第3話 恍惚と混乱

弁当を食い終わった佐々木が机に突っ伏しながらだるそうに言葉を吐き出した。

「つまんねぇ、つまんねぇよ、毎日が・・・。なんかさぁ、面白いことないか?」

俺は紙パックの牛乳をズルズル音を立てて飲み干し、得意げに言った。

「生きているという実感を得たいなら簡単さ。誰かに恋すりゃいい」

佐々木は頭を上げ、野暮ったい眼で俺を見た。

「オエッ。なんだそりゃ。よくそんなキザな科白言えるなぁ・・・って言うか、お前、もしかして女できたんじゃないだろうな!」

「さぁな」

「惚けるな!誰だよ!」

佐々木の詰問を無視しながら席を立ち、教室を出て行く途中で友達と話をしているあかりにそっと視線を向ける。

あかりはそれを受けて話を続けながら友達に気付かれないように視線を返す。

その一瞬の動作で俺の身体中に「幸せ」が充ち溢れ、昼休みの喧騒さえも心地よく感じた。

他愛も無い問題を真剣に話し合い、他愛も無いすれ違いで真剣に喧嘩をし、花弁からこぼれ落ちる朝露をガラスのコップに集めるように互いの心を満たしあう。

好きだ、と言うことが絶対の正義となり、また、高校生活に置ける全ての優先事項になった。

送信したメールの返信に数十分掛かった事に腹が立ったり、些細な言動に怒った振りをして相手の気持ちを確かめたり、今の俺では到底出来ない行動もその当時は生活の全てであった。

指先が触れただけで顔を赤らめていた二人はやがて腕を組んで街を歩く。

時間が立つ程に膨れ上がった水風船に銀色の針を刺して欲しいと見つめ合う。

迸る欲情に罪の意識は無い。それは自然であり、父も母も同じ事を繰り返しているのだ。

青く静まった心理では言えないことも、紅潮し熱くなった頬を重ねてこぼれ落ちた言葉が恥ずかしげもなく身体に染みたとき、俺は、大人になったと錯覚した。

二人の前に立ちはだかるものがあっても絶対に克服できる。

二人の間に曇はなくその思いは絶対に壊れない。

二人の周りに気づかれた城壁を何人も侵すことは出来ない。

そうさ、そうに決まっている。甘く切ない二人の時間は永遠に続くと俺は信じて疑わなかった。

しかし、枕元で鳴いた虫けらが俺を谷底に突き落とした。

所詮夢想は夢想でしか無く、現実の重さはそれを遥かに超えていたのだ。


高校三年の春。

朝、教室に向かう廊下であかりの背中に声を掛けた。

「昨日どうしたんだよ」

別に用事は無かったが声が聞きたくて電話をしたがあかりは出なかった。

「え?うん。ごめん・・・」

振り向いたあかりの顔は青白く視線は他所に落としていた。

一瞬不可解に思ったがあかりを疑う気持ちは微塵も無く、俺は相変わらず呑気に仲間とふざけあった。

放課後。

帰り支度をしていた俺の袖をあかりが引っ張った。

「ねぇ。ユウちゃん。話があるの」

その時のあかりの、能面のような顔を見たとき、得体の知れない不安が俺を侵食し始めた。



若いからと言って何でも許される訳ではない。

愛し合っていると言う事があらゆる衝動とその結果の免罪符になる訳ではない。

それは分かっている。しかし、暴走と呼べるほどの欲望は時間や現実という概念を安々と飛び越え、二人が造った城壁内には永遠に続く幸福と言う名の夢想が実在として生きていた・・・、はずだった。

無言のまま辿り着いた人気の無い公園であかりの告白を聞いたとき、その城壁がただの張りぼてであったのだと俺は悟った。

「あのね、昨日、私、薬屋さんから、あれ、買ってきたの」

「あれ?」

並んで座ったベンチで俺はその後に及んでも女々しく夢想にすがりつこうとしていた。

「妊娠してるかどうか確かめる薬というか、器具みたいなの」

「そ、それで?」

と聞き返した俺は本当のバカだ。動揺を隠そうと髪型を気にする素振りを見せてはいたが裏返った声にあかりが気づかないはずはない。

「できちゃったみたい・・・」

初めて頭が真っ白になるということを経験した俺は「そうか」と言ったきり他の言葉が出てこなかった。

18才で父親になる?幸せな家庭を築く?ははは・・・いいね、それ。

でも学校はどうしよう。進学は諦めなきゃな・・・。

その前に、学校に知れたらどうなる?親が知ったらどうなる?

「で、でもさ、ちゃんと病院に行ったほうがいいと思うんだ、もしかしたら・・・」

もしかしたら?間違いであって欲しい?俺は何を言っているんだ。

「そうだね。うん。明日行く。でもね、説明書読んだら99%間違い無いって書いてあった」

「そうか・・・」

あかりとの間に重い空気が流れるのを始めて感じ、俺は適切な言葉を懸命に探していた。

俺の軽率な思い上がりで生じた取り返しのつかない重い現実。

俺が発する次の言葉であかりの人生の道行きを若干18才で決めてしまうかも知れない。

あかりの、人生・・・?俺は、どうなる。いや、これは俺の責任だ。俺は無意識のうちに子供ができたという事態をあかりに丸投げして逃げようとしていた。

このどうしようも無い情け無く、悔しい思いを昔感じたことがある。

小学生の時、母親の田舎に行った。

断崖から地元の子供達が次々と海に飛び込んでいる。

俺も高揚した気持ちのまま走り出し、いざ突端に差し掛かったとき、その余りの高さに足が竦んだ。俺の身体を風が突き抜け、寒くなり、その場から動けなくなった。

海から地元の子供達の笑い声が聞える・・・。俺は結局飛び込めなかった。

「俺、分からない・・・。何をどうしたらいいのか、分からない・・・。あかり、俺・・・」

そう呟いたときのあかりの表情を見るのが怖くて、俺は俯いたままだった。

「うん。私も分からない」

いや、あかりはもう決心している。その淀みない声を聞いて俺はそう思った。

「私がどうして藤林優治という人を好きになったか分かる?」

頭を上げるとあかりは東の風に揺らめく髪を耳に掛けて遠くを見詰めていた。

「優しいところ。心に決めた事を一生懸命するところ。そして、正直なところ」

あかりは年端も行かない子供を見るような優しい瞳で俺を見た。

「ユウちゃん前に言っていたでしょう?何かを選択するときは必ず辛くて苦しい方を選ぶって。だから私もそうする」

その言葉は親父の受け売りだ。だから俺は一番嫌な勉強をして一番難しい高校を選んだ。そしてその選択に間違いは無かった。もし一番楽な方に逃げていたらあかりと出会うことはなかったのだから。

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