暴君と怪物⑤


 ユーランの台詞をいつしゆうし、カシュヴァーンはそう言い切った。

 広間内は水を打ったように静まり返り、レイデン主従のみならず押しかけてきた貴族たちもライセンの屋敷の使用人たちもその場に縫い止められたように動けない。

 下克上のはやりにより、確かに〈翼の祈り〉の教えは以前に比べればその力を失った。自分たちはアーシェルを害した者たちの子孫であり、その罰として支配を受けるのは当然であるといった考えに農民たちが反発して起こった風潮であるからだ。

 だが長くこの国のみならず周辺国家をも支配して来た教えの力は、そう簡単になくなってしまいはしない。生活習慣の一部となった宗教への漠然とした信仰心は、多少の濃度の差こそあれ誰の胸にも根づいている。

 あつに取られて夫のしていることを見守るアリシアの胸にさえも。けれどやはり一番彼の言葉に衝撃を受けたのは、〈翼の祈り〉の教えを体現する役目を持つ聖職者のようだった。


「……あなたは……何という、かわいそうな方だ……あなたのような方のためにこそ、我々の教えがあるというのに……」


 カシュヴァーンへの恐れを衝撃が上回ったのか、ある意味いつもの通りにユーランは失言をしてしまう。

 瞬間カシュヴァーンは眼を見張り、長靴に包まれた足を持ち上げるそぶりを見せた。だがティルナードがまた父様、とつぶやいて震え、ユーランが自分も震えながら彼を抱き抱えるのを見て眉をひそめてこう吐き捨てるにとどめる。


「俺は死後の翼など要らん。人間は死んだらそこでしまいだ!」


 激しい声で断言した後、カシュヴァーンは顔面そうはく状態の貴族たちを蔑みの眼で見た。

 折しもライセンの警備兵たちが侵入者たちを制止しようと多数やって来たところだったのだが、領主の眼光を浴びた彼らまでいっしょになって動きを止めてしまう。


「こんなおぼっちゃんに先陣を切らせないと、押しかけて来ることも出来ないのか。お優しい領主様の支配にすっかり慣れきってしまったようだな。貴公らの顔は覚えたぞ。申し開きは後で聞く、さっさと出て行け!」


 マントの裾をひるがえし、言うだけ言った彼はきびすを返して階段を昇っていく。使用人たちが顔を見合わせるなか、館の主は誰とも眼を合わさずに歩み、自室の方へと消えていった。


「な……何という御方だ!」

そんにも程がある、いずれ天罰が下るに違いないぞ……!」


 出て行けと言われた貴族たちも、口々にそんなことを言いながらばたばたと去っていく。カシュヴァーンに天罰が下ることを望みつつも、己の手でそれを成す頭はないらしい彼らだった。

 やがてカシュヴァーンが残した冷気の名残も消えていき、広間内の空気の強張りも解けていく。

 どうしたものか、と思いながら、アリシアは一気に脱力した様子のレイデン主従の側へ近づいていった。出番を失ったレイデンの警備兵も慌てて両者に駆け寄っていく。


「レイデン伯爵様、ユーラン様、あの……大丈夫ですか?」

「あ、は、は……何とか、あ……いたたた」


 アリシアの呼びかけにへらりと笑って答えたユーランだが、今になって殴られた場所の痛みがよみがえってきたらしい。また後頭部を押さえてうめき始めた。


「あ、あああ、痛い、とんでもなく痛いです……私無事ですか……? このへんがちょっとへこんだりしていないでしょうか……」


 殴られたあたりを手で押さえ、ユーランは泣きそうな声を出す。


「ううん、へこんでいるかどうかは触らないと分かりませんわ。触ってもいいですか?」

「いえっ触らないで下さい! ……あの、ティルぼっちゃん、大丈夫ですか……?」


 手を伸ばしてくるアリシアから逃げようとしたユーランの後ろでは、ティルナードが警備兵たちに手を貸されながら無言で立ち上がった。黒い床に映るその顔は血の気が引いて真っ白だが、体の震えは何とか収まったようだ。


「ああ、ご無事で何よりです……もう、いけませんよぼっちゃん。全くあなたは、私がしないで下さいと言うことばかりなさるんですから」

「……うるさい、余計な真似をしてくれたな。お前だって暴力は苦手なくせに」


 ぶすっとした顔で一言吐くと、ティルナードは小さな声でつけ足した。


「……全く、やめてくれよな、弱いくせに。お前までいなくなったら、僕だってちょっとは傷つくんだぞ」

「ぼっちゃん……嬉しいです。あああ、それにしても痛いです……」


 感動と痛みに瞳を潤ませている後見人から、ティルナードはおもむろにアリシアへと視線を移した。


「アリシア様、これでお分かりになったでしょう。ライセンは横暴でごうまんで、身勝手で乱暴者の暴君だ」


 カシュヴァーンをけなす言葉の羅列が、かえって恐怖の記憶をあおったらしい。ぶるっと肩を震わせたティルナードは、それをごまかすためにも語気を強めてしゃべる。


「やはりこれ以上、あなたをここに置いてはおけない。僕といっしょに逃げましょう」


 切羽詰まった表情でうながされても、アリシアはすぐに首を振る。


「いえ、ごめんなさい。それは出来ないわ」

「例の違約金の話ですか? それはまあ確かに、国一つに匹敵するような金などさすがに払えませんが……ですがそんなもの、あいつをどうにかしてしまえば……」


 小声でつけくわえられた物騒な提案にも彼女はやっぱり首を振る。


「ええ、お金のことはもちろんです。ですけど私、カシュヴァーン様の妻ですもの」


 あまりにもあっさりと口にされた言葉に、ティルナードは逆に驚いた顔をした。


「……夫を支えるのは妻の務め、ですか……ご立派な心がけですが、あいつは自分の妻をさらった男を、その……殴っただけで済ませるような男ですよ」


 殴られそうになっただけで恐慌状態に陥ったティルナードは、途中微妙に言葉をごまかしながら反論した。だがアリシアはトレイスのことを思い出してさらに首を振る。


「いいえ、私さらわれたりはしておりませんわ。フェイトリンに連れ帰られそうにはなりましたけど……そうね……そうよ、やっぱりカシュヴァーン様にとって、トレイスは大事な人なんですわ」


 アリシアもアリシアで、後半の台詞は完全にひとりごとになっていた。その部分を聞き留めたティルナードがさも疑わしそうな顔をする。


「大事な人? 馬鹿な、ただの下らない身びいきでしょう。あいつには大事なものなんかないんです。神を信じず、地方伯の名誉を金で買い、自分勝手にやりたい放題。意見出来るような立場の者をいっさい側に置かない、最悪の独裁者ですよ」


 言われてみればアリシアも、カシュヴァーンが使用人などに何かを相談したり意見を求めたりしている姿を見たことがない。婚儀を広間でやったのも、代官を斬ったのも全て彼の独断だった。

 しかしそれでもアリシアは、ティルナードに言われるままにここから出て行こうとは思えなかった。

 誰の意見も聞かぬまま、ひとり自室へ戻っていったカシュヴァーン。昨日の馬車の中でも見た、厳しい横顔ににじんだ疲労が一段色濃くなっていた気がする。

 没落を受け入れられぬ時代遅れと蔑まれ、それでも必死に見栄を張ろうとあがき続けた両親。彼らにどこか似た横顔が何だか頭から離れない。


「大事な人……そうですか、あの方にもそんなわいが……あわわ、私がこんなこと言ったって言わないで下さいね!」


 またもうっかり口走ったユーランは、慌てた拍子にまたぶたれたところが痛くなったらしい。あいたたた、とうめく後見人を見上げ、ティルナードは深いため息を吐いた。


「……あなたのお気持ちは分かりました。僕の間抜けな後見人に手当の必要もありそうですので、この場はいったん失礼いたします」


 言うなりティルナードはさっさと歩き出す。ユーランもアリシアに一礼し、まだ痛そうにしながら警備兵たちを従え屋敷の入口の方へと歩いていった。


「おいユーラン、僕にいい考えがあるぞ」


 外へと出て行きながら、ティルナードが小走りに走ってきた後見人にささやく。一方のアリシアはそれに気づくことなく、こわごわと近寄ってきたノーラを見て挨拶をした。


「あらノーラ、おはよう」

「……おはようございます奥様。どうなさいましたの、これは。カシュヴァーン様はなんでユーラン様を殴ったりしたのです……?」


 言われてアリシアは、ティルナードたちが押しかけてきたことを彼女に話して聞かせた。アリシアの言葉は肝心な部分がはしょられたり余計な表現がくっついたりしていたが、ノーラは併せて近くにいた別の使用人たちにも話を聞いた。

 大体のことを理解したノーラは、恐ろしそうに二階を見上げてぶるっと身を震わせた。


「まあ……そんなことが。ということはカシュヴァーン様は、当分部屋からお出にならないでしょうね」

「そうみたいね」


 昨日もそうだったが、カシュヴァーンは何事かあると自室に閉じこもる傾向があるようだ。これではまたあの廃園には行けないわね、と思いながら、アリシアはふと思いついてこう言った。


「そうだわノーラ、今こそノーラの出番よ」

「……は?」


 いきなり話を振られてノーラが変な声を出す。


「カシュヴァーン様、とってもお疲れみたいなの。だからノーラ、行って慰めて差し上げて」

「何で私が? 今のカシュヴァーン様をですか!?」


 冗談じゃないとメイドは叫び、他の使用人たちもいっせいに怯えた顔をする。だがアリシアは平然と言った。


「だってノーラはカシュヴァーン様の愛人でしょう? 旦那様の心と体を癒すのが愛人の役目だわ」


 もっともな発言である。一瞬ノーラは非常に悔しそうな顔をしてこうつぶやいた。


「……くっ、やりますわね、やはりただのお嬢様ではないですわ……」


 非常に買いかぶった台詞を口にしてから、彼女はそうだ、と言った。


「そうですわ奥様、今こそ奥様の出番ですわよ!」

「私?」

「本当に旦那様が疲れ、苦しんでいらっしゃる時、頼りになるのは愛人などではありませんわ。ここはやはり、正妻である奥様がお慰めになるのが正しいのでは?」

「ああ、そうね」


 ごくあっさりとアリシアは納得の様子を見せた。


「分かったわ。それじゃ行ってみましょう」


 言うなり本当にすたすたと二階に上がろうとしたアリシアを、中年の料理人が引き留めた。


「お待ち下さい奥様! あの……い、行かれるのでしたら、せめて何か持ってお行きになったらいかがでしょう」

「ダン!」


 ノーラが慌てたように彼の名を呼ぶ。しかし先日アリシアの料理の手並みに感心していた料理人は、構わずこう続けた。


「お出かけの前だったので、カーシュ……いえ、旦那様はお食事がまだなんです。奥様は大層料理がお上手だ。喜ばれるかもしれませんよ」

「そうね、おなかがくと余計いらいらするもの。ありがとう、ええと、ダン」


 にこっと笑ったアリシアは、方向転換して台所に向かう。手伝おうとその背を追っていったダンを見送り、ノーラはふん、と息を吐き出した。


「……ダンを味方につけましたか。けれど無駄よ、あの状態のカシュヴァーン様の側に近寄って無事だった人間はいないんだから」


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