第四章 全ては薔薇の下に

全ては薔薇の下に①


 それから数日は、特に何事もなく過ぎた。

 カシュヴァーンの部屋から普通に戻ってきたアリシアを見て、ノーラはひどく驚いた顔をしていた。これは他の使用人たちも同様で、特に彼女にあるじの食事の好みを教えてくれたダンなどほとんど尊敬のでアリシアを見つめていた。

 おかげでいつの間にか、カシュヴァーンが出かけていてもアリシアの食事は用意してもらえるようになった。うれしくなった彼女はしばしば台所でそのまま食事をし、料理人たちを中心に徐々に使用人たちと口をきくようになっていった。

 それを面白くなさそうに見ているノーラに、例の廃園行きのことをアリシアはこっそり言ってみたがなかなかかんばしい答えが返って来ない。カシュヴァーンが領地の外れの方に行くと分かっている時でも、彼女は「いいえ今日はだめです!」と言い切ってしまう。


「今日はカシュヴァーン様、まだお出かけではないようね……」


 読みながら寝てしまった本を片づけ、寝台を抜け出たアリシアは冷たい黒い床にかかとを落としてひとりごちた。カシュヴァーンがいるのなら朝食を一緒に出来るのでそれは嬉しいが、でも彼がいるためにあの廃園には連れて行ってもらえない。


「トレイスのことだってそんなに怒られなかったし、こっそり行ったらだめかしらね……あら」


 ぶつぶつ言いながら階下に降りようとしたアリシアは、屋敷の扉が開いたのに気づいた。入って来たのはティルナード、ユーラン、そして……


「おいやめろ! なんで僕らがこんなことしなきゃいけないんだ!」


 いつもと逆だ。先頭切って歩いて来るのはユーランで、彼を止めようとしているのはティルナード。

 横にもうひとり、粗末な身なりをした金髪の若い男がいる。緊張した様子で眼を伏せ、歩いてくる彼の名をアリシアは驚きとともに呼んだ。


「まあトレイス、どうしたの!」

「ああ、これはアリシア様」


 近寄っていったアリシアにのんびり笑って答えたのはユーランである。まだぎゃあぎゃあわめいているティルナードと無言のトレイスを従えたような状態で、彼はにこにこしながら尋ねてきた。


「ライセン公爵閣下はいらっしゃいますか? 実は先日の非礼のおびをしたいと思いまして」

「おいこらユーラン! 僕を無視するな!」

「あ、痛いです痛いです、髪を引っ張られると先日へこんでしまった部分がうずくんです、あ、あああ、これは公爵」


 長髪の先を被後見人に引っ張られ、りながらもユーランがそう言った。アリシアがつられて振り向くと、階段上にカシュヴァーンがぼうぜんとした顔で立っているのが見える。


「……トレイス」

「カシュヴァーン様……」


 この屋敷で顔を合わせるのは多分何年ぶり、下手をすれば何十年ぶりのことなのだろう。再会したおさなみは視線を交わし合った瞬間、双方共に痛みを感じたような顔をした。


「この間は、大変失礼をいたしました」


 やがてトレイスの方が口火を切り、その場に素早くひざを折ると領主に向かって頭を垂れた。先頃裁判は要らない、と言った時と似たような体勢だが、彼の口から続く言葉はぎこちないながらも殊勝である。


「……長い間、私は下らない意地を張っていた気がします。あなたが一番大変な時期に、私はあなたを一方的に責め、離れた。なのにカシュヴァーン様は私を責めることもなく、他の者たちと平等に扱って下さっていた」


 黒い床を見つめてのつぶやきにカシュヴァーンはとっさの言葉を失っているようだった。無言のまま彼は視線を巡らし、にこにこしているユーランを見つけて低い声を出す。


「これはどういうことだ。貴様らの差し金か」

「違う! こいつが勝手にやったんだ!!」


 叫んだのはティルナードだった。


「なんで僕がお前たちの友達ごっこの仲を取り持ってやらないといけないんだ! トレイスもトレイスだッ、あんな扱いを受けておいてよく戻って来る気になれたな! しかもユーランなんかに説得されて!」


 説得、の言葉にカシュヴァーンは驚いた顔をする。それを見てユーランは照れたような表情になった。


「いやあ、最初はぼっちゃんが言い出したんですよ。トレイスさんが公爵の大事な方というのが本当でしたら、トレイスさんに何かあればきっと公爵が傷つくだろうと……あわわわ」


 失言では済まされない発言にティルナードの顔色が変わる。カシュヴァーンの目つきも変わり、トレイスも微妙な顔をしているが、ユーランは急いでこうつけたした。


「いやでも、それは短絡的に過ぎるでしょうと。そこで私がこの方のところに通いまして、色々とお話を聞いたわけです」


 ここ数日おとなしいと思ったら、彼らはそんなことをしていたらしい。


「この方に話を聞いて、私は確信しました。トレイスさんはやっぱり公爵の大事なお友達なんですねえ。うわさの暴君も人の子……あわわわ、いえいえ、そんなことより」


 また余計なことを言ったユーランは急いでカシュヴァーンから眼をらし、ひざまずいたままのトレイスを優しく見た。


「いかがでしょう公爵。このお屋敷には使用人があまりいないことは聞き及んでおります。あなたもずっと彼のことは気にされていたようですし、この際ここに戻ってもらっては」


 その提案にカシュヴァーンは軽く眼を見開き、それから無言でトレイスを見た。トレイスはまだ顔を伏せたまま、しかしユーランの提案を受けた格好で続けた。


「……図々しいお願いであることは承知しております。ですが私も、本当はずっとあなたのことが気になっておりました。村を離れ、意図的にあなたの情報を遮断するようにしておりましたが……そのせいで余計に、あなたに対する偏見を強めてしまっていた気もします」


 そう言うとトレイスは立ち上がり、貧しい身なりとは裏腹のきれいな一礼をする。洗練されたそのしぐさは、幼い頃より貴族の屋敷で働いていた故のものなのだろう。


「もしもカシュヴァーン様さえよろしければ、私をまたおそばに置いて頂けませんか。幼馴染みだなどと甘えるつもりは毛頭ございません。他の使用人と同様、いえ、それ以下の扱いで結構でございます、どうか……」

「気に食わんな」


 ぼそりと、カシュヴァーンがつぶやく。

 トレイスとしても勇気のいる申し出だったのだろう。元からか細かった声は途切れ、彼は視線を斜め下に落として黙り込んでしまった。


「俺が散々戻って来いと言った時は無視したくせに、聖職者なんぞの説教は受け入れるのか。確かに昔からお前は、やたらと神様が好きだったが」

「そりゃあ説教は聖職者の得意技ですから。あなたのようにそんな頭ごなしに言いつけたのでは無視したくもなる、はわわわわ」


 余計なことまで嬉しそうにしゃべったユーランを、カシュヴァーンは不機嫌な目つきでじろりとにらんだ。慌ててティルナードの後ろに隠れるようとする彼に小さく舌を鳴らしてから、もう一言「気に食わない」と吐き捨てる。


「……も、申し訳、ありません。いまさら、本当に、図々しい、ことを……」


 頭上から降り注ぐ威圧感に耐えられなくなってきたらしく、耳元とうなじを赤く染めてトレイスが謝罪をし始めた。今にも逃げ出しそうな様子の彼に、カシュヴァーンはため息をいてきびすを返す。


「なんでこんなに嬉しいんだ。腹が立つ」


 はっと眼を上げたトレイスに背を向けたまま、彼はふてくされたような声を出した。


「お前の部屋はまだ残してある。俺の部屋は二階だ、後で来い」


 あごをしゃくってごうまんに言うものの、その口から出る言葉はすねた子供そのものだ。


「お帰りとは言わないぞ。そもそも屋敷から出してやった覚えはないんだからな」


 そのまま姿勢良く階段を上がっていく背中に、ユーランが思いきったように声をかけた。


「どうでしょうねえ。これで少しは、〈翼の祈り〉の教えもいいものだと思って頂けましたでしょうか?」


 トレイスを説得し、連れて来たユーランが一番言いたいことはこれだったようだ。カシュヴァーンは一瞬立ち止まったが、振り返りもせずに一言こう言った。


「調子に乗るな。他人の領地に勝手に居座る代金としては、これでもまだまだ足りないぞ。国王の免状があるからといっていい気になるなよ」

「……ははは、やっぱり」


 ティルナードの背に隠れてユーランは乾いた声を上げる。


「もっとも、あなたが感謝するとしたら私などではなくアリシア様にでしょうが」


 また歩き出そうとしていたカシュヴァーンの足が再び止まる。げんそうに振り返った彼は、きょとんとしている妻を見てひとみを細めた。


「おいアリシア、まさかお前がそいつにトレイスの説得を頼んだのか?」

「はは、いえいえ。先日ここであなたがぼっちゃんに、ええと……まあその時に、アリシア様がおっしゃったのですよ。あなたがトレイスさんのことを大事に思っている、と。それで私もあなたにも大事な人がいらっしゃるのだ、と気づいた次第でして」


 殴られたうんぬんの話をするとティルナードがおびえると思ったのだろう。珍しく失言を避けて、ユーランはきれいに話を結んだ。


「……ふん、なるほどな。では余計にお前たちに恩を着せられる義理はなさそうだ」


 案の定突き放されてもユーランは満足そうだった。視線を前に戻すその一瞬、カシュヴァーンの表情がどこか和らいでいたことに気づいたのだろう。


「まあ、でも、いいですよ。とりあえずこれで、先日のうちのぼっちゃんのお詫びは出来たと思いますから。さあぼっちゃん、戻りますよ」


 穏やかな声でうながされたティルナードだが、彼は差し出された腕を乱暴に払った。びっくりした様子のユーラン及び、まだ階段を昇る途中のカシュヴァーンやトレイスをにらみつけ大声で叫ぶ。


「何だこれは! ふざけるな、僕はライセンに使用人の世話をしに来たんじゃないんだぞ!! 僕は……!」


 息を荒げて叫んだティルナードは、最後になぜかアリシアを見た。


「……今に見ていろッ、ライセン!」


 おおまたに屋敷を出て行くティルナードをユーランが慌てて追いかけていく。いつもながらにぎやかな彼らの退場に軽く肩をすくめただけで、カシュヴァーンはさっさと歩いて行ってしまった。


「お帰りなさい、トレイス」


 広間に取り残されたトレイスに、アリシアはほほみながらそう声をかけた。途端に彼は恐縮した表情になり深く頭を下げる。


「奥様。あの、先日は知らぬこととはいえ大変失礼を」

「いいのよ。それより、やっぱりあなたもカシュヴァーン様のことを大事なお友達だと思っているのね。戻って来てくれて嬉しいわ」


 そこへことのなりゆきを見守っていたらしいノーラが近づいて来た。


「あなたがトレイス? この間奥様にお聞きしましたけど……そう、カシュヴァーン様のお友達ですのね」


 メイド姿の彼女を見て、トレイスはうなずきこう言った。


「君は……見たことのない顔だな。そうか、そういえば新しい使用人も何人かは入ったという話だったか……」


 ひとりごちるトレイスに、アリシアはノーラを紹介した。


「トレイス、こちらはノーラ。私づきのメイドで、カシュヴァーン様の愛人よ」

「……は?」


 思いきり変な顔をしたトレイスに、ノーラもわずかに眼を逸らす。


「あの……愛人……ですか? 司教様にお伺いしましたが、アリシア様はカシュヴァーン様と結婚されてからまだそれ程……」

「ええ、私が妻となってからはそれほどたってないわね。でもノーラはここ何年も、カシュヴァーン様にとっっってもわいがってもらってるって」

「奥様」


 こほん、とせきばらいをし、ノーラは不必要なことはよく覚えている奥方の言葉を中断させた。


「カシュヴァーン様は、トレイスに部屋に来るようにおっしゃっていたでしょう? あまり引き留めてはいけませんわ」

「ああ、そうね。ごめんなさいねトレイス」


 にっこり微笑み去っていくアリシアの背を彼はしばしあ然として見つめていた。何が何だかよく分かっていない様子のトレイスに、ノーラは親切な忠告をしてやる。


「変わった方なの」

「そ、そうだな……」


 そんな一言では言い表せないものを感じているらしく、彼はまだアリシアが去った方角を見ている。しかしそのうちダンなどの古参の使用人たちがトレイスの側に集まって来て、彼のことをよく知らないノーラはつまらなさそうにその場を離れた。


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