第5話 それは「みりん」です。
洗い物は自分がと言って洗い場に立つ彼女の背中を眺める。
「あのさ」
「はい?」
手を止め肩越しに振り返ってこちらを見る。不思議そうな顔で。
「水道の使い方はわかるよね?」
「いくら私でもそれくらいはわかりますよう」
少しむくれた。
そういう顔もできるんだと思ったら自然と笑ってしまった。
「もう、神様ったら!」
「神代だってば。でもあはは、ごめん。じゃあ洗剤は」
「それも知ってます。この容器ですよね?」
「……それはみりんだよ」
まあ洗剤にありそうな色だけどさ。
でも「みりん」って表記してあるよー?
と言うか食器用洗剤はスポンジ置きのすぐ脇に置いてあるのに、今何でわざわざキョロキョロ見回して流しから離れた所から取ったのかな? 天然なのこの子?
洗剤を教えてから僕はテーブルへと戻る。
皿を割ったりしないだろうかと今度は別な不安を覚えていると、
「お皿洗いはできますから安心して下さいね?」
先回りされた気分。
音だけ聞いている限りでは今のところ皿は無事。
「私の所では熱湯で洗っていたので、お皿洗いに洗剤はほぼ不要だったんです」
「ああ、そうなんだ」
外国じゃ蛇口から熱湯が出て、それが普通のとこもあるんだって話を聞いた事があったっけ。なるほど。
「あのさ」
「はい?」
今度もすぐに声が返った、
「君の事は何て呼べばいい? きっと本名は名乗りたくないだろうし、何かニックネームを考えようと思うんだけど」
「あっそうですよね。うっかりしてました!」
手にあった物を流しに置いてこっちを振り返った彼女は、パチンと両手を打ち鳴らした。
手に付いていた大きな泡が飛んで彼女の鼻先と頬にくっ付く。
「あら嫌だ、ふふっ」
おかしみを覚えたように目を細めると手で頬を擦るので、当然更に泡が付くだけ。
「ああもうちょっとストップ。僕が拭くから」
「え、でも」
「いいよ。いいから。洗い物してもらってるんだし。って袖もちょっと水染みてるじゃないかー。そのまま動かないで、捲るから」
初めて台所に立つ子供を見かねた母親の気分だ。
「ふふっありがとうございます」
どこにでもあるような日常に、何故だか彼女は嬉しそうにした。
僕はそんな彼女をふと見据え――
「――サクラ」
「……サクラ?」
「そう。君の呼び名」
彼女は驚いたような顔をして突っ立ったまま動かない。
何故サクラなのだろうと疑問に思っているんだろう。
「何かさ、第一印象が桜色の花っぽいなーと思ってて。だからそのまんまで、サクラ。勝手だけど、駄目かな? だって君ワケありで本名は秘密でしょ?」
……まあ本当の第一印象は腹減り野犬だけど、さすがにポチって呼ぶわけにはいかないでしょ?
彼女はパチパチと瞬いた。
「なるほど! さすがですね!」
何が彼女を感心させたのか、しきりに頷いている。
「承諾と思っていいの?」
「ええもちろんです」
サクラは控えめな笑みを浮かべた。
彼女自身別段遠慮しているという様子でもないので、きっとこれは彼女の常日頃からの笑い方なんだろう。
見る者全てに赦しを与え安心させるような聖女みたいな微笑。
長年そういう環境で育ったんだろうか。
「……何か、サクラも大変そうだね」
「え?」
「あっいや、何でも。気にしないで」
「そうですか?」
サクラは小首を傾げながらシンクへ向き直ると、食器を濯ぎ始めた。
「……別に秘密ではないのですけれど、わざわざ私の本名なんて知る必要ないですよね」
ぽつりと、寂しげな声色。
水の音に掻き消されて聞き取りにくかったけれど、確かにそう言った。
表情は見えない。
それはきっと、僕には聞こえないと思っての呟きだった。
僕は心意がわからず困惑するしかないし、下手に何かを言ったりもできない。
素性を示す情報を明かしたくないんじゃないの?
本来僕にそんな不公平な情報開示を呑む義理はないけれど、明かしたくないならそれでもいいと思っている。
僕にとっては通帳と印鑑を持ち逃げでもされない限り、彼女の本当の名前なんてさしたる重要要素じゃなかった。
会ったばかりだけど、サクラをどうでもいいと思っているわけじゃない。
三日匿うと言った以上、面倒だって見る。
これは本心だ。
……美少女だからそう思ってるわけじゃないよ?
これが学校や周りの皆から僕が甘いと言われる所以だけど、こう言う性格なんだからどうしようもない。
でもかえってそういう僕のスタンスが誰かに嫌な思いをさせている事もあるんだろう。
じゃあ、サクラは……?
彼女は僕の本名云々の問いに嫌だとは言わなかった。
ちゃんと訊いたら良かったんだろうか。
でも何となく、今更訊けない。
人付き合いは難しい。
それはきっと意思ある者たちの間ならどこでも同じで……。
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