第3話 ココアは初めてです。
「えーとこれは一時的な措置だからね? 気分が落ち着いたら帰りなよ?」
「……」
アパートに連れ帰り、部屋の小さなローテーブルの前で正座している行き倒れ少女は、僕の言葉に眉尻を下げた。
「そんな捨てられた子犬みたいな目をされても……」
顔の汚れが落ちてみると、肌なんかは化粧品のCM女優を思わせる肌理の細やかさで、改めてちゃんと見ると学校には滅多にいないような綺麗な子だった。
『無理だよ』
『――お願いします』
『だから無理だってば』
『――お願いします』
『何で追って来るの!?』
『――逃げてもいいのでお願いします!』
『いいの!? なら追って来ないでよ!』
『――お願いします追いかけます逃しません!』
『君怖いよ……っ!』
あれから何度説得しても彼女はピラニアよろしく食らい付いてきた。
ホラー映画で怪人なんかから逃げ切れないキャラってこんなのだよね確か!
早朝の住宅地路上は思った以上に声も響くし誰かに見られれば目立つ。
実際犬の散歩やジョギング中の何人かは僕たちを気にして見ていた。
問答を続けても堂々巡りだろうと悟った僕は、仕方がなくアパートに連れ帰ったというわけ。
「どうぞ」
彼女の目の前に氷入りのアイスココアを置くと、彼女はマジマジとグラスを眺めた。
汚れでもあったかな。
麦茶、緑茶、牛乳、アイスココア、スポーツドリンクと今出せる飲み物の種類を伝えたら「コココココアですか!? じゃあそれで!」と何故か目の色を変え興奮していた。その時だけは清廉な印象もだいぶ薄れたっけ。
「……これが、世に聞きしココア。見た事と聞いた事はあります。何て良い匂い……!」
まるで飲んだ経験がないような口ぶりに、思わずそんなバカなと苦笑する。
「大袈裟だなあ。ごく普通にスーパーで売ってる紙パックの調整ココアだよ?」
見ていると、彼女は恐る恐ると言った体でグラスに小さな唇を近付け、実飲!
一口分のココアが彼女の細く白い喉元を上下させ、滑り落ちる。
次の瞬間、まるで辺りに
「――っ、はああんっ、ひび割れた荒野に染み渡る極上の水のよう。こんなの初めてっ……です!!」
頬を上気させとろけた
自分を抱きしめながらの声は上ずっていて、見ていて変な気分になりそうになる。
何なんだこの子、ココア一つでここまで……?
料理漫画のリアクションにハマっているとかだろうか。
「美味しい……! 世の中にはこんな美味しい物が売っているのですね!」
「え、本当にココアを飲んだ事ないの?」
「はい」
話を信じるとすれば、彼女は一風変わった境遇に置かれていたのかもしれない。
匿ってと言っていたくらいだから、本当に何か犯罪的な場所に長い間置かれていて、そこから逃げてきたとなれば僕の手には負えない。
追手がナイフや拳銃をぶっ放すような相手だったら僕の命が幾つあっても足りないだろう。警察に連れていくべきかも。
なんて事を考えたところで多少行き過ぎかと思い直す。
この年頃だと家出辺りが一番妥当な線かな。
ココアを飲んだ経験がない人間だってこの広い世の中にはいるに違いない。
ともあれ、僕は厄介事とは無縁でいたい。
人助けを蔑ろにしたいとは思わないけれど、彼女との出会いは僕が散々画策してきた一人暮らし計画を狂わせるものだと、直感した。
目の前では彼女が、やっぱり咽が渇いていたのかごくごくと一気にココアを飲み干し、満足げにけぷっと空気を吐き出した。
さすがにそこはエチケット兼女子的な恥じらいがあるのかそっぽを向いて手で口元を隠した。
……ちょっと可愛いかった。
と、彼女は小さなテーブルを挟んで正面に座る僕へと姿勢を正す。
「先程からもお願いしてますけれど、どうかしばらく匿って下さい」
正座のまま深々と頭を下げる。
俗に言う土下座だ。
「だからそれは無理だよって」
「台所でもいいんです。私を好きにして下さって構いませんから!」
顔を上げ潤んだ目での懇願。
ぶほっと咳き込んだのは言うまでもない。
「君はバカなの!? 一人暮らしの男の部屋にのこのこ上がり込んでその発言ってないでしょ!」
「バカ……」
少女はくすりと笑った。
え? そこ今笑うとこ!?
僕が突っ込みたそうな顔をしていたからか気付いて短く咳払い。
「ああいえ、知り合いがよくバカって言われる~って愚痴っていたのでつい……」
「はあ……」
女神のような微笑を湛え、彼女は彼女の事情を懐かしむような目をする。
「とにかく、何でもいいので私をここに置いて下さい。家政婦でも何でも致します!」
再度の土下座。
そう言えばまだ頭に葉っぱがくっ付いている。毛先や服の見える所のは粗方取ったみたいだけど。
全体的に草臥れたような姿は僕の同情心を誘った。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「「………………」」
どちらからともなくもたらした沈黙が場を支配して三十秒、一分、五分。
カラリと、グラスに残った氷が音を立てる。
一向に少女は頭を上げない。
どうやら意地でも引き下がるつもりはないらしい。
こんなか弱そうな女の子が植え込みをベッド代わりにしないといけない困難に陥っている。
それを知っていて突き放すのはなあ……。
力づくで追い出すってのもあれだし……。
「――はあ、わかったよ。とりあえず三日だけなら」
折れた。
パッと顔を上げた彼女は、月や星でも入ったかのような輝く茶色い瞳でテーブルの向こうから両手を伸ばし、僕の両手を包むように握り締めた。
「――神ッッ!」
「いや、あのね、偶然だろうけど、僕の名前は神代って言うんだ。神代アヤト」
「あ、すみませんそうでしたね」
「そうでしたね……って何処で僕の名前を?」
「そこのノートに書いてありましたので」
ベッドに放り出されていた授業のノートが目に入る。
明日の小テストのために寝ながらパラ見しようかと置いてそのままだった。
ほわんとした見かけによらず結構ちゃんと周りを見ている。
「本当にありがとうございます。光栄です! 心を尽くして匿って頂く事にします!!」
いや何その日本語おかしくない?
とは言え、突っ込みはしなかった。
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