第二章、ふたりぼっち

六、聖アリス教会

傾国の毒婦、アスモデウス。

 初代魔王の代から恐れられている伝説の女魔族。

 美しい容姿とは対照的にその身に飼う毒を使い、残虐非道な殺人を好む筋金入りの悪魔だった。そして、強い力を持つ者に魅かれる彼女は、歴代の魔王に近付きこれを殺そうと画策していたと言われている。

 第七代魔王の手によって、その身は玉座の下へと封じられており、玉座の間には魔王の許可なく入ることを禁じられた。


「……で、実際のところはどうなんだ?」

 読んでいた古い歴史書から顔を上げたナギに、アスモデウスは妖艶な微笑みを返した。

「そうですわねぇ。まあ、間違ってはいませんけれど」

「初代魔王の代から生きているってことはアンタ今、幾つなんだよ」

「一万を超えてからは数えるのが面倒になってしまって……。幾つだったかしら?」

「うへえ……」

 どこか遠い目をしながら、歴史書を元の書棚に戻していると、アスモデウスが近くに寄ってくるのが気配で分かった。

「何だ?」

「貴女のその目。どこかで見たことがあるのだけれど、一体どこだったかしら?」

「そういえば、ヴォルグにもそんなこと言われたことがあるな」

「あら? 陛下も同じことを?」

「ああ」

 アスモデウスの魔法の所為で綺麗さっぱり吹き飛んでしまった玉座の間の修繕作業の音がカンカン、と小気味良い音を響かせる。

 書架の中にまで聞こえてくるそれに、少しだけ眉根を寄せながら、ナギは己の右目をそっと抑えた。

「魔力ってのは瞳の色で強さが分かるんだろ?」

「ええ。紅、蒼、翡翠、銀。大きくはこの四つに分けられているんだけれど、昔はそこに金色も混じっていたわ。……確か、紅の次に魔力が強いとされていたはずよ」

「なるほど、じゃあアンタの目の色だと、紅と蒼の中間って感じなのか」

「そうなるわねぇ」

 ふふふ、と笑った彼女に、ナギは何とも言えない表情を浮かべた。

 窓ガラスに映る己の瞳に指を滑らせる。

 金色の瞳は、母が残した形見の一つだった。

 幼い頃は鏡を覗き込めば、そこに母が居るような気がして嬉しかったけれど、十五を過ぎた頃には見慣れてしまって、興味を持つことはなくなった。

「そんなに珍しい色かぁ?」

「ええ、とっても。貴族が知れば、喉から手が出るほど欲しがるでしょうね」

「ふーん?」

 アスモデウスの指先がナギの頬を伝う。

 その肌の冷たさに、ナギは思わず上擦った悲鳴を上げた。

「ひ、冷たい! 離せ馬鹿!」

「あら、つれない」

 くしゃり、と撫ぜられた頭に、子供扱いされているような気分になって落ち着かない。

 少しだけ熱くなった頬を気取られないように、アスモデウスの腕を払いのけると、ナギは再び書棚の物色を始めるのであった。

 

 ナギが人間界を離れてから、約一ヵ月。

 聖騎士団、第一部隊「ティルフィング」が消息を絶ったという情報は世界中を駆け巡っていた。

 第一部隊と言えば、聖騎士団の中でも選りすぐりの精鋭で構成された部隊だ。魔王の討伐に向かった彼らが消息を絶った――それは即ち、魔王に殺されたことを意味する。

 聖騎士団の上層部に当たる、聖アリス教会は魔族に対抗する即戦力を失ったことに混乱を極めていた。

大聖人ファーザーはおられるか!」

 瞑想中の礼拝堂に、低く激しい声が響く。

 激情を声に乗せ、青筋を浮かべる男に白髪頭の男性がピクリ、と片眉を上げた。

「何事ですか、ジグ。神聖な儀式の最中ですよ」

「これをご覧になられても、まだ同じことが言えますか!」

 ジグ、と呼ばれた男がまたも声を荒げる。

 瞑想どころではなくなった人々がざわざわと口々に言葉を発するのに対し、白髪の男性は深い溜め息を零す。

「今日はこれまでと致しましょう。また来週、お越しになってください」

 さようなら。

 満面の笑みで人々を礼拝堂の外に追い出すことに成功すると、未だ紙を手に翳したまま憤慨しているジグに白髪の男性は三度溜め息を吐き出した。

「それで、それは一体何なのですか?」

「死亡者記録の数が合わないんですよ!!」

「何?」

 男はジグから記録の書かれた紙をひったくった。

 上から流れるように第一部隊の戦士たちの名前と、戦場で回収した死体の数とを見比べる。そして、死者の記録に無い戦士の名前を見て、絶句した。

「……よりにもよって、あの忌み子か」

「如何致しましょうか、大聖人?」

 静かに、けれど怒りの気配を纏った声に大聖人は笑う。

「アレは我々のモノだ。必ず探し出せ」

「御意」

「――聖人ブラザー、ジグ。分かっているとは思うが、アレは唯一無二の存在。必ず生きたまま連れて帰ってくるように」

 ジグの手には、煌く白刃の太刀が握られていた。

 刃と同じ、妖しい光が宿る瞳を一瞥して、大聖人は礼拝堂を去っていく。

 その大きな後姿を見送りながら、ジグは人知れず笑みを浮かべた。

「待っていろ、ナギ。俺が必ず見つけてやる。そして、」

 今度こそ、俺のモノに。

 ステンドグラスに反射した白刃が、礼拝堂の中をゆらゆらと蠢いていた。


「さみぃ」

「やあね、風邪かしら? 窓を閉めましょうか?」

「ああ、悪ぃな」

 アストライアのドレスを新調にやってきたマリーに、ナギはふるふると首を横に振った。

 季節はすっかり、秋になった。

 ナギが魔界に来てから一月。たった一月でこんなにも気温が変わるものなのか、と人間界に居た頃に思いを馳せていると、中庭でヴォルグとベヒモスが白い息を吐きながら、せっせと花を摘んでいるのが見える。

「元気だな、アイツら。寒くねえのか」

「魔界の秋はいつもこんな感じですわ。それに、今年は例年より暖かいくらいですし。人間界は夏が長すぎるのでは?」

「何だ、行ったことがあるのか?」

「布地を買いに行くことがありますの。レヴィ様から腕の良い染め物の卸問屋を紹介して頂いて……。おかげで、ほら!」

 こんなにたくさん安値で買えましたわ。

 ずらり、と並べられた色鮮やかな布地に、ナギは思わず小さな拍手を贈った。

「綺麗なもんだな。これがドレスや服に、ねえ」

「これとか、貴女が好きそうだと思って見繕ってきたのだけれど、どうかしら?」

「お、いいな。あーでも、またドレスを着せられたら堪ったもんじゃないし……」

「良いではありませんか! 減るものもないのに、着てくれたって!」

「減る! 俺の中で何かが確実に減るから嫌だ!!」

 マリーはナギのことが気に入ったようだった。

 城に来る度、ナギを捕まえては新作のモデルになってくれ、色地を選ぶのを手伝ってくれだの適当な理由を並べて彼女とお喋りするのを楽しみにしていた。

「今日だけ!! 今日だけで構いませんからぁ!」

「絶対嫌だって!! アレだろ、今夜の舞踏会に連れ出そうって魂胆だろ!!」

「な、何故知っているの!」

「アストライア様に聞いたんです~! あの人、ああ見えてお喋りなんだぜ?」

「くぅう!! 今日こそは、と思っていましたのに!!」

 心底悔しそうに唸るマリーに、ナギは声を立てて笑った。

「つーか、俺みたいなやつにドレスを着せて何がしたいんだよ」

「あら、楽しいですわよ? 貴女のように美しい人を着飾ることが私の生き甲斐ですもの」

「あ、そう」

 じわじわ、と熱が頬を侵食していく。

 肌が火照っているのが嫌でも分かって、ナギはムッとした。

「あら、照れていますの?」

「照れてねえ」

「あらあら、まあまあ!」

「だー! もう! 近いっての!!」

 離れろ、と叫んだナギに、今度はマリーが声を弾ませる番だった。

 

 部屋の中で楽しそうに笑い声を奏でるナギとマリーの姿に、ヴォルグはそっと目を細める。――ナギは近頃、よく表情を変えるようになった。

(まるで、万華鏡の中を覗いているみたいだ)

 声も出さずにじっと部屋の中を見ていたものだから、ベヒモスが不審に思ったのだろう。

 ネモフィラの花を抱えた彼の橙色の目に己が映っていた。

「あ、ごめん。今夜の花を選ぶんだったよね」

「何か浮かないことでも?」

「いいや。彼女を見ていたら、飽きないなと思って」

「ああ、ナギ殿ですか」

「君もそう思うだろ?」

 二人して、くすくすと小さな声で笑えば、部屋の方で悲鳴が上がった。

「だから!! 着ないって言ってんだろ!!」

「ちょっとだけ! ちょっとだけで良いから、着てくださいな!」

「そうよ、ナギ。私も貴女のドレス姿が見てみたいわ」

「アストライア様を味方につけるとか卑怯だぞ!!」

 ナギが出窓に足をかけて、部屋から逃れようともがいている。

 女豹二匹を前にした小鹿のように怯えた様子で、綺麗な浅黄色の髪を振り乱して叫んでいた。

「ヴォルグ!! おい!! ヴォルグ助けろ!!」

 ついには、こちらに助けを求める始末。

 仮にも魔王の剣であるという自覚は無いのか。

半泣きになって叫ぶ従者を助けるべく、魔王は溜め息を吐き、肩を竦めながら客室へと近付いていった。


「で、結局こうなるのかよ……」

 とほほ、と首を項垂れるナギが身に着けていたのは、星が散りばめられた夜色のドレスだった。

「ふふふ。観念なさい。魔王陛下直々のご命令ですもの。流石の貴女も逆らえないでしょう?」

「アストライア様だけならいざ知らず、ヴォルグまで味方につけやがって……」

 チッ、と鋭い舌打ちを放つと、ナギは慣れない格好にドレスの裾を持ち上げては下ろす、という行為を繰り返した。

「ほら、仏頂面をしないで。せっかく可愛く仕上げましたのに、台無しではありませんか」

「へいへい」

 唇を尖らせたまま、髪を結い始めたマリーを鏡越しに見つめる。

 翡翠を基調としたドレスに、彼女の赤色の髪がよく映えていた。森の中に咲く、一輪の花のようだ、と目を細めながらに思う。

 こうして黙っている姿は絵画の中に住む貴婦人のような美しさを感じさせるのに。口を開けば残念なのが惜しい。まあ、そんなことを口に出せば、お互い様でしょうとアーモンド形の瞳を更に尖らせてお小言を食らうのが分かっていたので、心の中だけに留めておいた。

「出来ましたわ。後ろのピンを多めに刺したのだけれど、痛いところはないかしら?」

「んー、特には」

「はい。では、ご確認くださいまし」

 そう言って、姿見の前に無理やり連れていかれる。

 ツケ毛が項に当たって擽ったい。

 緩く編み込まれた髪が、頬を滑っていく。

 鏡に映る自分の姿に、ナギは口を開けて呆けていた。

「これが、俺?」

「ええ。とってもお似合いですわ」

「……」

 以前ドレスを着たときと違って、しっかりと化粧を施された肌に、そっと掌を這わせる。

 自分の顔が自分のモノではないような不思議な感覚を覚えた。

「ナギ様?」

 鏡の中に居る自分と目が合う。

 よく見れば、母に似ているような気がした。

 面立ちは父に似ていると母はよく言っていたけれど、こうして女物の衣服に袖を通せば、母の面影があるように思えた。

 金色の色彩がより一層、記憶の中で笑う母を思い出させて、胸が詰まる。

「……お、落ち着かない」

「大丈夫。どこに出しても恥ずかしくない、立派なレディですわ」

 マリーの手がナギを安心させるように彼女の髪を梳く。

 それは懐かしい感触だった。

 母を思い起こす優しい手付きに、ナギは鼻の奥がツンとするような痛みを覚える。

「マリー? 出来た?」

「はい、お入りください」

「え、ちょ、待て!」

 まだ、心の準備が。

 ナギの制止も空しく、扉はすんなりとヴォルグのことを迎え入れる。

 深紅の燕尾服に身を包んだ魔王が部屋に片足を入れた状態で、目を丸くして固まっている。

 シン、と静まり返った空気に、ナギはどうしたら良いのか分からず、マリーに視線で助けを求めた。

「さ、陛下。仕上げをお願いしますね」

「え?」

 同時に疑問符を漏らした二人を残し、マリーは満面の笑みで部屋を去っていく。

 再び静寂に包まれた部屋の中で、先に動いたのはナギの方だった。

 カツン、と慣れないヒールにドギマギしながら、ヴォルグに近付いていく。

「ど、どうだ?」

「う、ん? 良いんじゃないかな? 似合っているよ」

「そうか」

 ヴォルグに褒められるのは嫌いじゃない。

 ふふ、と眦を和らげていると、左手を軽く引かれた。

 触れているのが、ヴォルグの掌だと気が付くのに、僅かに反応が遅れる。

「はい、コレ」

「?」

「未婚の女性には仮面を着けてもらうのが、魔界の決まりなんだ」

 左手に感じる微かな重みに、ナギは数度瞬きを繰り返した。

 後ろを結ぶタイプのソレは一人で結ぼうとすれば、せっかく結わえてもらった髪を乱してしまう恐れがあった。

先程、マリーが仕上げを頼むと言ったのはこのことだったのか、と羽飾りが施された仮面を受け取る。

「……お前が結べ」

「へ?」

「俺が結べば、間違いなく二度手間になるぞ」

 ナギがそう言って、美しく編み込まれた髪をヴォルグに示すと、彼は少しだけ可笑しそうに笑った。

「じゃあ、失礼して」

 ヴォルグの手に再び持たれた仮面がナギの視界を覆う。

 近付く吐息に、一瞬だけビクリ、と肩を震わせれば、何を思ったのか、ヴォルグの鼻先がナギの鼻先を掠めていく。

「ちょ、」

 近くないか、と苦言を紡ごうとした唇は、音を成さない。

 ヴォルグの指が悪戯に唇を這ったからだった。

 錆びたブリキの人形のように固まってしまったナギに、ヴォルグが声を立てて笑う。

「ははっ、冗談だよ。期待した?」

「……ムカつく」

 魔王の余裕たっぷりの表情が気に食わなくて、ナギは面白くなさそうに唇を尖らせるのであった。

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