暴君と怪物⑥


 昼なお暗い廊下を歩き、深皿片手のアリシアはカシュヴァーンの部屋に辿たどり着いた。

 普段から広さに見合う使用人のいない屋敷内はがらんとして見えるのだが、現在の主の私室のあたりと来たらまるで墓場のようだ。カシュヴァーンの不機嫌を悟り、使用人たちはどこかで息をひそめているらしい。


「まだお昼前なのにこの雰囲気っていうのも、逆にいいわねえ」


 そんなことをつぶやきながら、アリシアは金で縁取りをされた漆黒の扉を軽く叩いた。


「誰だ。いい度胸だな」


 つっけんどんなすいの声に、彼女は素直に名乗る。


「アリシアです」


 ややあって、扉が薄く開き中からカシュヴァーンがぬっと顔を出した。先の去り際よりも幾分その表情から険は取れているが、単に訪問者の意外さに驚いたせいもあるようだ。


「……あなたか。どうしたんだ、一体」

「ええと……すごくお疲れのようでしたから、妻としてお慰めしようと思いまして。はい、これ」


 慰め、の一言にカシュヴァーンは眉を寄せるが、差し出された深皿とそこから立ち上る芳香にますます変な顔をした。だが全くいつも通りに見える妻と見慣れぬ料理入りの皿とに視線を行き来させた後、あきらめたようにふっと息を吐く。


「……ここに来るなとも、飯を持ってくるなとも言っていなかったな、そういえば」


 追い返す気力もせた、という感じではあったが、とにかくもカシュヴァーンはアリシアを室内に迎え入れてくれた。



 部屋に入った瞬間からきょろきょろと視線を巡らせたアリシアの眼に、まず飛び込んで来たのは毛足の短いじゆうたんの優しい緑だった。壁も薄い灰色の石で覆われていて、他の部屋と同じように黒いのは天井のみ。


「……俺が疲れている、な」


 妻の言葉を復唱しながら奥のづくえに向かう、カシュヴァーンの背後の窓を覆うどんちようも緑。あちこちに据えつけられた翼ある怪物の像すらない。

 とにかく黒と赤とで構成された屋敷内とは打って変わって、主の私室はいっそつまらないぐらいに平凡な印象だった。広さもさほどなく家具は文机と小さな卓、後は隅に寝台があるだけである。


「アリシア?」

「え、あっ……ええと、普通のお部屋ですわね」


 まず自分の感想を出してしまった妻に、机に座ったカシュヴァーンは小さく笑んだ。


「屋敷全体が悪趣味で統一されているからな。せめて自分の部屋ぐらい、まともなものにしておきたいんだ」


 私なら逆だわ、と思いながら、アリシアは山積した書類の山を避けて彼の前に深皿を置く。中身は手当たり次第に色々なものを混ぜ込んだシチューであり、朝から食べるには胃に重いかもしれないが栄養はたっぷりだ。


「わざわざご苦労なことだな、奥方。誰があなたをここへよこした?」

「いえ、私が自分で」


 アリシアがそう答えると、カシュヴァーンはそうか、とちょっと意外そうな声を出した。


「気を遣わせて済まないな。俺はそんなに腹が減った顔をしていたか?」

「おなかが空いたと言いますか……とってもお疲れのようでしたから。そういう時にお食事を取らないと、もっと疲れてしまいますわ。ましてカシュヴァーン様、食べる物がないわけじゃないんですから」


 死ぬ直前、アリシアの父母も疲れ果てていた。

 お前をいい家に嫁がせるためには持参金が必要だと、まだ十を過ぎたばかりの娘に対し二人は繰り返しそんなことを言った。いやしくもフェイトリンと肩を並べられる家は限られている、あの家がいい、いや、こっちの方がいい……

 名を出された名家の人々が聞いたなら、多分失笑されて終わりだっただろう。だが両親は大であり、そのためには一ゼダルも今無駄にはできないと繰り返す。

 食べる物もろくにないのに、最後の最後まで見栄と体裁を最優先事項として生きていた。一人娘のためにと意地を張り続け、疲れて疲れて疲れ果てて二人とも死んだのだ。

 それに引き換えカシュヴァーンは金持ちだ。食べるものは台所にあふれている。疲れている時はしっかり食べてぐっすり眠る。これに限る。


「……まあそれはそうだが、料理人に無理をさせてしまったようだな。わざわざ新作を作ってくれたのか」


 アリシアのような小娘に説教を食らったのが気恥ずかしかったのか、彼はぼそぼそと反論をする。見慣れぬ料理をダンの気遣いの結果として見たようだが、アリシアは首を振ってこう答えた。


「いえ、それは私がさっき作ったものですから。あ、お口に合うかどうかはまた別ですけど」

「おま……あなたが?」


 更に意外そうな顔になったついでにカシュヴァーンが口を滑らせた。そんな彼にアリシアはにっこり笑った。


「お前で結構ですわ。私たち年も離れていますし、私はカシュヴァーン様に買って頂いた身です。気を遣って下さらなくて構わないんですのよ、とっても良くしてもらってるんですから」


 カシュヴァーンは真顔になってアリシアを見て、それからゆっくりと深皿に入っていたさじを手に取った。中身をひとすすりしてみて、彼は軽く眼を見開き声を上げる。


「うまい」

「良かった」


 ほっとしてアリシアも声を出した。幾分冷めてはいるだろうが、冷めても多少時間を置いても大丈夫なようには作ってあるつもりだ。せっかく作った食事、残されたり捨てられたりしてしまってはあまりにももったいなさ過ぎる。

 一口食べて逆に空腹を思い出したのか、カシュヴァーンはしばし無言でシチューを食べた。黙々と食べ進む彼の姿を、アリシアは私の分も持ってくれば良かったと思いながら見つめていた。

 程なくきれいに皿を空にしたカシュヴァーンの表情は明るくなっていた。のみならず彼が妻を見る目つきには、のない賞賛の色が現れ始めていた。


「……本当に変、いや、変わった女だな、お前は。さっきのあれを見て、よく直後に俺の部屋に来ようなどと思える」


 わざと先程の光景を思い出させるような言葉にも、アリシアはにこにこしたままだ。


「少しはお元気になられたようで良かったですわ。お食事を取らないといらいらしますものね。カシュヴァーン様はとても忙しい御方ですし、お疲れの上にお食事もしないと倒れてしまわれますわ」


 その言葉を聞いたカシュヴァーンは、少し含みのある声でつぶやく。


「俺は別に、腹が減っていらいらしたからあいつを殴ったわけじゃないんだが」

「分かっています。トレイスのことを言われたからでしょう? ……あら」


 ユーランがよくするように、己の失言に気づいたアリシアは思わず声を上げる。カシュヴァーンの目つきも瞬間鋭くなったが、それこそ満腹になったせいだろうか。呆れたように小さく息を吐いただけだった。


「全く、口の軽い連中はどこにでもいるものだ。それともまだまだ俺の支配力が足りないのか。伯爵家のおぼっちゃんに余計な口を滑らせた馬鹿を、後で探しに行かないとな」


 きな臭いものを漂わせた台詞を聞き、アリシアは少し考えてから続けてこう言った。


「ねえ、カシュヴァーン様。やっぱりトレイスは、カシュヴァーン様の大事なお友達なのでしょう?」


 その、全然懲りも学習もしていない質問にカシュヴァーンはあ然とした顔をした。


「……本当に俺の支配力などまだまだだな。言いつけ一つ妻に守らせることも出来ないとは」


 げんなりした様子で何やら反省している彼だが、質問自体を拒否する様子はない。アリシアもアリシアで、これまでの経緯を思い出してしゃべるのに夢中であまり夫の様子に気づいていない。


「幼馴染みってどなたかがおっしゃってましたわね。ということはトレイスは、以前はここにいたのかしら。それともカシュヴァーン様があの村にいらしたの?」

「……あいつがここにいたんだ」


 もはや止めても無駄と悟ったか、やけになったようにカシュヴァーンは答えた。アリシアをお前呼ばわりし始めたせいか、話題のせいか、その口調は次第に砕けてきている。


「あいつはな、その昔姉と一緒にこの屋敷に下働きとして仕えていたんだ。他に年の近い使用人がいなかったから、昔は結構仲が良かった」

「そうですの。でもなぜ今は仲がよろしくないの?」


 単刀直入な質問にカシュヴァーンは黙る。この質問はだめだったかしらね、とアリシアが思ったあたりで彼は意味ありげに小さく笑った。


「あいつは俺が、怪物になったと思っているからさ」

「怪物?」


 興味をそそられる単語が出て来たので、彼女は思わず嬉しそうな声を出してしまう。しかしカシュヴァーンは聞き返された言葉に答えず、さらになぞめいた台詞を口にした。


「よくある物語の中では、悪い怪物は人間の王子様なんぞが死ぬ気でがんばれば勝てることになっているようだがな。だが俺とトレイスが知っている怪物は、言葉も論理も通じないどうしようもない化け物だった」


 むしろアリシアが好んで口にしそうな話題を、彼は淡々としゃべり続ける。鋭い黒い瞳の底に、トレイスやティルナードを怯えさせたほの暗い光が浮かんでは消えた。


「だから俺も怪物になるしかなかったんだ。だからあいつがどう思おうが仕方がない」


 訳が分からないままアリシアは夫の顔を見るが、彼はさあどうする? とでも言いたげなふざけた笑顔で見返してくるばかりである。そこでアリシアはもう少し考えを巡らせてからこう問いかけた。


「カシュヴァーン様は、またトレイスと仲良くしたくはないのですか?」


 ふざけた笑みが彼の顔から引っ込んだ。しかし答えはない。


「だけどカシュヴァーン様は、トレイスの気持ちを尊重していらっしゃるのね」

「……なんでそう思う」


 乾いた声で問い返されて、アリシアは素直に思うままを答えた。


「だってカシュヴァーン様はアズベルグの暴君と言われていて、何でも思うままに出来る御方なのでしょう? その気になればトレイスに首輪をつけてお屋敷まで引っ張っていって、足を斬って閉じ込めておくですとかそういうこともできるはずですわ。後はそうですわね、三角木馬に座らせるとかみずおけに何度も頭を突っ込んだりとか」


 みなそこの国に行くことを最も恐れる〈翼の祈り〉を拝する国々の人々にとって、水にまつわる死に方は一番避けたい死に方である。しばらくの沈黙を挟んだ後、カシュヴァーンはやけに瞳をきらきらさせて語ったアリシアを見てこうつぶやいた。


「……仮に俺がトレイスなら、そんなことをする奴とは絶対に友達に戻りたくないが」

「でしょう? ですからカシュヴァーン様は、トレイスの気持ちを考えて連れ戻さないのですわ」


 妙な自信にあふれた態度で言い切られ、カシュヴァーンは無言になって妻を見た。そして彼は、参った、と言うように小さく笑った。


「そうかもな……」


 妙に潔い言葉の割に、カシュヴァーンの顔には諦めの気配があった。願ったところできっとそうはならないと、すでに知っているとでも言うように。


「だがあいつは、たとえ首輪をつけて引きずろうがそう簡単には俺の元には戻らない。おとなしそうに見えて案外頑固で融通が利かない奴だし、それに……あいつと俺は、神様に対する見解が違いすぎる」


 満腹になったためか、一時明るくなっていたカシュヴァーンの表情はまた陰りを帯び始めていた。彼の口から出た神様という単語に、アリシアは先の広間での出来事を思い出す。


「ねえカシュヴァーン様。カシュヴァーン様は、どうしてそんなに〈翼の祈り〉の教えがお嫌いですの?」


 相も変わらず何のひねりもない質問にカシュヴァーンは押し黙った。わずかに口を開きかけた後、彼は答える代わりに逆の質問をよこしてきた。


「アリシア。お前は〈翼の祈り〉の教えが好きか?」


 質問に質問で返されたことを別段追及もせず、アリシアは素直に考え込む。


「そうですわね、あんまり好きとか嫌いとかは考えたことはないですわ。馴染み深いものではありますけど」


 貴族と王族による支配の根源を成す国教については、もちろん幼い頃から聞かされてきた。ただしカシュヴァーンも言っていたが、かの教えが絶対のものであったのも今は昔。

 聖女アーシェルを迫害した者たちの子孫であり、死ぬまでその罪を償う定めのはずの農民たち。彼らによる反乱を抑えきれなくなった国は、彼らの一部に爵位というあめを与えてなだめすかした。つまりは農民たちの主張の正当性をある程度は認めたのだ。

 そうしなければシルディーンという王国自体がかいしてしまっただろうことは、地方伯を始めとする旧来の貴族たちも一応理解はしている。しかしそうは言っても納得できない部分は残り、かえって彼らの心が国王から離れる原因にもなってしまった。

 同じことは〈翼の祈り〉教団にも言える。新興貴族たちに対しても、教団側は旧来の貴族たちと同じくよほどの悪行をしでかさぬ限り死後の翼は与えられるという見解を公表していた。

 武力により地位をもぎ取った成り上がりどもにただで翼をやろうと言うのかと、アリシアの両親などはことあるごとに嘆いたものだ。結果貴族たちの心は教団からも離れ、それによりますます〈翼の祈り〉の影響力が落ち、農民たちが水底の国行きを恐れる気持ちも更に薄らぐという悪循環に陥っている。


「だろうな。お前もまあ……まあ、名家のお嬢様だ。貴族には都合のいい教えだし、この国に生まれれば誰でも当たり前のようにすり込まれるものだものな」


 前半微妙に言葉を選んだカシュヴァーンだったが、後半の言葉には冷たい響きがあった。けれどアリシアはあまりそれに反応せず、そうですわね、と相槌を打って続ける。


「翼を買うのにお金が要らないのはありがたいと思いますわ。ですけど至高き国って、永遠の静寂と平穏に包まれた世界だそうですよね。それって少しつまらないような気もしますの。水底の国には人間を頭からばりばり食べるような恐ろしい怪物がたくさんいるそうですから、ちょっとそちらも覗いてみたいですわよね」


 観光地でも見て回るような気安い回答に、さしものカシュヴァーンも絶句した。やがて苦笑いして立ち上がった彼はアリシアの前にまでやって来て、小さな亜麻色の頭を優しく撫でる。


「そうかもしれんな。だが残念だが、お前は腐ってもフェイトリンの高貴な血を引いている。聖女アーシェルをしたがわの人間の子孫。よほどのことをしない限り、自動的に死後の翼をもらえる立場にある」


 語る声はかすかに低くなっていた。だがくすぐったそうにしているアリシアの瞳と出会うと、カシュヴァーンの眼の奥に浮かびかけていたほの暗い光は曖昧な笑みに取って代わった。


「欲しがる奴の手には入らず、要らない奴の手には渡る。上位の人間に尽くし続け、十二分に罪を償ったはずのけいけんなる信者は死して後も救われなかった。俺があの教えが嫌いなのはそういう理由だ、我が妻よ」


 先程怪物うんぬんと語った時のように、彼はまた意味深長な言葉を並べただけで勝手に話を終えてしまった。だが言うだけ言って気が晴れたのか、その表情はさっぱりしたものになっている。


「さて、悪いが俺はまた出かけなければいけない。せっかく来てくれたのに悪いが、お前はもう部屋に戻れ」


 アリシアの頭から手を退けると、カシュヴァーンは退出を促した。


「あら、残念ですわ。お時間があるようでしたら、お食事をご一緒して頂けないかと思っておりましたのに」


 まだ室内に漂っているシチューのにおいに誘われて、鳴ってしまいそうなおなかを押さえてアリシアはつぶやく。本当に残念そうな言葉を聞いたカシュヴァーンは、ふっと天井の方に眼を向けてこう言った。


「悪いな。だが今は時間もないし場所も悪いようだ。しかし夕食は……確約は出来ないが出来るだけ一緒にしよう」

「嬉しいです。やっぱり食事って、誰かと一緒に食べた方がおいしいですものね」


 本当に嬉しそうに表情を明るくした妻の頭にカシュヴァーンはもう一度手を伸ばし、子猫にでもするように撫でてやった。


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