9―16

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 宿屋は、港から30分くらい歩いたところにあった――。


 そこは、小さな湖の湖畔に建つ建物だった。

『セヴェルニ亭』という看板が出ている。


 宿の入り口は、左右から入れるようになっていて、90度曲がったところに正面の入り口があった。

 風除室ふうじょしつの正面が扉ではなく壁になっていて、左右に昇降口があるような感じだ。

 段差を越えてレーナに店の中へ連れ込まれる。


「いらっしゃいませ……」


 店の中に入ると気怠い声で挨拶をされた。


「リリア、調子はどう?」

「レーナ様。いらっしゃいませ……オリガ様もミラ様も……それから……」


 ウェイトレスだろうか、リリアと呼ばれた女性が挨拶をしてきた。

 僕は、外套がいとうのフードを上げて挨拶をする。


「ユーイチと言います。よろしくお願いします」

「これは、お若い旦那様。リリアと申します」


『異国の地で、外国人が流暢な日本語を話しているというのは奇妙な感じだな……』


 リリアは、見たところ刻印を刻んでいない一般人のようだ。身長は、170センチメートルくらいでくすんだ色の金髪を片側にまとめていて、年齢は30代半ばくらいに見える。

 胸元が開いた古風なウェイトレスのような服装で腰にはエプロンをしていた。大きく開いた胸元から見える胸はかなり大きそうだ。

 リリアの目の下にはクマがあり、疲れたような表情をしていた。


 リリアから視線を外して、店の奥を見ると、暖炉があり火が点いていた。

 そういえば、この街は少し肌寒いような気がする。

 たまたま、今日だけなのかもしれないが、暖炉があるということは、『エドの街』に比べて寒い日が多いのかもしれない。

 入り口を入った右の奥には、料金を支払うときに使うとおぼしきカウンターとドアのない入り口があった。入ったところが角になっていて奥が見えない。奥には、トイレがあるのだろう。

 店には、他に客は居なかった。まだ、時間が早いからだろう。


「さぁ、奥に行きましょ」


 僕は、レーナに引っ張られて奥の窓際のテーブルに移動した。

 8人掛けのテーブルに座る。窓際にレーナ、次に僕、そして右隣にオリガ、その更に右隣にミラ、反対側の席の正面にフェリス、僕から見てフェリスの左隣にユキコ、右隣にルート・ニンフが座った。

 フェリアとルート・ドライアードは、僕の席の後ろの壁際に立っている。僕の席の背後が壁になっているのだ。


 テーブルの近くの大きな窓から湖か泉が見える。

 対岸までの距離は、数百メートルというところで、大きさ的には、ニンフの棲んでいた泉とそう変わらないだろう。

 小さな湖の向こうには、低い山に囲まれた地形になっていて、麦畑のような耕作地帯が広がっていた。この風景を見ると盆地にある村に居るような感じがする。

 この小さな湖は、灌漑用水用に作られた溜め池なのかもしれない。


「ご注文をどうぞ……」


 リリアが注文を取りに来た。

『ユミコの酒場』では、客がカウンターまで行って注文しないといけないようだったが、この店は席まで注文を取りに来てくれるようだ。

 もしかすると、『ユミコの酒場』では常連だけがそうやって注文しているのかもしれない。


「ご主人様、何にします?」

「ご、ご主人サマッ!?」


 リリアが裏返った声で驚いた。


「そうよ。あたしは、この人の奴隷になったの……」


 ウットリとした表情でレーナがリリアにそう言った。


「ちょっと、レーナ。まだ、使い魔になったわけじゃないんだから……」

「使い魔にはしていただけるのですよね?」

「うん。『ニイガタの街』の『紅梅亭』へ行けばね」

「楽しみだわ……」

「えっと、注文は任せるよ。お腹は空いてないけど、お奨めの料理とかあったら食べてみたいかな」

「分かりました。お仲間の方達は、どうしますか?」

「フェリアとドライは、食べないと思う。フェリスたちは食べるよね?」

「そうですわね。少しでしたら食べられますわ」

「じゃあ、軽いものを」

「お酒はどうします?」

「うーん、僕は未成年だしなぁ……」

「なにそれ、この街じゃ子供でもお酒を飲むのよ」

「じゃあ、ビールでも……」

「この店にあるのは、エールだけどいい?」

「いいよ」

「分かった。あたしは、ウォッカにするわ」


 どうせ僕たちは何を飲んでも酔ったりしない。

 酒の味は、今まで通り感じるが、アルコールによる効果が全く無いのだ。

 そもそも、血管がないと思う。胃に相当する臓器もあるかどうか怪しいものだ。

 身体を切ってもすぐに修復されるため、解剖することもできないので確認することもできない。


 レーナは、席を立って他のメンバーにも注文を聞いて料理と一緒に注文している。

 僕は、窓の外を眺めた。

 南西に陽が傾いている。まだ夕陽というほどではないが、夕方の6時頃には陽が沈むだろう。

 ここは、『エドの街』や『ニイガタの街』よりも寒い気候のようだが、北に行けば『闇夜に閉ざされた国』の領域に入るはずだ。

 緯度から考えれば、日本よりもロシアは高緯度地方なのでこの辺りも『闇夜に閉ざされた国』に入っていないとおかしい気がする。

 もしかすると、地軸の傾きのせいでこの辺りも日本とそう変わらない気候なのかもしれない。


「ご主人様……?」


 隣に座っているオリガが声を掛けてきた。


「なに?」

「何をお考えでしたの?」

「ここから北へ行けば『闇夜に閉ざされた国』があるのかなって……」

「はい、ここから少し北へ行くと『闇夜に閉ざされた国』の領域へ入るそうです」


 元の世界だとシベリアの辺りだろうか?

 あやふやな記憶の世界地図を思い浮かべる。

 インターネットに接続できないので、スマホの地図アプリも使えないだろう。


 ――そう言えば、ウラジオストクも現実世界では港町だったはずだが……?


「ねぇ、どうして『ナホトカの街』を経由してるのかな? 『ウラジオストクの街』も海に面しているよね?」

「はい。そうなのですが、『ウラジオストクの街』の周辺の海にはモンスターが出現するので危険なのです」

「何ていうモンスター?」

「サハギンです」

「半魚人みたいなモンスター?」

「そうです」

「『ウラジオストクの街』は、大丈夫なの?」

「はい。街には城壁がありますし、サハギンは近くの島を中心に広い範囲で活動していますが、あまり街の方には来ません」


 僕は話題を変える。


「話は変わるけど、この店は誰がやっているの?」

わたくしたちの伯父ですわ」

「たち?」

「ええ、私たちは皆、親戚ですの」

「ええっ? そうだったの?」

「ご存じなかったのですか?」

「うん……初耳だよ……」

「でも、商隊というのは、血縁で構成されている場合がほとんどですのよ」

「ああ、そんな話を聞いたことがあるよ。『組合』に依頼せずに家の冒険者を護衛に付けるとか……」

「ええ、ですから私たちのパーティは、ボンネル家の人間で構成されていますわ」

「でも、そんなに似てないよね?」

「従姉妹ですから」


 あの船、『カチューシャ号』もボンネル家の船だったらしいし、この店もボンネル家の系列店らしい。

 ボンネル家という商家しょうかは、この辺りでは、大商家なのかもしれない。


「ここの店長をその伯父さんがやってるの?」

「いいえ、店長に相当する者は居りませんわ」

「どういうこと?」

「『東の大陸』では、店を商家の人間が直接経営するみたいですが、こちらでは、店は従業員に任せっきりですの」

「大丈夫なの?」

「ですから、家の者がこうやって様子を見に来ますのよ」


 従業員がちゃんと働いているか確認しに来ているということだろうか。


「それに、お金の管理のために信用のおける人間を置いていますわ」

「さっきのリリアさん? はウェイトレスとして雇われているんだよね?」

「彼女には、お給金は払っていませんわ」

「えっ? どういうこと?」

「彼女たちは、お客様からチップを貰ったり、身体を売って稼いでいるのですわ」


 日本に住んでいると必要ないので意識したことないが、海外ではチップを払う習慣があるというのはよく聞く話だ。

 海外旅行にでも行かないとチップを払う機会なんかないので、すっかり忘れていた……。


「チップは、いつ払えばいいの?」

「テーブルの上に置いておけばいいですわ」

「いくらくらいが相場なの?」

「銀貨一枚程度でいいと思いますわよ」

「一人につき銀貨一枚?」

「ふふっ……まさかですわ。テーブル一つにつきですわ」

「そんなくらいでいいんだ……」

「彼女たちは、一日に銀貨5枚も稼げば生活していけますわよ」

「でも、身体を売ってるって……」

「それは、稼げるうちに稼いでいるだけだと思いますわよ」

「そうか……歳を取るとあまり稼げないから……」

「ええ、そうですわ……」

「…………」

「……彼女もご主人様の奴隷にしますか?」

「うーん……リリアさんがそう強く望むなら、そうしてもいいけど……」

「彼女も、もういい歳ですから、話を持ち掛ければ強く望むと思いますわよ」

「でも、彼女にも家族とか恋人が居るんじゃ……?」

「そう言えば、リリアは男に貢いでいるという話を聞いたことがありますわ」

「じゃあ、駄目じゃん」

「どうしてですの?」

「付き合っている人が居るんでしょ? 仲を引き裂くことになるかもしれないし……」

「女のヒモになるような男とは別れたほうがいいと思いますわよ」

「周囲がそう思っていても本人たちの問題だからね」

「分かりました。では、私が後でリリアに聞いてみますわ」


 僕はオリガを止めようか迷ったが、たちの悪い男かもしれないので話を聞いてみるのは悪いことではないと思い直した。


 オリガとの会話が途切れたので、僕はまた窓の外を眺めて時間を潰すことにした――。


 ◇ ◇ ◇


「お待たせいたしました……」


 リリアが注文の品を持ってきたようだ。

 グラスの載ったトレイをテーブルに置いた。


「お料理を持って参ります……」


 そう言って、リリアは戻って行った。


「じゃあ、グラスを配るわよ」


 ミラがグラスをそれぞれの前に置いてくれた。


「乾杯いたしましょう」


 オリガがそう言った。

 そして、レーナがグラスを掲げて音頭を取る。


「じゃあ、ご主人様に……乾杯!」

「「かんぱーい!」」


 ちょっと、気恥ずかしかったが、僕もエールの入ったジョッキを掲げた。

 そしてエールを飲む。『ユミコの酒場』で飲んだエールのほうが個人的には好みだった。

 向こうは、女性向けなためか、香りが良くフルーティな味だったが、こちらは少し苦みと雑味があるような気がする。

 大男がガブ飲みするのに相応しい荒々しい味と言えるかもしれない。

 元の世界でもビールなんて数えるほどしか飲んだことがないので、味の批評ができるほど詳しくはないのだが……。

 飲酒の経験は、父や親戚の伯父さんから酒の席で少し飲ませて貰ったことがある程度だ。


「お待たせいたしました……」


 リリアが料理を持って来たようだ。

 彼女は、オリガがグラスの載っていたトレイをどけたところに料理の載ったトレイを置く。

 料理を見ると、魚の塩漬けのようなものとスープだった。

 スープには、魚の切り身やタマネギ、ニンジン、ジャガイモといった野菜が入っているようだ。


 グラスの載っていた空のトレイを持ってリリアが戻って行く。

 おそらく、料理はこれで全部ではないのだろう。僕たちは、8人掛けのテーブルに7人で座っているが、4人分の料理しかなかった。


 ミラが料理を配る。

 僕と向かいに座っている使い魔たちに料理を配った。

 自分達は後でいいということだろう。


「さぁ、ご主人様。冷めないうちにお召し上がりください」

「ありがとう」


 僕は、そう言って、スープを一口飲んだ。

 あまり食べたことのない味だ。ブイヨン系のオニオンスープに野菜や鮭の切り身が入っているようだった。

 最高に美味しいとまでは言わないが、普通に美味しいと思う。魚嫌いの人でも食べられそうな感じだ。


 ――ロシア料理なのだろうか?


 ロシア料理のスープと言えば、ボルシチくらいしか知らないし、そのボルシチも食べたことがないけど、このスープはたぶんボルシチではないと思う。

 ボルシチは魚じゃなくて肉が入っているという話を聞いたことがあるからだ。何かの写真で見たものは、トマトスープのような感じだったので、見た目も全然違う。


 それに、元の世界のロシア領と言ってもロシア料理が出てくるとは限らない。

『ユミコの酒場』では、ビーフシチューのような料理が出てきたくらいだからだ。


 次に塩漬けされた魚――ニシンだろうか?――を食べてみた。レモンのような柑橘類を絞ってあるようで、思ったよりもサッパリとした味だ。それに甘味もある。酒の肴に丁度良い感じだ。


「ご主人様、お味は如何ですか?」


 オリガが感想を聞いてきた。


「うん、美味しいよ。この辺り独特の料理なの?」

「どうなのでしょう? 珍しい料理ではないと思いますわ」

「『エドの街』では、こういう調理法の料理は食べたことがなかったな……」

「『東の大陸』の文化は独特だと思いますわ」

「どうして?」

「エルフの文化や『エドの街』独自の文化の影響が強いからですわ」

「なるほど……」


 やはりエルフは、他の地域には住んでいないのだろうか?


「お待たせいたしました……」


 リリアが残りの料理を持ってきた。

 トレイをテーブルに置いて、料理をレーナ、オリガ、ミラの前に置く。


「その他には、何かございますか?」


 リリアが他に注文がないか聞いてきた。


「いいわ。ありがとう」


 レーナがそう言った。


「リリア、少しお話があるのだけれど?」

「何でございますか? オリガ様」

「あなたもご主人様の奴隷にならない?」

「あ、あたしがですか?」

「そうよ。ご主人様は、あなたがそう望むなら奴隷にしてもいいと仰っているわ」


 凄い上から目線の言い方だった。

 オリガは丁寧な言葉遣いで上品な感じだが、意外とキツイ物言いをする。

 いや、この3人は、刻印を刻んでいない一般人を見下しているのではないかと思う。

『エドの街』でもそういうことはあったのかもしれないが、一般人を庶民とすれば、商家の人間は貴族のような感覚なのかもしれない。

 たまたま、この3人がそういう考えの持ち主なのかもしれないし、『中央大陸』ではそれが顕著なのかもしれない。


「あ、あの? 奴隷になれば刻印を刻んでいただけますか?」

「リリア、それは図々しいわよ」

「いや、刻印はするよ」

「えっ? ご主人様?」

「ほっ、本当でございますか!?」

「うん。使い魔にするには、刻印を刻んでいないと駄目だからね。といっても、【冒険者の刻印】じゃなくて【エルフの刻印】だけど……」

「なりますっ! あたしを奴隷にしてください!!」

「よく考えてから決めてくださいね」

「考えるまでもありません!」

「じゃあ、レーナ。次にこの街に来たときにリリアさんを『ニイガタの街』の『紅梅亭』に送り届けてくれ」

「分かりました」

「ああ……嬉しい……」


 リリアを見ると涙を流していた。


「リリアさん、良かったらそこの空いた席に座って。あと、何か食べたいものや飲みたいものがあったら、遠慮せずに注文して」

「いいえ、そんな滅相もないことです!」

「でも、リリアさんは、この店に雇われているわけじゃないんですよね?」

「はい。仕事をさせてもらっているだけです」

「じゃあ、別にいいでしょう。仕事が終わったら、部屋に来てください」

「はい。ご奉仕いたしますわ。ご主人様」

「それは別にいいのですが、渡したいものがありますので……」

「やっぱり……あたしなんかじゃ、迷惑ですよね……」

「迷惑なら使い魔にしようとは思いませんよ」

「ああっ、ありがとうございます」

「良かったな。リリア」

「はい。ありがとうございます。レーナ様」

「ご主人様。リリアは、奴隷にした後、どうします?」

「リリアさんの自由です。この店に戻ってウェイトレスを続けてもいいし、他の仕事をしてもいい。お金が必要なら、『エドの街』にある僕が作った娼館で働いてもらってもいいですよ」

「どれくらい稼げるんですか?」

「娼婦になる支度金が1万ゴールドで……」


 僕が言い終わらないうちに驚きの声が上がる。


「いっ、いちまん!?」

「なにそれ?」

「嘘っ!?」

「凄い……」


 僕は、無視して話を続ける。


「収入は、2週間に最大20ゴールドというところです」

「そんなに……?」

「冒険者やってるよりも効率がいいわね」

「ホントだね」

「はぁ……凄いですわ……」


 その後、リリアを交えて飲み食いをした――。


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