる能力を持ったミスルトウだ。ダークレリジョンに存在している暗殺者は実はこいつ一人で、今までは信心深いダークレリジョンの信徒や何も知らない殺し屋なんかの体を使って任務を遂行していた。トランスヒューマニズム計画でガーゴイルと呼ばれているこの体が開発されるまでは」

 この時点でマリアにはもう田中が何を言おうとしているのかが理解できた。それでも確かめるように聞いた。

「それじゃあ、この男が…」

「誰かと思えば」

 突然スクラップにされた男が話し始めた。一番近くにいた千歳が驚いて飛びのきながらダークセーバーを構える。田中もダークセーバーを構えていたが、落ち着いた様子で千歳を手で制した。この男はマリアと話さなければならない。

 男はあらぬ方向を向いている顔でゆがんだ口を動かしながらしゃべり始めた。微かに鉄がきしむような音がキイキイと混ざっている。

「幸福を否定する者。鶴野正義とエリザベスの娘か。あの時お前は日本にいたんだったな」

 あの時…。この男にとってはいくつもある任務の一つの瞬間に過ぎないのだろう。しかしそれはマリアの人生を永遠に変えてしまった。マリアは無言で田中の手からダークセーバーを一つ取った。田中は無言でマリアを見た。しかし視線は交わらなかった。

「あなたの名前ジョナサンっていうのね。聞きたいことがあるの。あなたは誰かを殺すとき、殺したとき、今までに殺した人を思い出すとき、何を感じるの?」

 マリアの声は外で吹く木枯らしよりも冷たく響き渡った。

「悲しみを感じるよ。我々は、人類は闇の真理を知らないことで幸福になるべきだと考えている。なのに君の両親はそれを否定し、あまつさえ闇の真理を広めようとした。彼らも幸福になれたのに、知ってしまったことで殺さなければいけなくなった。君の存在は認識していたが当時はまだ幼かったからな、組織も見逃していた。それなのに誰にたきつけられたのか結局復讐というかたちで私の前にいる。我々は幸福のために尽力しているのだから復讐など間違っている。やはり根絶やしにしない事にはダメなのだな」

 田中はあまりにも独りよがりだと思った。自分が信じる者だけが正しくてそれ以外は間違っている。間違っているものは排除してもいい。そんなことを本気で信じている。しかし復讐が間違ったことだというのは確かだ。

「そう、悲しみを感じるのね。良かった」

 マリアはそれだけ言うと田中と千歳の方に向き直った。

「さあ行きましょ。三二六号室へ。ハイドリヒを倒してアメリカ大統領を止めなきゃ」

「え、いいのか?お前の両親の仇なんだろ!?」

 困惑した千歳がジョナサンとマリアを交互に見ながら聞いた。

「うん、いいの」

 マリアの顔はどこか吹っ切れたような表情だったが、もう一度ジョナサンの塊を見ると気持ちのこもらない冷たい視線を落として言った。

「あなたはトランスヒューマニズムで永遠に生きられる体を得た。それに今ここにいるあなたをダークセーバーで切っても、他の体にあなたはいくらでもいる。そうでしょ?決して死ぬことはない。だからあなたは誰にも復讐されることなく。裁かれることなく。永遠に悲しみ続けてちょうだい」

 ぽかんとしている千歳と納得したようにうなずく田中を置いてマリアはさっさと歩き始めた。

「何してるの?早く行きましょ」


 三人が三二六号室の前まで来るとそこに猫がいた。

「いや、申し訳ない。ジョナサンのことをすっかり失念していたよ」

 この猫は今までずっと隠れていたのだろうか。田中は無性に猫を蹴飛ばしたくなったが、何とか抑えた。

「ジョナサンもハイドリヒも元々はダークインフィニティに所属していたんだけど、僕が抜けた後で分裂したらしくてね。ダークレリジョンに今誰がいるのか全ては把握してなかったんだ」

 猫はそのあとも言い訳を並べ立てたがすでに誰も聞いていたなかった。この扉を隔てた先にアメリカ大統領に憑りついたダークレリジョンの監視人がいるのだ。三人はダークセーバーの刀身を出して構えた。千歳がドアノブを握った手をひねると扉は完全にしまっていなかったことが分かった。そのためにオートロックはかかっていない。まるで誘われているようだと思いながら三人と一匹はなだれ込むように部屋へ入った。

 入って目の前にアメリカ大統領はいた。しかしその目はこっちを見ることはなくトイレの方をじっと見据えておりその方角を指でさしていた。

「おい、どういうことだ?」

 千歳が猫を見る。しかし猫は動かない。じっとアメリカ大統領を見据えている。

「おかしいね、僕が得た情報が間違っていたかな」

 千歳はアメリカ大統領に近づいて顔の前で手を振ってみる。しかし反応はない。今度は軽く額を指で小突いてみたがやはり反応はなかった。動けなくなったふりをしているわけでもないらしい。ではハイドリヒは今どこにいて、そして誰なのか。田中とマリアは一度顔を見合わせて部屋の中を見渡した。するとソファの陰から一人の女性が立ち上がった。田中はその女性に見覚えがあった。先日ニュースで見た元モデルの大統領補佐官だ。名前は確かサマンサ・スミス。

「おやおやアルブレヒトじゃないか、なんだその姿は」


 鶴野マリアの家がある閑静な住宅街は人通りが少ない。手塚姉妹を追跡していた男が、そこを襲撃場所に選んだのもそれが理由だった。一応周りを見渡してみるが周囲に人の気配はなかった。

 男は感電して意識を失った少女から手を離すと、その体は力なく地面に転がった。間一髪のところで頭が地面に強打するのを足で支えて防いだ。顎を下にして足にもたれかかった頭は断頭台に突き出されたそれを思わせた。男はゆっくりと足から少女の頭を地面に転がした。‟最悪の仮説”の元凶である手塚果歩。この少女がダークインフィニティであることはハイドリヒからの情報で確認しているが、まだ殺してはいけない。それは男がまだ子供を殺すことを躊躇していたからではなく、ダークインフィニティを捕らえた時の手順として仲間の居場所を聞き出すためだった。とはいえ今まで捕らえた者は誰一人として仲間の居場所をはくことなく拷問の末に死んでいったが。

 男は先ほど手塚果歩に突き飛ばされて感電を免れた方の少女を見やった。地面にへたり込んで震えている。ハイドリヒに情報を提供したのはこの少女だ。もっとも本人にはそんな記憶はないだろうが…千歳義孝を介して手塚美穂、そして手塚果歩へと行き着いた。ハイドリヒのネットワークの広がり方は地味だが得られる情報は確実だ。その情報はガーゴイルたちに伝達される。そういったことをシームレスに行えるようになったのもこの体のおかげだ。トランスヒューマニズムこそが人類の未来の姿なのだ。しかし体を得ている以上は移動という手段に時間を割かなければいけない。今回も手塚果歩のもとに来るのに二日もかかってしまっていた。

 男は手塚果歩の体を肩に担ぐと、もう一度地面にへたり込んで震えている手塚美穂を見て「うーん」とうなった。ハイドリヒのネットワークに組み込まれているとはいえ手塚美穂はどうやら手塚果歩と千歳義孝の正体を知っていたようだ。それは闇の真理を知っていることに他ならない。殺すべきなのだろうかと迷った。

 だが手塚美穂にはダークインフィニティのように闇の真理を広めようという意思はないかもしれない。そもそも信じているのだろうか。テロリストまがいの妹に巻き込まれただけの悲しい親族なのではないだろうか。ならばダークレリジョンの一員として迎え入れて、世界の秩序を保つために貢献してもらうほうが建設的だ。そもそも千歳義孝のガールフレンドであるなら、そうなる方が自然だろう。

 一応ハイドリヒに確認をしようと思い、頭部の記憶共有機能をオンにした。ハイドリヒ専属のガーゴイルにダイヤルを合わせる。この男の元々の人格であるジョナサンというミスルトウの能力は、同時に複数の体に自らの意識を分割することだが、分割された意識はそのままだとそれぞれの記憶を共有してしまう。それによって目の前の出来事に集中できなくなることがある。なのでガーゴイルは意図的に記憶の共有ができない仕組みになっている。これによって個々のガーゴイルは任務に集中し、その成果は記憶共有機能をオンにすることで他のガーゴイルの記憶にも刻まれる仕組みになっていた。男は手塚果歩を確保したこと、手塚美穂が居合わせて処遇を検討してもらいたいことを共有した。すると相手は今すぐ手塚美穂をハイドリヒのいるところまで連れてくるようにと言った。男は理由を聞こうとしたが、通信は既に切れていた。相手の状況の共有もない。全てのガーゴイルは元々一人の人間だったというのにこちらの質問を察することもできないとは、これが本当の「自分で自分に腹が立つ」ということだろうか。男はそう思って笑った。その笑顔は最も相手に警戒心を与えないように計算されて造られていた。

 突然男の腹に蹴りが見舞われた。さっきまでへたり込んで震えていた手塚美穂が今にも泣きだしそうな顔でにらみつけている。

「果歩を離せ!」

 妹を案じる姉。家族の愛だな、と男は思った。しかし力無き者は正義にはなれない。世界の秩序を守るためには愛よりも力が必要なのだ。

 男は再び蹴りつけてきた美穂の足を難なくつかむと、そのまま体を引き寄せた。そして果歩の体を担いでいるほうの腕で、その体を落とさないようにバランスを取りながら美穂の首筋に一撃を加えた。

 気絶した少女二人を両肩に担ぎながら男は帝国ホテルへと向かった。


 ホテルの一室では大統領補佐官と猫のにらみ合いが続いていた。

「外見についてあれこれ言いたいならお互い様だよハイドリヒ。まさか女になっているとはね」

「猫よりましだ。貴様には人間としての誇りはないのか」

 ハイドリヒは吐き捨てるように言ってから、ダークセーバーを構えている三人の方を見た。

「若いな。君たちにはそれぞれ私を葬る理由があるといった感じだが、よりにもよってアルブレヒトにそそのかされるとは。よほど感情的にあおられたらしい。しかもダークセーバーとは…噂は本当だったらしいな」

 田中は猫の表情が険しくなったのを見て取った。それまで猫の表情が変わったのを見たことがなかったので一瞬どきりとした。それは今までこの猫が自分たちをだましていたのではないかという疑念が浮かんだからだ。

「処刑人気取りの連中から拝借したんだ。もしかして対話が必要か?」猫がうなるように言った。

「対話が必要なのはお前の方だろうアルブレヒト。そのために扉を閉めずにおいてやったんだぞ。大体対話を抜きにしたミスルトウ同士の闘争はご法度だ。それを破れば無条件に排除されることをお前も知らないわけじゃあるまい。それなのにこうして無知な若者を引き連れて私との闘争を企てたわけだ。いったい何を考えている?」

 計画ではハイドリヒを倒したらさっさとホテルから逃走して全員が車に乗り込み、そのタイミングでアルブレヒトが能力を解除する。それで完了のはずだった。誰にも気づかれることはない。しかし田中は今猫に疑念を抱いてしまっている。ハイドリヒを倒すことを躊躇してしまっている。何かが間違っている気がしてならない。マリアと千歳を見ると、二人も田中の方を見ている。同じように躊躇しているのかもしれない。その気配を察したのか猫は一つため息をついて言った。

「きれいごとだよ。君は昔から何も変わっていない。闘争を否定して対話を重視すると言っておきながら、言いなりにならなければ結局は排除する。それに何も知らない人間を無知なままにしておくのが幸福だなんてよく言うよ。人間は生まれながらにして自由なんだ。自ら行き着いた考えを誰に否定される筋合いもない。そもそも君らは神と対話をしたことがあるのかい?なぜ人類が真理を知らないことが幸福だと言い切れるんだ?」

「神がそう定めたからだ。人類が神を知らないのも、真理に気づくことがないのも、神がそう定めたからに他ならない。故に神との対話を試みる必要もない。それが神の望みだからだ。そもそも我々が元々は神の一部であったのだから何も知らずに生きていくことこそが人類の本来あるべき姿なのは疑いようはないだろう。それにだ、闇の真理が広まってみろ。誰もがそれを知った時、もはや神が求めた個としての存在は価値を失う。価値のない人生だ。それを幸福と呼べるのか?」

「だったらまずは闇の真理を知っている君らが消えるべきだろう!なんだって聖人気取りで何の確証もない幸福論を振りかざすんだ?しかも実際にやっていることと言えば人を恐怖で従わせて、従わなければ虐殺している。そのことに対して責任を取ろうともしない!」

 猫はハイドリヒを鋭くにらんだ。田中には二人の話は半分しか理解できなかったが、猫が怒りに燃えているのはわかった。猫のように威嚇している。実際に猫だが。話に置いて行かれるとこんなどうでもいいことに考えが及ぶものである。実際に二人の対話には何ら意味があるとは思えなかった。今重要なことは核戦争を止めることのはずなのにまるで論点がそこに向かない。

「昔から変わっていないのはお前の方だよアルブレヒト。お前の原動力はいつも怒りだった。感情の中でももっとも下位の部類のそれにお前は支配されやすすぎる。感情ではなく倫理で考えろ。確かに我々は真理に矛盾した存在だ。だが真理から人類を守ることができるのは真理を知る者だけなのだ。そのためには誰かが犠牲にならなければならない」

「今度は自分が犠牲者だとでも?話にならない!お前は悲劇のヒーローを気取った偽善者だ!」

「俺もそう思うな」

 いい加減話の方向性を戻すように田中が口を挟もうとしたところで千歳が口を開いた。田中は驚いた。千歳は今の話について行けたのだろうか。

「ハイドリヒ。お前は俺と俺の両親のことは知っているんだろう?」

「ああ知っているよ。彼らはよく働いてくれているからね。社交性に優れ、多くの人間と握手を交わすことで私のネットワークを広げることに貢献してくれている」

「だったら俺が闇の真理に気づいて、それを両親に打ち明けた時、二人が俺がダークレリジョンに排除されるんじゃないかっておびえたことも知っているんだな」

「知っている」

 田中は知らなかった。

「自分は安全な場所にいて、他人を利用して、恐怖で従わせてそれが幸福のためだから仕方ないって?」

「そうだ」

 いつものひょうきんな千歳の姿はもうなかった。顔は赤く、目は血走りダークセーバーを握る手は震えている。田中は千歳が怒っているところを始めて見た。

「お前だけは許せない!」

 そう叫ぶと千歳はダークセーバーを振り上げて大統領補佐官にとびかかっていった。しかし言われた本人はいたって冷静な態度で千歳をにらみ返して言った。

「許してくれなくて結構。お前達を排除する。ジョナサン!」

 大統領補佐官の合図とともにソファの陰から一瞬にして三メートルはあろうかという腕が伸びてきて千歳の首をつかんで締め上げた。さらにソファの陰から新たに腕が三本生えてくる。マリアと田中はダークセーバーで応戦しようとするが、すぐにマリアは足をつかまれて天井近くまで吊り上げられてしまった。田中は迫りくる腕をかわしながらマリアをつかんだ腕に向かってダークセーバーを振り下ろした。その瞬間ガアアアアという獣の叫びのような、故障した機械が唸りを上げるような音が響いた。さらに千歳をつかんでいる腕にもダークセーバーを振り下ろす。またもジョナサンの悲痛な叫びが響き渡った。伸びていた腕はするすると縮んでソファの陰に収まっていく。そしてのっそりと先ほどエレベーター前で見た大男が立ち上がった。しかし先ほどと違って男の腕は四本ある。首を絞められていた千歳はぜいぜい言いながらその姿をにらんだ。もはや誰も躊躇している場合ではないと確信した。

 それにしても田中は自分がこんな動きをできるとは知らなかった。まるでさきほどのミスルトウからの干渉によって眠っていた才能が目覚めたかのようだと思った。それとダークセーバーで実際にミスルトウに対抗できるという事が分かってホッとしていた。

「助かったぜ隆!しかしありゃまるで化け物だな」

「確かに、自分と考えの違う人間を殺すために永遠の命を得ようっていう連中だ。化け物って言葉がぴったりだ」

 二人がダークセーバーを構えなおしたところにマリアも加わった。逆さづりにされたからか顔が赤くなっている。もしかしたらあらぬ姿をさらしてしまったことで赤くなったのかもしれないと田中は思った。しかし今はそんなことはどうでもいい。

「作戦を立てましょ」

 マリアがそう提案したものの、ジョナサンの残り二本の腕が左右から三人を囲むように襲い掛かってきた。左腕にマリアが向かっていき、田中は右腕に向かう。そして二人して襲い来る腕に同時にダークセーバーを振り下ろした。ジョナサンがまた悲鳴を上げる。

 ダークレリジョンにとって今回の襲撃は全くの予想外だった。日本には銃刀法があるが、彼らはそんなことお構いなしで武器を持ち込むこともできた。もっとも二体のガーゴイルを同行させればそれはどんな武器よりも強力なのだが、今回の襲撃者はダークセーバーを所持していた。アルブレヒトがダークセーバーを集めているという噂は広まっていたものの、それが日本に集められていることはアルブレヒトの情報操作で知られることはなかった。おかげでただの高校生にも彼らに対抗できる可能性が生まれたのだ。

「千歳君!」

 マリアが叫ぶまでもなく、千歳は四本の腕を力なく垂らしたジョナサンに向かって走りざまにダークセーバーを振り下ろした。ジョナサンはまさにこの世のものとは思えない断末魔を上げてゆっくりと膝から崩れ落ちた。三人ともその様子をじっとみつめていた。これでジョナサンを本当に倒したのかどうか確信がなかったのだ。そのすきを突かれた。いつのまにか背後に回っていたハイドリヒが万年筆を手にマリアに襲い掛かったのだ。

「マリア危ない!」

 アルブレヒトの叫びを聞いて三人が振り返った。しかし少し遅かった。無情にも万年筆が肉に深く突き刺さる鈍い音が部屋に響き渡った。


 帝国ホテルに到着した男は異常事態に気づいた。ホテルマンも客も警備員もみんなトイレの方を指さして突っ立っている。男はその光景に見覚えがあった。それは間違いなくアルブレヒトの能力によるものだった。男は顔をしかめたかったが、そういった表情は相手を警戒させかねないのでガーゴイルの顔に表れることはない。状況を把握するためにも記憶共有機能をオンにして全てのガーゴイルの記憶にアクセスした。しかし状況を知っていそうな二人のガーゴイルの記憶は、記憶どころか意識ごと認識できなくなっていた。まさかやられたのか。そこでアルブレヒトがダークセーバーを集めているという噂を思い出した。アルブレヒトは今まさにハイドリヒを襲撃しているのではないか。そしておそらく状況はその通りで間違いないのだろうと思った。

男は両肩に乗せた少女二人をロビーのソファに下すと、腰に手を当ててどうするべきかを考えた。

 ダークセーバー相手ではいくらトランスヒューマニズムによって生み出されたガーゴイルでも殺されかねない。それにいまさら加勢に行ってもハイドリヒはすでにやられているかもしれない。ハイドリヒ専属のガーゴイルは最後に帝国ホテルに来るように言った。おそらくその時にはすでに襲撃に会っていたのだろう。だからあちらの記憶を共有することを怠ったのだ。その余裕がなかった。帝国ホテルに来いというのは単に加勢してほしかったのかもしれないが、それでも少女を連れて来いといったのにはおそらく意味がある。

 噂ではアルブレヒトは四つあるすべてのダークセーバーを集めた。それを一人で扱うとは考えにくい。おそらく襲撃者を募っただろう。それも闇の真理に気づいている者だ。ということは少女はその襲撃者の関係者か何かだという可能性が出てくる。これらの情報をヒントに、男はハイドリヒに教えられたこの周辺のダークレリジョンたちの情報を洗いなおしてみた。

「ここは…」

 ソファの上で少女が一人、目を覚ました。姉の方だ。よろよろと体を起こしながら、視線をさまよわせていたがしばらくして男と目が合った。少女は息をのんだ。

男はしばらく少女の視線に視線を返して黙っていたが、あることを思いついた。

「手塚美穂、お前は千歳義孝を愛しているか?」


 マリアの顔は青ざめた。そして万年筆を突きつけている大統領補佐官の腕の先を自分の脇腹のあたりまで視線でたどった。その腕は返り血で赤く染まっている。しかしその血はマリアのものではなく、とっさに二人の間に飛び込んだ猫のものだった。

 大統領補佐官は万年筆をさっと引き抜いた。その拍子に猫はドスンと床に落ちた。

「アルブレヒト!」

 マリアが猫を抱き起そうとする。ハイドリヒはそんなことにはお構いなしに万年筆を握りなおして再びマリアに襲い掛かった。しかしその時、ハイドリヒの背後からダークセーバーの刀身がその体を縦に貫いた。ハイドリヒは短い悲鳴を上げると、全身の力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。その後ろから鳥山さんの姿が現れた。

「大丈夫ですかお嬢様。監視カメラの映像を見ていたら緊急事態のようだったので助けに来ましたよ」

 鳥山さんは実に落ち着き払って言った。ダークレリジョンの抵抗勢力らしいダークインフィニティ。その一員だったマリアの両親とともに活動していた鳥山さんは、もしかしたらこんな状況に慣れているのかもしれないと田中は思った。

 その時後ろで大統領補佐官の呻きが聞こえた。

「アルブレヒト…私は…お前は…必ず…失敗する」

 大統領補佐官はそう言い残すと目を開いたまま動かなくなった。田中にはその言葉の意味は分からなかったが、なぜかハイドリヒは笑っているように見えた。

「ちくしょう!大丈夫かアルブレヒト!?」

 千歳がマリアに抱えられている猫に叫ぶ。田中も猫の様子をうかがう。この時ばかりはずっと猫のことを信用できないでいた田中も本気で心配した。なにせこの猫はマリアの命を救ったのだ。

「やあ、皆さんお揃いで。アルブレヒトだよ」

「馬鹿野郎、なんだこんな時に。それより大丈夫なのか?」

 千歳がもう一度聞く。猫はマリアが手で抑えている脇腹のあたりから出血していたが、話し方はさほど辛そうなものではなかった。なので千歳も少し安心したように聞いた。しかし安心したのもつかの間、猫はせき込みながら吐血した。

「大丈夫じゃないかな。だけどいいんだ。君たちがやり遂げてくれた。ついにハイドリヒを倒したんだ。それが重要だ」

 その言葉に田中は違和感を覚えた。それは今までもここに来てからもずっとあった違和感だった。どうしてもぬぐい切れないが具体的な形を得ることのない違和感。しかし今はそんなことを気にしている場合ではなかった。

「早くここから逃げなきゃ。今も誰かが不審に思ってこっちに向かってきてるかもしれない」

「そうですね、私がここへ向かってくるまでは外のカメラも見張っていたので、誰も近づいてきていないことを確認していましたが今はわかりません。急ぐに越したことはないでしょう」

 やはり冷静に鳥山さんが言う。マリアは今にも泣きだしそうな顔で田中を見た。何かを言おうとしたらしかったが逆に口をきつく締めると涙を見せまいと必死で我慢して立ち上がった。今やるべきことはここから無事脱出することだと決意したかのように。その時マリアが抱えていたアルブレヒトが悲鳴を上げた。

「だめだ。僕は助からない。ここに置いて行ってくれ。それより田中君の言うとおりだ。君らは早くここから出なくちゃいけない。僕の能力でみんなを止めておけるのは僕が生きている間だけなんだ」

「そんな」

 マリアは今度は我慢しきれずに目から涙がこぼれた。

「大丈夫だ。僕はミスルトウだから。またいつか誰かの体でみんなに挨拶に行くさ。だけどそれはみんなが無事にここから逃げれたらの話だから。そうだな、視界はやたら低いし、音やにおいに敏感になりすぎるけど、分かりやすいようにまた猫の姿で会いに行くよ。それに猫の姿だと驚くほどみんな心を開いてくれるんだ」

 それを聞いて何度もうなずきながらマリアはそっと猫を床に置いて、傷口を抑えていた手を離した。とたんに猫の傷口から血があふれ出した。全員が顔をしかめた。マリアはコートを脱いで止血帯にしようとしたがアルブレヒトが叫んでそれを止めた。

「早く行くんだ!」

 四人は名残惜し気に猫の方を見てから部屋を出た。

 あとはここから立ち去るだけだ。気持ちが焦る。非常階段を駆け下りてホテルのロビーに出た。出口はすぐそこだ!

 しかしそこには絶望が待っていた。三度ジョナサンが立ちふさがっていたのだ。その傍らには一人の少女が立っていた。後ろに見えるソファにはもう一人少女が寝かされているのが見える。二人の少女はアルブレヒトに操られていない。つまり外部からきてジョナサンの人質にされてしまっているのだ。

「美穂!?なんでここに…」千歳が震える声で言った。


「千歳君あの子のこと知ってるの?」

 鶴野マリアが聞いて田中隆ともう一人の女も千歳義孝の方を見た。

「ああ、俺の彼女だ」

 千歳義孝の声は一層震えた。

 彼らの様子を見てジョナサンはやはり読みは当たっていたのだと確信した。情報を洗いなおすよりもまず手塚美穂は千歳義孝のガールフレンドである。アルブレヒトの襲撃計画に手を貸しそうなのは手塚美穂の近くだと手塚果歩だが、当の本人は気絶してソファーで眠っているのだから除外していい。ということはボーイフレンドの千歳義孝がダークレリジョンでありながら襲撃者だという事になる。

「義孝何してるの?」今度は手塚美穂が震える声で言った。

「美穂、今説明している暇はないんだ。すぐにその男から離れてくれ!」

 千歳義孝は叫びながらダークセーバーを構えてジョナサンに向かって行った。三人もそれに続く。しかしジョナサンが手塚美穂の頭に手を乗せたのを見て立ち止まった。

「その手をどけろ!美穂に触るな!」

 わめく千歳義孝をよそにジョナサンは手をどけることなく話し始めた。

「私がその気になれば彼女の頭を粉砕することは簡単だ。しかしそれは私も望まない。君らがハイドリヒとここにいた他の二人の私を殺したのだとしてもね。ところでアルブレヒトはどこだ?君らの中にはいないように見えるが」

 ジョナサンは一人一人の顔を順番に眺めたが、やはりそこにアルブレヒトらしき目を見ることはできなかった。しかし鶴野マリアと田中隆の目に困惑を見た。

「ここにいたジョナサンは一人しか倒してないはずだ」田中隆が言い、鶴野マリアも同意の顔で頷いた。

「二人が三二六号室に向かった後俺が殺した。たとえ動けなかろうがマリアが仇を打つのをやめようが、こいつらは悪だ。悪に容赦はしない」千歳義孝がこちらをにらみつけながら言った。

「まあいい、アルブレヒトは大方相打ちにでもなったんだろう。ところで君らは手塚美穂を救おうとしているようだが、果たして彼女もそれを望んでいるのかな」

 千歳義孝の顔に困惑が浮かんだ。今にも望んでいるに決まっているだろうと叫びそうだったが、先に美穂が言った。

「義孝もうやめよう」


 千歳は耳を疑った。美穂は「もうやめよう」と言ったのか?何故だ。何故俺がやめなければいけない。俺は美穂を救おうとしているのに。悪に立ち向かっているのに。そのために田中とマリアが見逃した相手さえ殺したというのに。

「美穂…どういう…」動揺で喉が詰まって言葉が出てこない。

「義孝はダークレリジョンなんでしょ?ダークレリジョンは世の中を良くしようとしているんでしょ?それなのにそこの田中隆に影響されてダークレリジョンが間違ってるって、だから立ち向かわなきゃいけないって思っちゃったんでしょ?でもそんなことないから、今からでも遅くないから、私と一緒にダークレリジョンに戻ってきてよ」

 やはり美穂の声は震えている。しかしそれはジョナサンに殺されそうになっているからなのか、それとも本気で千歳に今の言葉を言ったからなのかが分からない。いや、殺されそうになっているからに決まっている。誰だって拳銃を突きつけられたら動揺するものだろう。ガーゴイルの手でつかまれているのはそれと変わりない。つまり美穂は言わされているんだ。

「落ち着くんだ美穂、お前は自分が何を言っているかわかってないんだ。絶対に助けるから。おいジョナサン!何度も言わせるな、その手をどけろ!」


 義孝たちがロビーに駆け下りてくる少し前、意識を取り戻した美穂は男をにらみつけながらおびえていた。男はつまらないようなものを見る目で美穂を見下ろしている。しかしその表情は人を警戒させない穏やかな表情だ。男が「お前は千歳義孝を愛しているか?」と聞いてきたときの声にも威圧感はなく、まるで美穂に寄り添おうとしているようにも聞こえた。それでも美穂は警戒を怠らなかった。気絶している果歩を見て体をゆする。しかし美穂と違って感電によって気絶した果歩が目覚める様子はない。

「手塚果歩、溺愛しているお前の妹は果たして君が期待していた通りの妹だっただろうか。ずっと正体を隠してダークレリジョンを壊滅させようとたくらんでいるテロリストだったんだぞ。彼女がそんなものに加担したせいでお前も巻き込まれた」

 男が淡々と言葉を並べていく。男の表情のおかげなのかしゃべり方のおかげなのか美穂は次第に緊張が解けていっていた。そしてふつふつと怒りがわいてくる。

「お前のボーイフレンドの千歳義孝は我々の仲間だ。だが、こともあろうに手塚果歩の仲間に手を貸している。世界に平和と安定をもたらすダークレリジョンを壊滅させようとしているのだ。お前にとっては残念だろうが私は彼を殺すだろう。やったことの責任は取ってもらわなければならない」

「ふざけるな!人を誘拐しておいて偉そうなこと言うな!」

「ふざけてなどいないさ、世の中には人間が溢れすぎている。平和と安定のためには多数のために少数を犠牲にする必要があるんだ。我々ダークレリジョンにはそのための力がある。お前には理解できるのではないか?ステータスを得て世の中でのし上がり、力を得てこそ間違いを正せるのだ。力のない正義など悪より悪い」

 美穂は混乱し始めた。この男が言っていることは正しい。美穂には世の中を正すなんて大それたことを考えたことはなかったが、ステータスを得てこそ間違いのない人生を送れると信じている。だがこの男は義孝を殺すと言っている。果歩のことも殺す気でいるのかもしれない。だが考えてもみれば果歩はダークレリジョンを壊滅させようとしていたというし、義孝はダークレリジョンでありながらそれに手を貸していたという。何故?ダークレリジョンが正しいなら真っすぐな性格の義孝がそんなことに手を貸すはずがない。そこで美穂は思い当たった。田中隆!!きっと変人と名高い田中隆に影響されて義孝はおかしくなった。

「千歳義孝を殺さないで済む方法がある」

 美穂が動揺し始めたのを見たからか、男は提案してきた。その声はやはり落ち着ている。

「君が間違いを正すんだ」


 こうして美穂は今、義孝の前に立ちはだかることになった。

「私もできれば人質を取るなんてことはしたくない。だがハイドリヒを殺されたのだからしかたがない。それでもこうしてチャンスを与えているんだ。そのテロリストどもと一緒に殺しをつづけるのか、それとも我々の仲間に戻って手塚美穂と平和に暮らすのかどちらかを選べ」

 千歳は感情的になっていた。人質を取っても相手を言いなりにしようとする、おびえて暮らしている両親を言いなりにする、そんな連中が正しいわけがない。

 千歳は田中とマリアの顔を見た。二人ともどうしていいのかわからないといった顔をしている。それもそのはずだ。これは千歳自身の問題であり二人は関係ないのだ。

「隆、鶴野、俺を信じてくれるか」千歳は声の震えを抑えながら言った。

「どうするつもりなんだ?」

 田中の声には焦りがあった。今はまだアルブレヒトの能力で周りの人は気づいていないがそのうち能力は解除される。きっとそれに対する焦りだろうと思った。

「ダークセーバーを捨ててくれ」

 二人はなおも困惑したが、鳥山さんは黙ってダークセーバーを床に落とした。何を考えているかわからない人だが、もしかしたら千歳のやろうとしていることを真っ先に理解してくれたのかもしれない。相手が何を考えているかわかる人間なんているわけないが、分かってくれるはずだと信じることはできる。

 田中とマリアも戸惑いながらダークセーバーを床に落とした。千歳は心の中で三人に感謝した。相手を信じるときは相手にも信じてもらわないといけない。そして自分もダークセーバーを手前に掲げて手を開いた。ジョナサンはそれが床に落ちていく様をじっと目で追っていたが、床に落ちる前に千歳が蹴り上げた。ダークセーバーにはそれなりの重量があったが、サッカー部エースの千歳の蹴りはそれを高く宙に舞いあげた。舞い上がりすぎた。ダークセーバーはジョナサンの頭上を越えて後ろのソファの上に転がった。千歳は顔をしかめた。しかしそれはジョナサンにダークセーバーをぶつけることができなかったからではなく足を痛めたからだった。

「千歳義孝、妙なことは考えるものじゃない。お前たちは…」

 ジョナサンがそこまで言ったところで背後からその腕にダークセーバーが振り下ろされた。ホテルのロビーに悲鳴が響き渡る。美穂はそのすきに動かなくなったジョナサンの腕から解放された。ジョナサンがゆがませることのできない顔で後ろを振り返る。するとそこにいつの間にか目覚めていた果歩がいた。ジョナサンは何かを言おうとしていたが背後から千歳がダークセーバーを振り下ろす方が早かった。


 田中たちはロビーにいる人たちがまだトイレを指さしている間になんとか帝国ホテルを出ることができた。美穂と果歩を加えた一行はコインパーキングまでの道を急いでいる。道中一度だけ田中は振り返った。警備員はまだトイレがあるであろう方向を指さして突っ立っていたが、しばらく見ているうちにまるで何事もなかったかのように動き始めた。それはアルブレヒトが死んだことを物語っていた。


 マリアの家に向かう車の中で、助手席のマリアは手に付いたアルブレヒトの血を見ながら押し黙っていた。鳥山さんは運転に集中しているし、もともとあまりしゃべるほうでもないようだ。すし詰め状態の後部座席では田中が深刻そうな顔でうつむいているし、田中と千歳の間では美穂が膝に果歩を乗せてその背中に顔をうずめて泣いていた。果歩はいつも通りのぼーっとしたまなざしで前を見つめている。そんな感じで車内は陰鬱とした空気が漂って静まり返っていた。千歳も今回の計画が百パーセントうまくいったとは思っていなかった。誰も傷つかないはずがアルブレヒトが死んだのだ。そのうえ美穂が人質に取られるという予想外の事態も発生した。幸い美穂に怪我はなかったが、恐怖を植え付けられただろうし、千歳自身足を怪我した。しかし当初の目的は達成できた。これは誇っていいことだと思った。

「なあみんな。俺たちは重大なことをやってのけたんだ。世界を核戦争から救ったんだぜ!?アルブレヒトのことは俺も残念だけど、あいつは自分を犠牲にして俺たちを逃がしてくれたんだ。悲しむよりも喜んでやるべきだと思うな!それにまた猫の姿であいさつしに来るって言ってたし!」

 マリアと田中が千歳を見る。そして示し合わせたかのように二人して何度も頷いてから「そうだな」「そうね」と重ねて言った。それを見て千歳が笑ったので、二人は困惑しながら座席越しにお互いの顔を見た。そして二人も笑った。次に千歳は狭い車内でどうにか体を美穂の方に向けてやさしい声で語り掛けた。

「美穂、今回のことは本当に悪かった。でももう大丈夫だからな」

 千歳は本当はそんなことを言いたかったのではない。美穂がジョナサンに人質に取られていたときに言ったことが本心だったのかを聞きたかった。しかし今は聞くべきではないと思った。

 果歩の背中から顔をあげた美穂は千歳の顔を見てその考えを察した。しかしそのことには触れずに「なにがなんだかわけわかんないけど、義孝も果歩も助けてくれてありがとう」と涙声で言った。果歩は「姉ちゃん…」と何か言いかけたが言葉が見つからなかった。

「二人とも巻き込んじゃってごめんね」助手席からマリアが言った。また空気がしんみりし始める。

「ところで田中さんは一体何者なんです?エレベーター前でお嬢様と襲われた時、とんでもない身のこなしであの大男と格闘してましたけど。まるで瞬間移動でもしているようでしたから、カメラが故障したかと思いましたよ」

 空気を読んだのか読まなかったのか鳥山さんが話題を変えた。コントロールルームにいた鳥山さんはあの一部始終を見ていたらしい。千歳もそのことは大いに気になっていた。美穂が人質に取られた時もその身のこなしでジョナサンをやっつけてくれたらよかったのにとも思ったが、済んだことはもう良かった。それにその時田中だけでなくマリアや鳥山さんも千歳を信じてくれたことに感謝もしていた。

「そうだ他のミスルトウの干渉がどうこう言っていたけど、どういうことなんだ?」

「いやーあれについては今正確に話せることは特にないかな…正直僕自身よくわかってなくて」

 田中はちょっとまごつきながらそう言った。千歳は何か詳しく話せない事情でもあるのだろうかと思った。

「エーリヒって呼ばれてたみたい。その名前に何か心当たりがない?」

 マリアがそう言ったのを聞いて反応したのは果歩だった。果歩はマリアに首を振って見せている田中をジトっとした視線で見た。しかし何も言わなかった。


 マリアの家に着く前に美穂と果歩の家を通ったので、二人はそこで降ろしてもらうことになった。千歳は二人の後を追って車を降りると、美穂に「一緒にいなくて大丈夫か?」と聞いたが、美穂は少し休みたいからと言って断っていた。そのタイミングを見計らって果歩は後部座席の田中に話しかけた。

「ちょっといいですか?」

 田中は果歩を見ると「なんだ?」と返してきた。

「目を閉じてください」

 田中は一瞬戸惑ったが素直に目を閉じた。果歩はもしかしたらこの男はキスをされるかもしれないと思ったかもしれないと感じたが、すぐにその考えを振り払って「エーリヒ」と呼びかけた。それを聞いて田中が目を開いたときにはすでに果歩は用事を済ませて姉とともに家に入って行くところだった。

「姉ちゃん大丈夫?」

 果歩はよろよろ歩く姉を支えながら聞いた。ジョナサンにくらわされた一撃がまだ後を引いているのかもしれない。美穂は黙って頷いた。しかし部屋に入った途端ベッドに倒れこむと、いつものぬいぐるみに顔をうずめながら泣き崩れた。果歩はしばらくその様子を黙って見つめることにした。状況を一度は説明したにせよ、いきなり彼らの闘争の現場に巻き込まれてしまっては混乱してもしょうがない。それも彼氏と妹が関わっていたのに美穂は何も知らなかったのだ。


 美穂と果歩を降ろした後の車内で突然マリアが言った。

「あの!鳥山さん、ありがとうね、助けてくれて」

 田中も千歳もキョトンとした。そしてどうやらマリアが黙り込んでいたのはアルブレヒトが死んだことや、美穂と果歩が巻き込まれたことだけが原因ではなかったのだと理解した。

「まだお礼言ってなかったから…」マリアが消え入るような声で付け加えた。

「いいんですよ。私の役目はお嬢様をお守りすることですから」

 運転していたので視線こそ合わせなかったが鳥山さんは微笑んでいた。田中も千歳もこの二人の関係が微妙なものなのは察しがついていたが、両親の死を隠すことでマリアを守っているつもりだった鳥山さんが、ハイドリヒを倒してマリアを守ったことは今後二人の関係を修復するきっかけになるのではないかと思えた。そこで千歳は田中を見ると田中もこっちを見ていたので二人して小さく笑った。

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