第5話 浅はか
親父に殴られた頬は火照り、風に晒されても汗は更にシャツを濡らした。
あかりの親に会うのであれば身なりを整えるべきなのだろうがその時の俺はそんな当たり前の事さえ思い浮かばなく、ただ自分の浅はかさとあかりに謝りたいという気持ちでいっぱいだった。
自転車から降りた俺は呼び鈴を押して息を整えた。
暫くして玄関のドアが開く。
あかりの母親は息を飲んで俺を見詰めた。
「こんばんは・・・。俺、藤林・・・・」
言い終わらないうちにあかりの母親は「さあ、あがって」と屋内に誘った。
敵意が感じられない応対に少し安堵したが、リビングのドアを引いた途端張り詰めた空気を感じ、上座に座っている父親の存在に俺はたじろいだ。
俺に気づいたあかりは無言で潤んだ目で助けを求めた。
母親に導かれるまま俺は椅子に座る。
正面のあかりは唇を噛んで俯き、斜め向かいの父親は獲物を狙う鷹のような眼で俺を見定めた。
あかりの母親が「どうぞ」と場違いに思えるほど優しい口調で氷が入っているお茶を俺の目の前に置いた。
自転車で駆けてきた俺は酸欠と乾きで結露したグラスを握りしめて一気に飲み干したい衝動に駆られたがそれを躊躇させ、思い止ませる程の父親の威圧感に身体も思考も止まってしまい、俺は固い唾を飲み込むのが精一杯だった。
「君は誰だ」
ここに座っていることがその答えなのに、あえてあかりの父親はそう問いかける。
「は、始めまして・・」
俺は自分の名を名乗ったあと次に何を言うべきか思案し思わず侘びの言葉を口に出してしまった。
「この度は、すみませんでした」
「何故謝る。君は間違った事をしでかしたと思っているのか」
「い、いいえ、そんな訳じゃなくて・・・」
「どういう訳なんだね」
俺は口籠り本来言うべき事に辿りつかないでいるとあかりの父は見限ったように冷たく言い放った。
「もういい。帰りなさい。これは私達家族の問題だ。君には関係ない」
「関係ないって、どうして・・・」
あまりの言い様に俺は唖然としその訳を問いただした。
「もうこの話しは終わったんだよ。あかりにはおろさせる」
俺はその言葉に動揺しながら目の前のあかりを見た。
「本当なのか・・・、あかり」
あかりは身動ぎもせず俯いたままだった。
「そういう事だ。君も学生なら本分をわきまえて勉学に励みなさい」
立ち上がった父親を俺は必死で引き止めた。
「ちょっと待って下さい!」
「なんだね。私は帰れと言ったはずだ」
「おろすって、あかりがそう言ったんですか」
「そうだ。今私と約束したんだ。そうだね、あかり」
父親の問い掛けにあかりは身を堅くしたまま返事をしない。
「嘘だ!あかりがそんなこと言うはずがない!」
父親は不機嫌な表情を顕にし、拳を握りしめていた。
「何度も言うようだが、これは家族の問題だ。部外者は黙ってなさい」
俺は立ち上がり猛然と食って掛かった。
「うるせぇ!何が家族の問題だ!俺は部外者じゃねぇ!俺とあかりの問題でもあるんだ。それをなんであんたが勝手に決めるんだよ!」
「黙れ!」
父親が大声を張り上げた時冷静を装っていた表情は崩れた。眉間に皺を寄せた顔は紅潮し、俺を射殺すかのように眼光は更に鋭くなった。
「だったら聞こう。産まれて来る子供をちゃんと育てる自信はあるのか?残り少ない10代を子供の為に捧げる覚悟はあるのか?」
「そ、それは・・・」
俺が答え倦ねいているとあかりの父親は更に畳み掛ける。
「出産費用はどうする。幼稚園に通わせて、小学校、中学高校、大学!その金はどうする」
「どうするって、働くに決まってるだろう」
「働く?君はまだ学生じゃないか?」
「辞めるさ」
「そうか、それも良い判断かもしれない。だけどね、大学を出ても就職が儘ならないこのご時世で高校中退の輩を採用してくれる会社があると思うかね?もしあったとしても手取りで月幾ら貰えると思う。10万?15万?真面目に働いていても大卒並みの給料など貰えはしないんだよ」
父親は自分の熱気を冷ますように深い溜息をついた。
「君達は世間を知らない。若いと言うだけで何でも思い通りになるのなら誰も苦労はしないんだよ。私は自分の娘が一刻の間違いで惨めな生活を送って欲しくはないんだ。君もそうだ。今なら若気の至りで済むだろう。子供を育てると言う事がどんなに大変な事か理解しなさい」
10代20代と恐らく一番楽しい時間を子育てに忙殺される。
将来への不安。俺の身体を侵食する得体の知れない不安。
俺はあかりの父親に対する反論を見出すことができずその不安に打ちひしがれた。
俺はあかりを見た。
あかりは震えるように俯き身を堅くしたままだった。
あかりは多分、産みたいと思っている。
そう、多分、俺の子供を望んでいる・・・。
「あんたの言う通り、俺は何も知らない。だけど、これは俺とあかりが決めることなんだ。あかりが産みたいと言うなら俺は・・・、いや、俺も、それを・・・」
「貴様!まだ言うのか!」
天井を震わす程の怒号と共にまるで烈火を纏う不動明王のようにあかりの父親は俺に突進して襟首を締め上げた。
「言いかよく聞け!あかりはこれから自分に相応しい人生を歩んで本当の幸せを見つけるんだ。お前のような子供にかまっている場合じゃなんだよ!」
俺は父親の前に屈した。身体が石になったように身動きが出来なくなくなり、震えた。
子を育て、家族をつくり上げた男の圧力。それは俺が幻想で築いた張りぼての城壁などお呼びもつかない堅城鉄壁な聖域を命がけで守ろうとする父親の確乎不抜な精神。
力ずくのケンカをしたらこの人を打ち負かすことは簡単だろう。
しかし、勝てない。今の俺では到底、勝てない・・・。
俺の全てを見通し、居抜き、切り裂くその眼光に耐えられず、俺は視線を逸らしてしまった。
その時、あかりが叫んだ。
「お父さん!」
僅かに流れていた時間が止まった。
父親も俺も唇を噛んで硬直しているあかりを見やった。
「私、やっぱり、産みます。この子を、産みます」
やがて頭を上げたあかりは唇を震わせ、涙が零れ落ちそうな瞳にしっかりと力を込めて父親を見据えた。
「私、今までお父さんの言う事を疑った事はありませんでした。だって間違いなんて無いって思っていたし、それに・・それに、お父さんの事、大好きだし・・・。でも、今度だけは許して下さい。だって、ユウちゃんの事、お父さんより、好きになったんだもの・・・」
大きな涙が二つの瞳から溢れ、頬を伝ってテーブルに落ちた。それでもあかりは波打つ胸を必死で抑えながら父親に語りかけた。
「この子をおろしたら嘘をつくことになるんだよ。ユウちゃんは私に今まで一度も嘘なんてついた事なかった。私も嘘をつきたくない。ユウちゃんにも、私にも・・・。お父さんにも・・・」
俺は半ば呆然とあかりのその姿を見ていた。
あかりの本当の気持が伝わった。俺にも、恐らく、父親にも。
それと同時に俺の心が更に萎え、暗闇の淵に叩き落とされたように惨めな気持ちになった。
あかりは、愛してやまず、口答えも出来ない程に尊敬している父親に途轍もなく大きな局面で自分の本当の気持を伝えている。
水島あかりという女性の凄さを思い知った。それに引き換え、俺はなんて情けない男なんだ。
あかりの母親が隣に座り、肩を抱いてハンカチを差し出した。
あかりは奥歯を噛みしめて涙を拭った。
父親は俺を突き話し、脱力したように背中を向け、息を整えてこう言い放った。
「好きにしろ!しかしな、本当に産むのだったらお前はもう私の子供じゃない。この家から出てゆけ。二度と敷居を跨ぐんじゃない!」
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