三、闇に潜む

『良いか、ヴォルグ。お前が『剣』を選ぶときは、決して三貴人の推薦人を選んではいけない。彼らは我々の味方であると同時に、次期魔王の継承権を持つ敵でもある。故に、彼らの前では気を抜いてはいけない。私のようになりたくなければ、彼らに甘い言葉を囁かれても決して耳を傾けてはならないよ』

 それが父である先代魔王、ヴァトラの最期の言葉だった。

 魔界での王位継承は人間の国のように、王が自らの子に王位を譲る制度はない。先代魔王亡き後、魔界で一番魔力の大きい者が次の魔王となるのだ。

 幸いにもヴォルグの家系はここ数百年の間、魔王を選出してきた魔力の高い血筋であったため、父であるヴァトラの跡をヴォルグは難なく継ぐことが出来た。

 だが、ヴォルグが王になったことを快く思わない者の方が遥かに多かった。ヴァトラが亡くなったとき、ヴォルグは十二歳の幼い少年だったからだ。

 当然三貴人の面々も、赤子の頃から知っているとはいえ、幼いヴォルグに王の器があるとは思っていなかった。またヴォルグ自身も望んで魔王に選ばれたわけではなかったため、成人の儀を迎える十八になるまでの間、三貴人が魔王代理として魔界を収めることになった。

 成人を迎え魔王の座に座ることを余儀なくされても、少しも嬉しくなんてなかった。

 何度『魔王なんて辞めてしまいたい』と思ったことか。

 けれど、魔王の座を降りなかったのは、父であるヴァトラが無念の死を遂げたからである。

 ヴァトラは『剣』と呼ばれる腹心の部下に殺された。

 先代の『剣』は三貴人の配下に当たる一族から選出された者だった。三貴人たっての推薦であったため、無碍に断ることも出来ず、その結果悲劇が生まれてしまったのだ。


「……随分と、懐かしい夢を見たなぁ」

 ふわあ、と大きな欠伸を零して、ヴォルグは肩を竦めた。

夢の中で見た、父が口から血を吐き出しながら最期の言葉を自分に伝える場面を思い出してしまい、ヴォルグは弱弱しく首を横に振るう。

 ナギを剣に選んだのは、間接的とはいえ三貴人が選んだ人物が先代魔王を暗殺したことが起因していた。

 魔界の知識がなく、それでいて腕の立つ騎士が欲しい、と人間界を行き来するようになって百年余り。漸く手に入れた理想の剣が、ナギだった。

(少し気が強いところが考え物だけど)

 ふふ、とヴォルグは人知れず笑みを浮かべた。

――コンコン。

「魔王、少し良いか?」

小さなノック音の後に、返事もしていないのにドアが開く。

 ひょっこりと顔を覗かせたナギに、ヴォルグは笑いながら溜息を吐く器用な真似をしてみせた。

「何か用かな?」

「ああ、庭師が呼んでる」

「ベヒモスが?」

「何か、特別な花が咲いたからお前に見せたいんだと」

「へえ? 何かな。楽しみだ」

 すっかり城に住む従者たちと打ち解けたのか、ここに来てまだ二週間足らずだというのに、ナギは魔族たちの中に容易に溶け込んでいた。

 ガウンを脱いで着替えを始めたヴォルグに、ナギが一瞬だけギョッとしたような顔になった。

「何?」

「い、いや……。何でもない」

 ふい、と顔を逸らしたナギを不審に思いながら、ヴォルグは手早く着替えを済ませた。

 いつの間にか、部屋を出て廊下で待っていたナギが、ヴォルグが出てきた気配を察し、庭園へと向かって歩き始める。

 カツン、カツン、と二人の靴が廊下に反響する音が響く。

 二つほど部屋を通り越した先、外へと通じる扉が目に入った。

 慣れた手付きで鍵を回して、底辺へと続く道を開いたナギをにやにやとした目で見ながら、扉を潜り抜ける。

 辺り一面が、瑠璃色の宝石で埋め尽くされていた。

「ネモフィラ?」

「流石は我が君。よくご存じで」

 ネモフィラの海の中から銀色の星が姿を見せる。

 髪についた花弁を払いながら立ち上がった大男に、ヴォルグは笑いかけた。

「母上が好きな花だったからね。お前もそれを知っていて、わざわざナギを寄越したんだろう?」

「ええ」

「……懐かしいなぁ。咲いているところを見るのは、父上が死んだとき以来だよ」

 そっ、と壊れものを扱うかのように、優しく花を手折ったヴォルグに、ベヒモスは何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。

「すまない。せっかく、綺麗な花を見せてくれたのに、嫌なことを思い出させてしまった」

「いえ……」

 口を一文字に結び、それきり何も話さなくなってしまったベヒモスに、ヴォルグは聞こえないようにそっと溜め息を吐き出した。

 ベヒモスは、母であるアストライアと幼馴染であった。

 ヴァトラ亡き後、彼女は心を病んで、塔の中に引き籠っている。

 そんなアストライアを悲しみ、ベヒモスは魔王城の庭師に名乗りを上げたのだ。花が好きなアストライアに毎日花を送り届ける、ただそれだけのために。

 いつか元気になってくれることを信じている。

 庭師になりたいと懇願しに来たとき、彼はそう言った。

 自分の地位を捨ててまで、一人の女に尽くしたいと。その気持ちはヴォルグには理解できない。けれど、時々正気に戻った母とベヒモスが楽しそうに話をしているところを見ていると嫌な気持ちを忘れられた。

「ヴォルグ」

 後ろから聞こえてきたナギの声に、緩慢な動作でヴォルグはそちらを振り返った。

「ん?」

「少しだけ花を分けてもらっても良いか?」

「ああ、構わないよ。何に使うの?」

「内緒、だ」

 そう言って、ベヒモスとアイコンタクトを取るナギに、ヴォルグは首を傾げた。

 心の声を聴こうと目を細めた彼に気が付いたナギが、慌てたように彼の目を塞ぐ。

「それはナシだぞ」

「ええ? どうしてさぁ」

「駄目なものは駄目だ」

「ぶー」

「子供みたいなことを言っていないでさっさと支度をしろ。今日は仕立て屋が来ると言っていたじゃないか」

 それに書類も溜まっているのだろう、と追い打ちをかけられてしまえば、ヴォルグは何も言うことが出来なかった。

「分かったよ。邪魔者は部屋に退散しますぅ。あ、でも、マリーが来たらナギも部屋に来てね」

「?」

「君の服も作ってもらおうと思っているんだ。いつまでも、そんな人間臭い服を着てウロウロされるのは嫌だから」

「わ、分かった」

『人間臭い』と言われたのを気にしているのか、ナギは自分の服の匂いを嗅ぎながら、少しだけ上擦った声でヴォルグに返事をした。

 そんな彼の姿に少しだけざわついた心が落ち着きを取り戻す。

 小さく笑みを浮かべながら、ヴォルグは本日の執務を全うすべく、庭園を後にした。

「……臭うか?」

「いや? 魔王様は冗談がお好きだからな。あまり気にしない方がいいぞ」

「そ、そうか」

「ふふっ」

「な、何だよ! 笑うな!」

 穏やかな昼下がり、波間の空が青い光を放ちながら、ベヒモスとナギを見下ろしていた。


「あら! あらあら、まあまあ!!」

 パン、と両の掌を合わせて、目を輝かせる目の前のご婦人に、ナギは頬が引き攣るのを止められない。

「私好みの美男子ではありませんか! 何とまあ、美しいっ!」

「ちょ、近い! い、一旦離れてくれ!!!」

 至近距離で身悶える女性の姿を遠ざけようと、彼女の肩に手を伸ばしたナギを見て、魔王がけらけらと声を立てて笑った。

「見ていないで助けろよッ!」

「ははは! ひー、駄目だ! お腹痛いーっ!」

「ヴォルグ!!」

「くくっ。マ、マリー、僕の横隔膜も限界だから、その辺で離してあげて」

 ぐふっ、ぐふっと笑いすぎて気管に唾が入ったのか、涙目になったヴォルグにマリーと呼ばれた女性がハッとしたような様子で、ナギから距離を取った。

「も、申し訳ありません、陛下」

「いいえ~。賑やかなことは好きだから、大歓迎だよ~」

「ひ、他人ごとだと思って、この野郎……!」

 握り拳をヴォルグに向けるナギの前に、マリーが再び距離を詰める。

「私の魔王様に向かって、何という態度! 貴方、巷で噂の残念な美男子、というやつですわね!!」

「……お前の頭が残念の間違いなのでは」

「あっはははは!! だ、駄目だ! 苦しーっ!!」

 再び笑いの渦に包まれた部屋の中で、マリーだけが真剣な眼差しでナギのことを睨んでいた。

「陛下をあそこまで笑わせるとは、貴方なかなかやりますわね」

「……」

「くっ」

「しつこいぞ、魔王。今日の鍋の具材に追加してやろうか?」

 ぐっと握り拳を作ったナギに、ヴォルグは両手を上げることで謝罪の意を示すと、重そうな荷物を持つマリーに手を差し出した。

「今日はどんな服を見せてくれるのかな?」

「ふふ、陛下のお望みの物をお好きな数だけ」

「やった!」

 少年のような屈託のない笑顔を浮かべたヴォルグに、ナギはぱちぱちと瞬きを落とした。

 彼が人前でそんな表情をするのは、母親であるアストライアと話をしている時だけだったからだ。

 マリーは姉のような存在なのだろうか、と眼前で仲睦まじく会話を弾ませる二人を微笑ましく見守っていると、不意にヴォルグと視線が交差した。

「ねえ、コレ合わせておいでよ」

「は?」

「ほら、君の服も選ぶってさっき言っただろ?」

「あ、ああ」

 何着か見繕われた服を渡され、隣室に続く扉の方へ背中を押される。

 両手が塞がっていて扉が開けられないな、とぼんやりと思ったナギに、ヴォルグがくすくすと笑い声を上げた。

「開けてくれ、って直接言えばいいのに」

「……勝手に聞いておいて、何を言ってんだか」

「はい、はい。どうぞ、お入りください」

 冗談めかしてそう言って扉を開いた彼を睨みつけながらナギは隣室へと身体を滑り込ませた。

 カツン、とハイヒールの音が後ろに続いたのに気が付いて、遅れて悲鳴を上げる。

「ぎゃー! 何でてめぇも一緒に入ってくるんだよ!!」

「何故って、私が丈を測らなければ着付けが出来ないからに決まっているでしょう?」

「ちょ、聞いていない! 聞いていないぞ、魔王!!」

「はは、まあ頑張って」

 ぎゃあぎゃあ、喚き散らす声が隣室に響き渡るのに、ヴォルグは笑みを深める。

 ナギが城にやってきてからというもの、毎日が賑やかで楽しい。

 マリーの着せ替え人形と化した彼がどんな顔をして出てくるのかを想像しながら、机の上にたまった書類に手を付けるのであった。


「……ヴォルグ様」

「あれ? 思っていたより早かったんだね」

「……」

「マリー?」

 普段ならば着付けが終わった後は、にこやかな表情で部屋から出てくる彼女が、今日は何故だか小難しい顔をして扉の隙間から顔を覗かせた。

「ナギ様は男性だとお伺いしていたのですけれど」

「うん、その筈だけど」

「……あのように美しい方ですので、私もすっかり騙されてしまいましたが――ナギ様は女性であられました」

「へ?」

 ぱち、ぱち。

 驚きのあまり、何度も瞬きを繰り返すヴォルグに、マリーが深い溜め息を吐き出す。

「まさかとは思いますけれど、血族にするために一度食らったにも関わらず、気が付いていられなかったと?」

「き、気付きませんでした」

「取りあえず、ドレスを数着見繕ってみましたけれど、抵抗が激しかったので今は眠らせています。普段着に男性用の衣服を幾つかご用意しましたので、ご確認くださいね。陛下? 陛下、聞いておられます?」

 マリーの声が上手く入ってこない。

 キィ、と古臭い音を立てて開いた扉の向こうに視線を奪われる。

 来客用の大きなソファに、ぐったりとした様子でナギが眠っていた。

 ヴォルグの瞳の色を意識したのか、緋色のシフォンドレスを纏った彼――否、彼女が規則正しい寝息を立ててソファに沈んでいる。

「おんな?」

 恐々と震える指先で、ソファに流れる浅黄色の髪を掬った。

「んっ」

 小さく身じろいだ身体が途端に触れてはいけない物のような気がして、ヴォルグの肩が跳ねる。

「陛下」

「……」

「大丈夫ですよ。ナギ様はそう簡単に壊れたり致しません」

「何も言っていないのに、どうして分かったのさ」

「何年、いいえ。何百年と貴方にお仕えしているとお思いですか?」

 ふふ、と笑ったマリーはまるで、花が咲いたようなそんな愛らしい印象を与えた。少しだけ年の離れた姉のような存在の彼女は、昔からヴォルグが望む言葉を、服を的確に与えてくれる。

 それが擽ったいと同時に嬉しくて。

 ヴォルグは猫のように目を細めて、笑った。

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