第9話

僕は茂みの中で息を潜めていた。腕時計に目をやる。十時まであと五分だ。

暗闇の中に博物館がサーチライトを浴びて浮かび上がっていた。その周りには警備に当たる警官達の姿が見える。春の夜風が僕の頬を撫でていく。静かな夜だ。

僕の手が微かに震えていた。手袋をはめていてもはっきりわかる。止めようとしても止まらない。時間が迫ると共に緊張もピークに達していた。

僕は茂みの中でそうっと息を吸い込んだ。未だ自分が着ているとは信じられない、赤の男爵の衣装を見下ろす。

大丈夫。赤の男爵は絶対に失敗なんかしない。僕は、落ち着いてやればいい。

僕がすべき事を。

五分間が恐ろしく長く感じられた。腕時計の針がゆっくりと動いていく。

三・・二・・一

突然博物館の全ての明かりが消えた。

「何だ! 」

「落ち着け! 」

建物の内外から警官達の驚いた声が聞こえる。続いて窓ガラスが数枚割れる音がし、僕の周囲にいた警官達が音のした方向へ走って行った。

暗闇の中に目を凝らすと、やがてガラスが割れた方とは反対の窓から人影が見えた。赤の男爵だ。ロープで三階の窓から素早く降りると、彼は音もなく走り去って行った。

一瞬こちらを見た、ような気がした。

今だ。

僕は茂みから飛び出し、走り出した。遠くに数人の警察官が見える。背後で声がした。

「赤の男爵だ! 追え!! 」

 裏門から抜け出し、僕はマントをなびかせ小さな通りを走った。シルクハットが脱げないか気にしながら。

 少し走って次の角を左へ曲がる。

 大丈夫。予定通りだ。

すると、突然僕の目の前を、A地点へ行ったはずの赤の男爵が横切った。

「えっ!? 」

 な、何でここに!?

 男爵もこちらに気付き、立ち止まると大きな声を上げた。

「わっ!! も、もしかして、赤の男爵? ほ、ほんものお!? 」

 違う。男爵じゃない!

 よく見ると大柄だし衣装の色も微妙に違う。

学長が言っていた男爵のファンなのだろうか。

 赤の男爵の格好をした男は、ほ、本物!? 感激だなあ、等と言いながら近付いてくる。

 正体を見られる訳にはいかない。

「あ、あの、違う!! 」

 僕は仕方なく赤色の衣装を脱いで見せた。


赤い服は黒の衣装の上からスナップボタンで簡単に留めてあるだけ、シルクハットとマントは表が赤色、裏が黒のリバーシブルだから簡単に衣装替えができる。覆面や手袋は黒のままだけど。

北島先生の言っていたこれが、赤の男爵の変装で、遠目から見れば充分男爵に見える。

「なんだあ! ご同胞かあ!! 」

 黒い衣装に早変わりした僕を見て、男は大げさに肩をすくめてみせた。

それにしても声が大きい。警察が聞きつけやしないだろうか。

そっと周りに視線を走らせた。

男は全く気にした風もなく大声でしゃべり続けている。

「でもさあ、おたく、赤の男爵見なかったあ!? 俺もうすっごいファンでさあ!!かっこいいよなあ、この前なんか・・・ 」

「しーっ! 声が大きいって!! 全然見てないよ、じゃあね」

「そうかあ、見てないのかあ!! じゃあ、あっちの方に行って見ようかな」

「だ、駄目だ! 」

そっちは赤の男爵が逃げた方向じゃないか!


止めようとしたその時、

「こっちだ! 」

 男の声が聞こえた。

振り返ると警官達がこちらに向かって来ている。

「やべえ!! 」

 コスプレ男が路地裏へ逃げ出す。

僕も慌てて駆け出した。

「いたぞ! 追え!! 」

 背後で警官達の足音が横道へ逸れて行った。どうやらコスプレ男の方を追っていったようだ。

 僕はほっとしつつも全速力で駆けた。

 路地を幾つか走り抜け、街灯が壊れた薄暗い通りに出る。

 もうすぐだ。

 角を曲がろうとしたその時、前方から警官達が走って来た。五人はいる。

え。

振り返ると後ろからも数人がやって来る。

 見破られていたのか!?

警官達が前後からじりじりと僕を包囲する。

前の警官達の中から、背広を着た若い男が息を切らしながら近付いてきた。

浅黒い、精悍な顔。


真田刑事だ。

「見損なうなよ、ここらへんは地元でね、脇道は子供の頃から知り尽くしてるんだ。男爵マニア野郎のおかげで時間を食ってしまったが、ここまでだったな、赤の男爵」

 僕は一歩下がった。

刑事がさらに近付く。

もう一歩。

街灯が僕を照らし出す。 

「何? お前・・・」

 真田刑事が当惑した顔で僕を上から下まで見つめた。

「赤の男爵じゃ・・ない・・のか? 」

しまった! 

僕は一瞬自分の黒いタキシード姿を見下ろした。

ずっと着ておくべきだったのに。

学長の言葉が蘇る。

__最近熱狂的なファンがいてね。赤の男爵の犯行現場に同じコスプレをして現れる人達がいるんだ。

__ファンだと思われたらカモフラージュの意味がなくなる。

__君は、あくまで赤の男爵だと信じさせなければいけない。

__赤の男爵だと。


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