五、甘い罠
辺りは、シンとしていた。
頭上では、夜の空が静かに波を立てていて、その中を優雅にクジラが泳いでいく。
足音を殺し、隊列に続けば、魔王城の門はすぐそこまで迫っていた。
『では、手筈通りにな』
頭の小さな声に、微かに頭を縦に動かすことで了承の意を示すと、皆一様に各々の目指す場所へと走り始めた。
ある者は、塔を。
ある者は、中庭を。
そして、ある者は玉座の間を目指した。
静かな城の中に神経を張り巡らせながら、目的の人物が居る場所を一直線に目指す。
(それにしても、静かだな)
剣を握る手に汗が滲む。
もしや作戦がバレたのではないか、と長い時を費やしてきた作戦の最悪の結果を考えてしまい、知れず歩を進める速度が落ちた。
ここが既に敵地であることも忘れ、男は考えに耽った。
「よう」
ふと、すぐ隣から声が聞こえた。
視線を辿れば、闇の中で二つの瞳が光っている。
――いつの間に、そこに居たのか。まったく気配を感じなかった。
男は震える手で、それに対峙した。
「こんな時間に何の用だ?」
にたり、とそれが笑うのが分かった。
鋭く光った二つの宝石に、男はぶるりと身震いした。
背筋を冷たい何かが這って行くような、そんな感覚に、震えが全身を覆っていく。
「なあ、おい。人と話すときは相手の目を見ろって、ママに言われなかったのか?」
それは、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
その手に大きな剣が握られていた。
殺される前に殺さねば。
男は無言のまま、それに突っ込んだ。
「危ねえな!」
男の剣を大剣で受け止めたナギは、眉間の皺をより深く刻んだ。
濡れた身体もそのままに慌てて衣服を着こんだ所為で、シャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。動きに支障がないかと言われると、何とも言えないその感触に思わず鳥肌が立った。
「ったく、問答無用かよ!」
キィン、と金属のぶつかり合う音が廊下に響く。
男は未だ言葉を発する様子を見せない。
余程、訓練されているのだろう。二撃目を繰り出そうと構えられた剣には、禍々しいまでの殺気が込められていた。
ふ、とナギは肩の力を抜いた。
魔族との戦いには慣れている。やることは人間だったときとなんら変わりない。
「そっちがその気なら、手加減は無しだぜ?」
右手に大剣を構え、男の懐に飛び込む。
大剣の重さとリーチでは、近距離戦は無いと踏んでいたのだろう。
男が驚きに満ちた目でナギを見ていた。
――ヒュンッ。
男の首に赤い線が浮き出る。
次いで、噴水のように溢れ出た鮮血を全身で受け止めると、哀れにも床にひれ伏した男をナギは首を傾げたまま見つめていた。
「おかしいな。ちょっと斬るだけのつもりが……。やはり、まだ加減が難しいか」
大剣をブンブンと空振りさせながら、男が目指していた深紅の扉に手を掛ける。
そこは、魔王ヴォルグの寝室であった。
魔王に相応しい天蓋が付けられ、魔王に相応しい大きな寝台。
その中央には夜着に身を包んだ魔王が健やかに寝息を奏でている。
「ヴォルグ」
ナギの声に、ヴォルグの瞼が重そうに持ち上がった。
どこかぼうっとした様子の彼の肩を揺すれば、次第に目に光が宿る。
「んん、ナギ? どうしたのさ、その血……」
「俺のじゃない。外に倒れている刺客の返り血だ。さっさと起きて支度しろ」
「ええ? 君が倒してくれるんじゃないの?」
「俺一人で捌ける人数なら、な」
ヴォルグの顔が見る間に歪んだ。
安眠を妨害されたというだけでも腹立たしいのに、こんな夜更けに身体を動かさないといけないのかと思うと怒りを通り越して、呆れを覚えた。
「まったく、どこの誰だい? 参っちゃうなぁ」
「西の方から黒い装束の奴らが、次々雪崩れ込んできてる。湯殿からここまでの通路で五人倒した。もしかしたら、塔の方にも居るかもしれん」
母、アストライアを案じていると察したヴォルグが満面の笑みでナギを見る。
「ああ、それなら心配いらない。あっちにはマリーとベヒモスが居るからね」
「?」
「僕の武術の師匠たちなんだ。特にマリーの蹴りは凄いよ! 掠っただけで腕が折れる!」
「……そんな奴に殴られて生きている俺って」
「ふふん。僕の練成魔法の賜物だね!」
もそもそ、と漸く動き始めたヴォルグに、適当な順番で服を投げつけると、ナギは出窓の枠に腰を下ろした。
魔王の寝室は城の最西端。門から一番遠いところに造られているにも関わらず、敵が侵入していた。城の中には既に複数の敵が侵入していると見ていい。
少なく見積もって二十、多くて五十人。対してこちらの戦力はヴォルグとナギを含め、私兵団が二十二人。――数だけ見ると、こちらが不利な状況であった。
「どうする?」
「そうだね~。でも、僕がこうして無事なことを考えると、先方の狙いは僕ではないようだ」
「はあ? お前の部屋の周りに五人も居たのに、か?」
「うん。恐らくは『何か』探している。そうでなければ、こんな時間にわざわざ黒い服を着て出歩かないだろう?」
「そ、そういうものなのか?」
「泥棒は大抵夜を好むものなんだよ」
何にも、知らないんだね。
ヴォルグがおかしそうに笑うのに、ナギはムッと唇を尖らせる。
心配して様子を見に来た従者に対し、その態度はどうなんだ、と抗議を込めて彼を睨めば、猫のように細められた緋色の眼と視線が交差した。
「な、何だよ」
まさか、また心の中を覗かれたのか、と冷汗を浮かべたナギに、ヴォルグが険しい表情を見せる。
「僕の部屋の近くで、五人倒したって言ったよね?」
「お、おお」
「奴ら、まさか……」
ヴォルグが眉根を寄せた、その時――派手な爆発音と振動が魔王城を襲った。
「今の、玉座の間の方じゃねえのか!?」
「やっぱり……! 狙いは僕じゃない! アスモデウスだ!」
勢い良く部屋を飛び出したヴォルグに続き、ナギも部屋を後にする。
シーン、と爆発音が嘘のように静まり返った廊下には、噎せ返るように甘い血の匂いが充満していた。
「な、んだ、この匂い!」
「吸っちゃ駄目だよ、ナギ! アスモデウスの血には毒が含まれているんだ!」
「お、おう!」
ヴォルグは近くに置いてあったテーブルクロスを引っ掴むと、手早く口元を隠した。それを見たナギも、彼の真似をして持っていたスカーフで鼻と口を覆う。
甘い匂いは、玉座の間に近付けば近付くほど、増していった。
その間、廊下に倒れていた男は十五人。ヴォルグの部屋に到着していた男たちと合わせるとこれで二十人。ナギが横目にそれを眺めていると、ヴォルグが不意に立ち止まった。
「少し、離れていてくれ」
玉座の間まで、まだ少し距離がある。
一体何をするつもりなのだ、とナギが首を傾げると、ヴォルグは徐に壁に耳を当てた。何かの音を聞いているのか、瞼を閉じて壁に耳を当てる彼にナギは暫し魅入った。何せ、黙っていれば顔だけは良いのだ。言葉を奏でなければ、美しい芸術品のような彼の顔を食い入るように見つめる。
今は口布の所為で、鼻から上しか見えていないが、それでもヴォルグは美しかった。
思わず、ほう、と息を吐き出したナギに気が付いたのか否か。
ヴォルグも同じようにふぅ、と息を吐き出す。
「あんまり、壊したくはないんだけれど。仕方ないよねぇ」
「は?」
壁に向かって、正拳突きを繰り出した彼にナギは目を剥いた。
無残にも四散した壁の残骸に、引き攣った声が漏れ出る。
「お、おま、何を!?」
「何って、壁を壊しただけだよ?」
「そういうことを言っているんじゃねえ!」
「もう! 煩いなぁ! しょうがないだろ! こうでもしないと玉座の間に近付けないんだから!」
そう言って、ヴォルグが指を差した先。二人の目指す玉座の間へと続く廊下には、うす紫色の霧が立ち込めていた。
二人が立っている場所にも、直に霧が到達しそうだった。
「魔王城の壁には隠し通路がいくつかあってね。これもその一つなんだ」
「へえ?」
「玉座の間に侵入された場合を考えて造られたらしいんだけど、まさか僕の代でも使うことになるとは」
苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべながら、ヴォルグは壁に手を這わせながら先を急いだ。
廊下があの様子では、こちら側の通路も危ういかもしれない。
だが、ヴォルグの心配は杞憂に終わった。廊下側の壁よりも頑健な素材で作られているのか、先ほどまでの甘い匂いが嘘のように澄んだ清い空気が肺を満たす。ただ一つ難点を挙げるならば、燭台が一つもないことだった。隠し通路と銘打っている手前、明かりを設置することは難しかったのかもしれないが、うす暗く細い通路では少し先の景色さえ闇に阻まれてしまう。
「改良の余地あり、だな」
「あ? 何か言ったか?」
「いいや、何でもないよ。それより、何か足元を照らすものを持っていないかい? こう暗くちゃ玉座の間に辿り着くまでに暗所恐怖症になってしまいそうだ」
おどけた口調でそう言ったヴォルグに、ナギは口元に弧を描いた。マリーに作ってもらったばかりの衣服は伸縮性に優れ、身動きが取りやすい。また、収納機能も多彩で、ポケットのあちこちに次元魔法が施されており、たくさんの物を収納できる仕様になっていた。
ふふん、と得意げな顔で、ポケットから蝋燭とマッチを取り出したナギに、ヴォルグは小さく拍手を贈りながら笑った。
蝋燭の明かりを頼りに、二人は隠し通路の先を急いだ。
炎がゆらゆらとうす暗い天井を踊る。
暫く歩くと、深紅に塗りつぶされた壁が目に飛び込んできた。
深紅は「王の証」。
ヴォルグの寝室と同じ深紅色の壁に、ナギとヴォルグは思わず顔を見合わせる。
「ここだ」
深紅の壁に、ヴォルグが五指を添える。
「開け」
ヴォルグの声に反応して、壁が右にずれていく。
むわっと先程とは比べ物にならないほどの甘ったるい匂いが二人を襲った。
「うっ」
ナギの顔が見る間に歪む。
ヴォルグも眉根を寄せながら、壁が開いた隙間に身体を滑り込ませた。
「……おや、これはお懐かしい」
耳を撫でたのは、美しい女の声。
すぐ近くから聞こえてきたそれに、ヴォルグの顔がますます渋くなる。
「やあ、アスモデウス。元気だったかい?」
紫霧が立ち込める部屋の中、玉座にしな垂れかかった女に、ヴォルグは手を差し伸べた。
「おかげさまで。ご存知かもしれませんが、玉座の下は寝心地が良いんですのよ」
「そうか。昔と変わらぬ、美しい君の姿が見られて嬉しいよ」
「随分と口がお上手になられましたこと」
ほほほ、と笑い声を上げながら、ヴォルグの手を取った女の目は妖しく光っていた。
鋭く伸ばされた爪が、ヴォルグへ伸びる。
「おい、こら」
ひたり、とアスモデウスの首に大剣が添えられた。
毒で動きが鈍っているとはいえ、騎士の端くれ。眼光鋭くアスモデウスを睨みつけるナギに、ヴォルグとアスモデウスが目を見開く。
「ご自慢の顔をオブジェにされたくねえなら、それをしまいな」
「……何のことかしら?」
「その爪だよ。甘ったるい匂いに反吐が出そうだ」
アスモデウスの目が三日月に変わる。
「随分と鼻が良い犬を飼うようになったのね」
「そうだろう? 気に入っているんだ」
「誰が犬だ、誰が」
アスモデウスはナギに興味を引かれたのか、笑いながらヴォルグの傍から身体を離した。それを見たナギが剣を下ろすと、彼女は音もなくナギに近付いて、頭から爪先まで舐るように視線を遣った。
「魔王様の剣にしては随分と奇妙な魔力の持ち主ねぇ」
「まあ、そりゃあ人間だったしな」
「ふーん?」
「な、何だよ」
「いいえ、何でも」
アスモデウスは何か言いたそうな顔をしていたが、ヴォルグのにこやかな笑顔につられてそれ以上言及することを諦めた。
「毒を引っ込めてくれるかい? このままじゃ城に居る者全員が動けなくなってしまう」
「何故? 私には何の得もないことじゃあないの」
「……それはどうかな? 君のことを長きに渡って封じてきたのは先代様たちだ。僕は君のことも臣下に迎え入れようと思っている。今回の件はそれを知った臣下の犯行だと考えるのが妥当だろう。犯人を捕まえるためにも、君には僕の臣下になってもらわなくては」
「あら、いつからそんなことをお考えに?」
「もうずっと、魔王になる前より昔から」
アスモデウスの目が零れ落ちんばかりに見開かれる。
銀水晶を切り取って眼に宛がったと言われてもおかしくはない、美しい瞳がヴォルグの目をまっすぐに見据えた。
「相変わらず甘い考えをお持ちなのですね」
「そうかな?」
「ええ。いつか私に寝首を掻かれても、文句は言えませんよ」
「それはごめんだな。僕はナギだけで手一杯だ」
アスモデウスがくすくすと笑い声を上げながら、右手を掲げる。
毒の霧が彼女のイヤリングに吸い込まれ、部屋を満たしていた甘い匂いが消えた。
「良いでしょう。貴方の収めるこの国に興味が湧きました。それに、」
「それに?」
「面白い者も居るようですし、ね?」
同意を求められても困る。
ナギが顔を顰めながら、そう言えば、二人は声を揃えて笑うのだった。
「また失敗したのか」
主の罵声に、男は項垂れることしか出来ない。
自分の爪先だけをじっと見つめて、それに耐えていると主の気配が近付いてくるのが分かった。
「申し訳ありません!」
冷たい殺気が項を撫でる感触に、咄嗟に頭を地面に擦りつける。
「聞き飽きた台詞を並べられても嬉しくなどないわ。首を持って来いと言ったのだよ、首を」
主の手が頬を叩く。
手袋越しに感じる怒気とも殺気とも取れる恐ろしさに、思わず喉が引き攣った悲鳴を漏らす。
「ひ、」
「次は無い。今度こそ、アレの首を私の前に連れてこい」
「わ、分かりました」
「行け」
男は慌てて命令に従った。
開け放たれた窓から、外に飛びだし、木の枝に着地する。
五十人の部隊を引き攣れて、生還したのは三分の一。
まさか、毒霧の罠が仕掛けられているとは露ほど思ってもいなかったのだ。
「クソ!」
男の声は、赤く笑う月に吸い込まれて消えた。
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