第4話 奈落の底

翌日あかりは産婦人科に行った。俺はその間向かいの喫茶店でコーヒーの苦さを思い知りながら苛つくほどゆっくり進む時計を見ていた。

やがて病院から出てきたあかりは静かに俺の前に座り、首を少し傾げて微笑んだ。

二通りの答えに対する二通りの言葉を用意していたはずなのに俺はコーヒーを飲み干したあと「そうか・・・」としか言えなかった。

「今夜お父さんとお母さんに全部話そうと思うんだけど・・・」

親の庇護のもとに暮らしている俺たちは遅かれ早かれそうしなければならないと分かっていた。ことに、あかりが子供を産むと決心しているのなら尚更だ。

「じゃぁ、俺も一緒に行く」

そう言った俺の言葉に含まれている迷いがあかりに伝わったのか

「大丈夫だよ。私一人で・・・」と俺の申し出を拒絶した。

喫茶店を出て暫く言葉少なに歩いたあとそれぞれの家路に着いた。その道すがら、俺は自分の心の中を探っていた。

何れにしてもあかりの両親とは会って話をしなければいけない。でも何の話をする?けじめをつける為に結婚の許しを乞う?そうするのが筋だ。そうだそうしなければいけない。しかし、俺は本当にそれを望んでいるのだろうか・・・・。そもそもあかりが堕胎することを罪なことだと思っていたとしたら?その可能性は?いや、それは無い。絶対に無い。何故そう思う?もしそうだとしたらあかりは俺のことを本気で好きでは無いということだ。そうさ、あかりは好きでもない男に抱かれるような女ではない。そんな淫らな女じゃないんだ・・・。だとしたら、俺は・・・。

俺は立ち止まり、川原の土手の上から若草の向こうにある太陽に照らされた水面を見下ろしていた。

だとしたら、俺はいったいなんなんだ。子供ができたと言うことに慌てふためいて、あかりの両親に会うことに恐怖すら感じている。俺の方こそ本気ではないのかもしれない・・・。俺は・・・。


自宅に帰り、夕食を済ませた後、俺は親父とお袋を居間に呼び出した。

俺は俯いて正座したまま水島あかりという女性を孕ませたと告白すると、お袋は絶句して微動だにせず、親父はテーブルに両肘をついて頭を抱えた。

「ガキがガキつくってどうするんだよ・・・」

親父がそう言って暫く腕を組んで眼を瞑っていた。

俺は親父の次の言葉を待ち続け、お袋は大きく溜息をついてお茶を入れ始めた。

親父は湯飲みを啜って一息着いた後極めて冷静に話し始めた。

「それで、お前はどうするつもりだ」

「どうするって・・・、あかりは産むつもりだし、俺にも責任があるから、その方がいいと思う」

俺の言葉に親父は眉をひそめた。

「俺はお前がどうするつもりかと聞いたんだ」

「・・・。結婚する・・・」

親父は湯飲みをテーブルに叩きつけて更に聞いた。

「学校はどうする」

「学校は・・・辞める。辞めて働くよ」

「へぇ、そうか。じゃぁ俺との約束は反故にするってわけだな」

「仕方がないじゃないか。悠長に大学なんていってらんねぇよ・・・。子供できちまったんだからさ・・・」

「それはお前の本心か」

その言葉に頭を上げると親父は何時もにも増した鋭い眼で俺を睨んでいた。

「そうさ。それ以外無いだろう。他にどうすりゃいいんだよ」

親父は手のひらで顔を擦り、大きく息を吐いた。

「じゃぁ、先方の両親には何時その話しをしに行くつもりだ。いや、そもそも妊娠している事を知っているのか?」

俺はまた下を向いて呟くように答えた。

「多分・・・。今日はっきり分かった事だし、あかりが今頃親に話しをしてると思う・・・」

そういい終わらないうちに俺の顔を掠めて湯飲みが飛び、親父はテーブルを蹴りつけ俺に飛びかかって来た。

「てめぇ!いい加減にしろ!御託ばっかり並べやがって!」

親父は俺を押し倒し、襟首を締め上げて怒鳴り散らした。





「おい!優治!お前いつからそんな弱い人間になった!」

弱い?俺が?

「現実から目をそらしてびくびくしやがって!情けねぇ・・・。お前はお前の女をどう思ってる!」

お、俺は、あかりを・・・

「お前はなぁ、本気で好きになっていねぇんだよ!お前見たいなバカに女が出来てただ有頂天になってるだけなんだよ!性欲が満たされりゃそれでいいんだろ!」

「そんな、俺は・・・」

「違うとは言わせねぇぞ!お前の言い草、その面!女ぁ抱けばガキができるくらいそこらの野良犬でも知ってらぁ!それをなんだ!今更女のせいにして体裁ばかりつくろって逃げようとしやがって!」

親父は強引に俺を引きずり起こして思い切り顔面を殴りつけた。

俺が食器棚まで吹っ飛ぶと家中にガラスと食器が割れる音が響いた。

何時もであればお袋が血相をかいて親父を制するのだがお袋は座布団に座ったまま侮蔑するような眼差しで俺を見ていた。

蛍光灯を背にした親父は息を荒くして俺を見下ろしている。

「図体ばかりでかくなりやがって、恥を知れ!」

俺はあかりを本気で好きではない?俺は逃げてる?そうじゃない、そうじゃなくて、ただ、俺を侵食している寂寞とした得体の知れない不安に囚われているだけなんだ。でもなんだ?その不安は何だ?一体何だ!

「違う!俺は・・・。だって、あかりが・・・」

「まだ言うか!この野郎!」

親父はまた俺の胸ぐらを鷲掴みにして引っ張り上げるとそのまま反対側の壁に投げつけた。

「お前は女がガキを産むと言ったから責任を感じているんだろぅ!女が堕すと言ったらどうだった!おい!どうなんだ!俺が言ってやろうか、お前はほっとして侘びの言葉のひとつも掛けて、何にもなかったようにまたその女抱くんだろう!」

俺はその言葉に殺意さえ感じた。それは俺自身ではなくあかりが陵辱されていると感じたからだ。俺は頭に血が登って親父に襲いかかった。

「あんたに何が分かる!あかりの何が分かるって言うんだ!」

「うるせぇ!ガキが!」

俺はいとも簡単にねじ伏せられ床に腹ばいにさせられた、親父は俺の髪の毛を引っ張りながら更に怒鳴った。

「じゃぁお前はなんでここにいる!なんで女と一緒に行かなかった!女が来るなと言ったからか?ええ?」

俺は何も言えずただうめき声を上げていた。

「お前のその情けねぇ面見たらそう言いたくなるさ。いいか!優治!」

お袋は傍らで割れたコップや皿を拾い集めていた。

「一番泣きたいのは誰だ!一番心細くて誰かにすがりつきたいのは誰だ!男は種植え付けりゃ気軽なもんさ。でもな女はそうはいかねぇんだよ!生半可なお前のせいでお前の何十倍も苦しんでるんだよ!それが分からなかったらお前は野良犬以下だ!ガキつくった事を後悔してるなら土下座して堕してくれって頼め!最低の人間のやる事だがその方が潔いいさ!それも出来ないなら今すぐ首くくって死んでしまえ!」

畳の目が見える。俺が味噌汁をこぼしてできたシミがはっきり見える。

俺の心を奪い去った体育祭でのあかりの笑顔。

俺とデートして始めて手を繋いだあの日。

互いの感情が絡まり合って爆発しそうな身体を抱きしめあったあの時。

あれは嘘だったのか。嘘?違う!

俺はあかりから何かを貰った。得体の知れない不安の中でも、今でも貰ったその何かは俺の中で確かに燃え続けている。

俺は親父を振り払って家を出て、よろめきながら自転車に乗り、あかりの家に向かった。

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