第2話 出会い
水嶋あかりという名前は高校に入学した直後から噂で聞いていた。
容姿も性格も非の打ち所がなく男子はもとより、女子にも絶大の人気があった。
俺はいくら美味いラーメン屋でも並んでまで食いたいと思わない質なので、そんな競争率の激しい物件にのめり込むほどミーハーでは無かった。
そんなものに囚われている暇があったら勉強していた方がましだとさえ思っていた。
いやいや、これは冗談ではなく本心だった。
何故なら「進学校に入るのなら大学まで行け。そうで無ければ学費は出さん!」という親父に対して啖呵を切った俺の意地だった。
それに一目惚れなど一切信じていなかった。
それは思春期に有りがちないわゆる恋と言う甘い蜜を味わいたいという幻想から生み出されるただの錯覚だと信じて疑わなかったのだ。
しかし、一見硬派を装っていた俺の心根がガラガラと音を立てて崩れ落ちたのはその年の体育祭の時だった。
俺は自分のノルマを終え、芝生に足を投げ出してグラウンドで繰り広げられる競技を見ていた時、一段と女子の黄色い声が沸き上がった。
体育祭のクライマックス。クラス対抗リレー、一学年の部。
アンカーの組の男子の中に一人だけ女子の姿があった。
すらりとした四肢に均整のとれた身体。腰まである黒髪はうなじで縛られ凛とした顔つきでやがて来るバトンを待っていた。
歓声はくぐもり、俺の視界はピントの合わないファインダーのようにぼやけてはいたが、あかりだけはくっきりと見え、たおやかな胸の膨らみ、妖艶な瞳、淡いピンクの爪と唇、その全てが細胞の全てに染み込むように俺を支配してしまった。
舌が口の中にへばりつくほど喉が乾き、頭蓋骨に木霊するほど心臓が高なる。
大量に湧き出た血液は血管のすべてを膨らませ、破裂しそうな程に紅潮した。
地面を蹴って飛ぶように走るあかり。
それを目で追う俺。
ゴールしてクラスメイト達に祝福されているあかり。
立ち上がって拳を握っている俺。
その時何かが弾けた。
暗天の劇場に一斉に灯りが灯るように。
曇天の空が割れ、一瞬で鮮やかな青が広がるように。
俺の世界は一変し、青春という言葉を辞書で引くまでもなく10代の全てがその瞬間に凝縮した。
それからというもの、俺はあらゆる場面であかりの姿を探した。
朝の通学路、バスで過ぎ行く停留所、校舎の玄関、廊下、職員室、美術室、音楽室、校庭、プール・・・・
たまに見かけても常に誰かが傍にいて話しかける事ができない。
それでいてあかりが一人のでいる時には酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせるばかりで声を発することさえ出来ない。
嗚呼、今日も空が綺麗だ、などと見上げた後俺は中庭にある名も知らない木の幹に頭突きを食らわした。
二年のクラス替えであかりと同じクラスになった。
半ば彼女との接触を諦めていた俺にとってはまさに一大事。
洗面所にあった親父の整髪料を付け、オーデコロンなどというものを初めて使ってみた。
制服はおろしたて、靴もピカピカ。完璧な自分に酔いしれながら颯爽と新しい教室に入って席に付いた。
あかりの席は入り口から近い列の前から三つ目。
あまり近すぎない事が俺を安堵させたが隣の席の女子の一言に全身が凍りついた。
「・・・?あれ?お父さんの匂いがする・・・」
その日の放課後、ドラッグストアに駆け込んだ事は言うまでもない。
同じクラスにいるのだから話しかける切欠はいくらでもある。
しかし、どうも、なんとも、金縛りは日中にでもありえるのだと非現実的な現象を自分自身に納得させようとしている自分が愛おしくまた、落胆している自分に気づき、ただ、だらだらと時間だけが過ぎていった。
時々誰かの視線を感じる時があった。
授業中、ふと頭を上げて見回してみる。前方斜め、入り口付近・・・。
まさか・・・。そんなことあるわけない・・・。
俺は自嘲して教科書に目を移し、あらぬ妄想を思い浮かべ、そして溜息をついた。
その年の文化祭。
クラスの出し物は結局喫茶店になったのだがアホの佐々木という奴のせいで、ケーキから焼そば、はたまた定食まで出てくる得体の知れない店になった。
教室の飾り付けやそれぞれの担当、人員配置、その他もろもろ・・・
やる気のある奴、ない奴が話し合っても何にも先に進まない。
俺はいい加減頭に来て全ての段取りを半ば強引に決めてしまった。
そもそも言い出しっぺの佐々木が何もしないものだから相談事が全て俺のところにやって来る。結局俺は器具や食材の調達から調理までする羽目になり、文化祭の当日は目が回る程忙しく教室中を跳び回っていた。
午後の三時を過ぎた頃、漸く客が引けたので俺は有無を言わさず休憩に出た。
溜まったゴミを焼却炉に持って行き、校舎の裏側でゴミ箱に腰を掛けて一息付いたとき「お疲れさま」と声をかけられた。
振り向くとあかりがコーラを俺に差し出して微笑んでいた。
「あ、ありがとう・・・」
一口飲んだが何故か喉が締まって上手く流れて行かない。
「私ね、藤林君のこと勘違いしていたみたい」
「どんなふうに?」
「もっと不真面目な人かと思ってた」
「まぁ、真面目で無いことは確かだけどな」
俺がそう言うとあかりもオレンジジュースを飲んで空を仰いで更に続けた。
「そうよね。課外授業のときだって、球技大会のときだっていつもやる気なさそうで、授業中だってたいがい寝てるし・・・」
そう言えばこんなに近くであかりと話をした事なんてなかったな、そう思った途端心臓が高鳴った。
「でも、なんだか、見直しちゃった・・・」
「別に、大したことしてないよ」
「そんなことないよ。今日の模擬店だって藤林君が居なかったどうなってたか・・・」
「俺が居なくても誰かがやっていただろう?クラス委員や佐々木のアホが率先してやってくれてたら俺は口を挟まなかったさ」
「そうなの?」
「そう。ただ俺はやらなきゃ行けないことをやらないでぐだぐだしている奴らを見てると無性に腹が立つんだよ。ただそれだけさ」
それからあかりが俺に手を差し出すまでの数秒間はそれまで感じたことの無い暖かで喜びに満ちた空気に包まれていたようで、今思えばその数秒間が全ての始まりだったのだ。
その時俺は顔の火照りを隠すように地面を見つめていたが、恐らくあかりは俺を優しく見詰めていたのだろう。
「ねえ、知ってる?D組のクレープすごい美味しいんだって。行ってみない?」
「いや、でも・・・あいつらだけだと心配でさぁ・・・」
俺は最もらしい言い訳をしながらぐずぐずしていたがあかりはお構い無しに俺の腕を取った。
「さあ行こう。せっかくの文化祭だもの。少しくらいいいじゃない」
「しかたねぇなぁ」と呟やいた俺は心の中で勝利の雄叫びを上げていた。
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