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 中に入って、最初に感じた感想は、『広い……』だった。


 どうみても、扉のあった木の幹よりもずっと広い空間が中に広がっている。

 玄関ホールは土間になっていて、左手に牛や馬を入れておく馬房ばぼうのような仕切りがあった。馬房の数は、3頭分だ。

 4メートルくらいの高さがある天井には、照明のような光を発する光源が四か所に設置されているが、その光源には照明器具が見当たらない。まるで光が直接天井に貼り付いているようだ。しかし、広い空間に対して光量が足りていない様で、玄関ホールは薄暗い印象だった。


 フェリアの方を向いて、この家についてたずねてみる。


「どうして、この家の中はこんなに広いのですか?」

「ここが異空間だからよ」

「異空間……ですか?」

「そのままの意味よ。ここは、木の中じゃなくて別の空間なの」

「別の空間……」


 僕は茫然ぼうぜんと室内を見渡した。


「こういう建物を作る魔術があるのよ」

「ここはフェリアさんが作ったの?」

「ここを作ったのはあたしの母よ。それと、丁寧な言葉を使わなくていいのよ。あたしのことは、フェリアって呼んで頂戴」

「でも、フェリアさんは年上でしょう?」

「気にしないで。ねっ?」


 僕は、ドキンと心臓が跳ねる音が聞こえたような気がした。


「分かった。じゃあ、フェリアって呼ぶね」

「ええ、そうして頂戴」


 僕は動揺を隠すために知りたいことを質問をした。


「フェリアの家族は?」

「今は一人よ」

「ご両親は?」

「ずっと前に死んだわ……」

「ご、ごめん……」


 僕は慌てて謝った。


「謝る必要はないわ。百年以上昔の話だから」

「え……? やっぱり、エルフって長生きなんだね」

「それは誤解。エルフも刻印を刻まなければ人間とそう寿命は変わらない」

「……というと?」

「エルフが刻印を人間にもたらしたの。だから、刻印を持たない頃の人間はエルフを不老長寿な種族と勘違いしていた。老化しない生物なんてあり得ないのに……」

「その刻印を刻むと人間でも不老長寿になれるの?」

「そう、刻印を刻んだ生物は歳を取らなくなる」

「どんな生物にもその刻印は有効なの?」

「ある程度のサイズは必要だと思うけれど、虫とかじゃなければ刻印を刻むことはできると思うわよ」

「人間以外では、どんな生物に刻印を刻んでいるの?」

「動物に刻印を刻むことは、普通はあり得ない。でも、あたしはアーシュに刻印を刻んだ」

「つまり、馬に刻むことはまれにあるということ?」

「アーシュ以外に刻印を刻んだ馬が居るという話は聞いたことがないわね。刻印を刻むのに普通は十万ゴールドかかるから」


 ――十万ゴールドがどれくらいの価値か知らないけど、僕が刻印を刻む為にはそれだけのお金を稼がないといけないということだ……。


「さぁ、こっちに来て。夕飯の前にお風呂に入りましょ」


 そう言って、彼女は僕を家の奥へと案内してくれた。

 玄関ホールの奥にある扉の向こうには、30センチほどの自然石を敷いた石畳の床に長方形のテーブルが左右二列に並んだ広い部屋があった。

 玄関ホールから入った扉の反対側にも同じような扉がある。

 フェリアは、その扉の中へ入って行く。僕も彼女の後に続いた。

 扉の先には、石畳の廊下が続いていて、廊下の左右にはいくつかの扉が並んでいる。

 先を歩くフェリアは、廊下の突き当りにある扉を開けた。


「ここが浴室よ」


 そう言って、僕に入るよううながした。


『まさか……一緒に入るつもりじゃ……?』


 嬉しいような、緊張するから一人でゆっくり入りたいような複雑な気分で中に入ると、フェリアが声を掛けてくる。


「先に入って」

「僕は後でもいいけど?」

「あたしは後でいいわ」


 フェリアは、そう言ってから外に出て扉を閉め、僕を脱衣所の中に一人残した。

 彼女の立場で考えてみると自分が入った後の風呂に男が入るのは抵抗があるのかもしれない。


 脱衣所の中で一人になった僕は、何となくホッとして脱衣所の中を見渡す。

 脱衣所の床は廊下と同じく石畳で、木製の棚と竹で編んだようなかごが置いてある。

 脱いだ服を入れるための脱衣籠だついかごだろう。


 僕は、服を脱ぐ前に木製の引き戸を開けて浴室の中を覗いてみた。

 浴室は、壁や床や浴槽よくそうなどが全て木で作られていて、一人で入るには大きすぎる浴槽にはお湯が張ってあった。

 よく見ると、木製のといからお湯が湯船に落ちていて、まるで掛け流しの温泉のように常にお湯が注がれているようだ。


『あの木があった近くに源泉でもあるのかな?』


 などと口に出さずに感想を心の中で述べてから、僕は脱衣所へ戻った。

 しかし、よく考えてみると、ここは木の中ではなく別の空間に作られた場所ということなので、付近に源泉があったとしても引くためには、魔法的な方法で行う必要があるはず。


『ま、考えても仕方がない』


 僕は、服を脱いでお風呂に入ることにした。

 ジャケットの内ポケットに入れてあるスマホを取り出して起動してみると、当然のことながら圏外だった。何かに使いたいときが来るかもしれないので、電源を切っておく。そして、ジャケットを脱いで脱衣籠に入れ、靴を脱ぎ、ジーパンとTシャツ、靴下、トランクスを脱いだ。

 Tシャツとジャケットには、乾いて黒くなった血が少し付着していた。血を吐いたときに付いてしまったようだ。


 裸になった僕は、浴室へ入る。

 浴室には、シャワーなどは設置されておらず、木製の風呂桶と椅子があるだけだ。

 鏡すらも置かれてはいなかった。鏡くらいはこの世界にもありそうなものだけど、この辺りは文化の違いなのかもしれない。


 湯船に入る前に風呂桶を使って、何度か掛け湯を行う。

 お湯の温度はあまり高くはなく、ぬるめの温度が好きな僕には丁度良い。


「ふぅ……」


 早く湯船にかりたいが、まずは身体を洗うことにした。

 浴室には石鹸やスポンジに該当するものが見あたらなかったので、風呂桶でお湯をかけながら体を洗う。

 昨夜は、入浴前にコンビニへ出かけた後、そのままこの世界に来てしまったので、丸二日近くお風呂に入っていないことになる。


 頭も洗っておこうと、頭にも掛け湯をしていたら、扉の向こうに人の気配がした。

 もしかしたら、フェリアがタオルや着替えを持ってきてくれたのかもしれない。

 僕が顔を上げ脱衣所へ通じる戸を見ると同時にスーッと引き戸がスライドして裸のフェリアが浴室へ入ってきた。


「わっ……」


 僕は絶句してフェリアを見上げる。


『……綺麗……』


 それは完璧と言っても良いほどの美しさだった。

 透き通った肌には、ホクロやあざなどが一つも見あたらず、爆乳というほどではないが大きな胸は整った形をしていた。股間には、陰毛が生えておらず、ったようなあともない。


「そんなに見られたら恥ずかしいわ……」

「ご、ごめんなさい……」


 僕は謝ってうつむく。


「ふふっ、見たかったら遠慮せずに見てもいいのよ?」


 そう言って、フェリアは引き戸を閉めて中に入ってきた。


 僕は、緊張して喉がカラカラになっていた。声も出せないほどだ。

 考えてみれば、僕にはこういう経験が全くなかった。

 去年、一年生のときには、気の合うクラスメイトの女子が居た。

 水谷涼子みずたにりょうこという名のショートカットが似合うサバサバした性格の女の子で、僕にとっては一緒に居ても疲れない唯一の女子だった。

 僕は、たぶん水谷のことが好きだった。しかし、思いを告げずに2年に進級してクラスが分かれてしまった。そして、彼女は僕の幼馴染の武田秀雄たけだひでおと付き合い始めたのだ。


 秀雄とは、家が近所で幼稚園の頃からの付き合いだった。

 僕よりも10センチくらい背が高く、勉強もスポーツもできる優秀なやつだった。性格がのんびりしているので、それが嫌味にならないという美点まで持ち合わせていた。

 僕が進学校である今の学校に入れたのも秀雄が中三のときに勉強を教えてくれたからだ。


 秀雄に彼女を紹介されたときには、頭を殴られたような衝撃を受けた。

 何とか醜態しゅうたいをさらすことは避けられたが、それ以来、僕は秀雄に対して強い劣等感を持ってしまったように思う。


「大丈夫?」


 回想にふけっていた僕にフェリアが声をかけてくる。


「う、うん」

「ふふっ、可愛いわね」

「もう、からかわないでよ」


 僕は逃げるように立ち上がって、湯船に入った。

 湯船の中で洗い場に背中を向けて体育座りをする。

 背後に裸のフェリアが居ると考えただけで、頭が沸騰しそうだった。


 ――ザバッ


 フェリアが湯船に入ってくる水音が聞こえる。僕の背後で立ち止まり、座ったようだ。


「ねぇ、どうして向こうを向いたままなの?」

「恥ずかしいからだよ」

「まぁっ、ホントに可愛い子ね」


 フェリアが僕の両方の脇の下に手を入れて、背後から僕の体を抱き寄せた。


「わっ! ちょっとっ!」

「しーっ、静かに……」


 背中に柔らかい感触が当たっている……。


「どうして、こんなことをするの?」

「そうしたいからよ」

「僕をどうするつもり?」

「どうしてほしい?」

「からかわないでって言ってるでしょ」

「ふふっ、ごめんなさいね。あなたが可愛いからつい……」


 湯船の中で背後からフェリアに抱かれ、のぼせそうになった僕は風呂から上がった――。


 ◇ ◇ ◇


 風呂から上がった僕は、服を着た後、フェリアに案内されて玄関近くのテーブルが並んだ部屋に移動した。

 そして勧められるまま、入口の近くのテーブルに座った。


「お腹が空いているんじゃない?」

「うん」


 正直に言えば、かなりお腹が減っていた。


「シチューとパンでいい?」

「うん、ありがとう」


 すると、テーブルの隅に中ぐらいの鍋がいきなり現れた。

 続いて、木製の皿やスプーンといった食器がその隣の空間に現れる。


『凄い……』


 フェリアは、皿にシチューをよそってくれた。そして、いつの間にか取り出したパンと一緒に僕の前に差し出した。


「凄くおいしそう……いただきまーす!」


 僕は、夢中で食べ始めた。少し薄味に感じたが美味しかった。

 フェリアは、そんな僕を幸せそうに見ている。


「フェリアは、食べないの?」

「あたしはいいわ」


 僕は、シチューのお代わりをし、全部食べて満腹になった。


「ふぅー、食った食った……」

「お粗末様でした」

「美味しかったよ。ごちそうさまでした」


 フェリアが食器を片づけた。いきなり食器が消えたので僕はびっくりした。


『これからどうしよう?』


 昼間に寝たので、全然眠くはない。しかし、こんな森の中では、夜は寝るくらいしかやることがない。


「後は寝るだけ?」

「その前に……」


 フェリアがそう言った瞬間、彼女は白い光につつまれた後、シンプルながらの青い浴衣ゆかたのような服装になった。足には、草履ぞうりいている。


「わっ」


 僕は、フェリアの服装が一瞬で変わったので驚いた。

 服を着替える魔法もあるようだ。


「それって浴衣?」

「ええ。『エドの街』発祥の民族衣装だそうよ」


『やっぱり、僕以外にも日本人がこっちの世界に来ているみたいだな』


 フェリアは、僕の隣に座った。


「ねぇ……」


 彼女は、懇願こんがんするような目で僕を見て言葉を続けた。


「あなたに刻印を刻んでもいい?」

「え? でも確か十万ゴールドだったか必要なんじゃ?」

「それは、『組合』でお金を払って刻印を刻む場合の話」

「どういうこと?」

「刻印には二種類あって、あたしがこの身に刻んでいるのは【エルフの刻印】、そして『組合』で刻むことができるのは【冒険者の刻印】と言われている人間のためのもの」

「何か違うの?」

「ほとんど差はないけど、死んだときに発動する魔術が違うわ」


 フェリアの話によれば、【エルフの刻印】は体力がゼロになった時に蘇生魔術そせいまじゅつが自動的に発動するらしい。

 対して【冒険者の刻印】は、体力がゼロになると仮死状態が暫く続いて、その間に蘇生魔術をかけてもらえば復活する。

 一見、【エルフの刻印】のほうが良さそうだが、【エルフの刻印】は、蘇生魔術を発動させると、丸一日くらいその魔術が発動しなくなるらしい。ゲーム的な表現をするなら、二十四時間のチャージタイムが発生するということだろう。

 対して、【冒険者の刻印】では、一日に何度死んでも時間内に蘇生魔術をかけて貰えば生き返る。

 そのためには、優秀な回復職と常に一緒に行動している必要があるが。


「便利そうだし、僕に刻印を刻んでくれる?」

「よかった……じゃあ、上半身裸になってテーブルの上に寝て頂戴」

「分かった」


 僕は、ジャケットとTシャツと靴を脱いでテーブルの上に上がり、仰向けに寝転んだ。

 フェリアも草履を脱いでテーブルの上に上り僕に跨った。浴衣のすそめくれ、太ももが見えたのでドギマギしてしまう。

 フェリアが左手を胸骨の真ん中あたりに置いた。

 その瞬間、僕の身体が一瞬光ったように見えた。


 そして、僕は人間ではなくなった――。


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