第11話
翌朝、学校は赤の男爵の話題で持ちきりだった。今日一日どの先生も気味が悪いほど機嫌が良く、皆一斉に宿題を減らしたので、事情を知っている僕だけが、他の生徒が訝りやしないかとハラハラした。
休み時間になるとクラスメイト達はこぞって男爵の話をし、僕はそれを机に寝た体制で聞いていた。
田中が興奮した顔で新聞を持って近付いて来る。
「すごいよ! D市ってここの近くじゃないか! 前回といい、二度もうちの近くで男爵が現れたんだよ、見たかったよなあ。それにしても」
僕の頭を軽くこづく。
「何だよ、藤堂、お前誤って背中痛めたんだって? どおりで湿布臭いよ、親父じゃないんだからさ」
「悪かったな」
顔だけを上に向け田中を睨んだが、田中は思い切り無視して、うっとりと宙を見つめている。
「ほんと見たかった、かっこ良かっただろうなあ。お前も見習えよ」
「はは・・・」
かっこ悪い男爵ならここにいるよ、と言う言葉を僕はかろうじて飲み込んだ。
放課後地下室に行くと、上機嫌の先生達が迎えてくれた。学長が満面の笑みで言う。
「いやあ、上出来だよ、藤堂君! 昨日君がやった事を聞いた時は、胸がすく思いがしたよ。背中は大丈夫、ちょっとひねっただけだから、若いからすぐ治るよ」
化学の青山先生が煙玉を手に笑った。
「僕の発明品は役に立ったでしょう。これからもどんどん作りますよ。使ってくださいね」
「初めての仕事で、よくやったな。赤の男爵の影武者に相応しい」
北島先生の言葉に笑顔を返したが、少し引っかかった。
影、なんだよな。
「ありがとう」
声のした方を振り向くと、知らない間に赤の男爵が立っていた。音を立てずに近付くと、シルクハットのつばに左手をかけ、優雅にお辞儀した。
「お陰で助かりましたよ」
「あの、い、いえ」
僕は顔が赤くなるのを感じた。
やっぱり本物は違うな。
全身から自信と貫禄に満ち溢れているが、敢えてそれを見せ付けようとしない。
即席の男爵とは大違いだ。
僕はそっと微笑んだ。
影でいいじゃないか。
僕は今、自分ができる事をやればいいのだから。
背中は一週間ほどで治ったが、男爵の次の仕事には少し間があった。
その間僕は自主的に毎日筋トレをし、長距離も走るようにした。美術館や博物館へもよく出かけるようになった。美術に全く疎くても、少しでも自分なりに物の持つ気を感じ取りたかった。毎日部活を理由に帰りの遅い僕を、両親が心配したので勉強もするはめになった。親は成績が下がるのではと思ったらしい。幸い地下室にはいつも誰か先生がいたので、分からない部分や宿題を教えてもらった。
とにかくできる事は何でもした。
そうして一ヶ月が過ぎ、学長が次の標的を告げた。二週間の準備期間は慌ただしく過ぎ、当日を迎えた。
車内で僕と北島先生は最後の打ち合わせをしていた。先生がカーナビを指差した。
「赤の男爵はこのT字路を西から東へ走ってくる。警察もそれに続くから、君はこの南側で立って、男爵が行った後、警察をひきつけて欲しい。南に下った先に廃屋のビルがあるから、その屋上まで出るんだ。そこで我々はヘリで君を回収する。いいね? 」
T字路で車は停まった。僕を降ろすとすぐに走り去る。
僕は発見されやすいように、わざと街灯の下に立った。
少しして通りから足音が聞こえてきた。
一人。
一瞬、赤の男爵が前の通りを走り去って行った。速い。
よし。
僕は身構えた。
やがて騒がしい複数の足音が聞こえ、真田刑事を筆頭に警官が数人躍り出た。
刑事はそのまま行き過ぎようとし、ふとこちらを見た。
目があった瞬間、僕はきびすを返して走り出した。
「あっちだ! 」
真田刑事が叫ぶ。僕は背後をちらりと見た。うまくいった。皆ついてきている。
何度か入り組んだ路地を通り抜け、全速力で駆ける。指示されたビルへまっしぐらに走った。
目標のビルに着き、辺りを見回す。
まだ刑事達は来ていないようだ。
僕はビルの外側にある非常階段を見上げた。階段と言うより鉄製の古びたはしごが、かろうじて壁にくっついている。
学長の言う通りこれは使えないな。
僕はこの時の為あらかじめ開けられていたビルのドアを開け、内側から鍵をかけた。階段を四階まで一気に駆け上がり、屋上に出る。
もう追いつけないだろう。
赤の男爵の扮装を脱いだ。闇に同化するような、真っ黒な衣装が現れる。
「いたぞ! あそこだ! 」
通りに目をやると、刑事達がこちらを指差し、走って来るのが見えた。真田刑事は錆付いたはしごを一瞥すると、
「君達はドアへ! 」
残りの警官をドアへやり、一人はしごに手をかけた。
ぎっ、ぎぎっ、
はしごが嫌な音を出し、不安定に揺れる。僕は取っ手の部分を見た。
コンクリートに打ち付けられた二本のボルトがゆるんで、今にも取れそうだ。
刑事はそれに気付く筈もなく、急いで上がって来ようとしている。
階下から、警官達のドアを蹴破ろうとする音が聞こえる。
僕はそちらに気をとられながらも、揺れるはしごから目が離せず、金縛りにあったように立ち尽くしていた。
やがて真田刑事の頭部が見え、精悍な瞳が見えた。僕を見て一瞬にやりと笑い、一層はずみをつけて上ってくる。
ボルトが限界にまで達している。
思わず声を上げた。
「駄目だ! 動くな!! 」
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