全ては薔薇の下に②


 トレイスが戻って来て以来、何となく屋敷の中の空気が変わったことがアリシアにも肌身で感じ取れていた。


「何だか楽しそうよね、カシュヴァーン様」


 自分も楽しそうに笑いながら、アリシアはまたも自作の地図片手に屋敷内の探索をしていた。

 今までずっとカシュヴァーンの側には、右腕というような存在がいなかったらしい。しかし今はトレイスが、控えめながらも大抵側にいてあれこれと話をしたりしている。

 勤勉で働き者の彼は何年かぶりに戻った屋敷にもすぐに馴染み、気づけば執事のような立場に収まっていた。普通いきなり戻ってきた男がそのような地位に就けば他の使用人が反発しそうなものだが、彼らはむしろトレイスがそういった立場になったことを喜んでいた。

 一つには、屋敷内にいる使用人たちの顔ぶれはトレイスがいたころとあまり変わっていないらしいため。もう一つはトレイスの存在が、時に激しいかんしゃくを起こす主と他の人々の間の緩衝材になってくれるため。


「カシュヴァーン様に意見できるような人間が、今までずっといませんでしたから。もちろんだん様の命に逆らうつもりなどありませんが、まあ、ねえ」


 あいまいに言葉を濁して語ったダンは、最後にアリシアに向かって頭を下げた。


「奥様がおっしゃって下さったから、司教様がトレイスを説得して下さったそうですね。本当にありがとうございます」


 特に何かした覚えなどまるでないアリシアだが、事態が良い方向に向かっていることは事実である。他の使用人たちもダンと同じ認識を持っているらしく、気づけば彼女は屋敷の奥方としてごく普通に接してもらえるようになって来ていた。どんな気取ったお嬢様かと思っていたんですよ、などと、今までの非礼を詫びた上で話しかけられることも増えてきた。

 代わりに態度が冷たくなって来ているのがノーラで、今日などアリシアは一度も彼女の姿を見ていない。


「ノーラ、どこに行ったのかしら。今日もカシュヴァーン様、お戻りにならないような感じなのに」


 アリシア的には何不自由のない生活の中、穏やかに過ぎていく時間は無論楽しい。しかし一方で相変わらず外には出られないため、嫌でも屋敷内にただ一つ残った未踏の場所に意識が向く。

 二階の端、ちょうどあの廃園が見えるところまで歩いてきたアリシアは未練を振りきって回れ右した。先日窓に顔を押しつけて一生懸命上から内部をのぞこうとしていたら、ノーラではない別のメイドに慌てて引きがされたことがあるのだ。

 いわく、せっかく旦那様の機嫌を取って下さったのだからどうかまたあの方の機嫌を損ねるようなことはしないで下さいとのことだった。扱いは丁重になりはしても、あのえんとそれにまつわることに関しては使用人たちの口は重い。

 けれど何度も何度も気になって見ているうちにアリシアはあることに気づいていた。

 禁じられた廃園には、どうも誰かが出入りしている気配がある。

 直接出入りする人影を見たわけではないのだが、まず建物中を覆うつるが入口の部分だけちぎれてしまっているのだ。遠目すぎて微妙だが入口の階段にも足跡がついているようで、そのためいよいよアリシアの好奇心はかき立てられてしまうのだった。


「それにしてもやっぱりお友達っていいものなのね」


 死神姫と呼ばれ始める以前から、見栄っ張りフェイトリンの娘としてさげすまれてきたアリシアには基本的に友達がいない。たまに同い年ぐらいの家の娘と話すことがあっても、興味を持っていることがあまりにも違いすぎて逃げられてしまうのが常だった。

 両親やヘイスダムは彼女の趣味を知ってはいたが、彼らもそろってそういう気味の悪い趣味はやめなさいと言うばかり。そういう意味でも、アリシアのしたいことに一定の理解を示してくれるノーラは貴重な存在だった。


「恋愛のお話も嫌いじゃないんだけどね……でも恋愛小説の中って、なんで皆さんあんなに気前よくお金を使うのかしら。こぶし大の宝石なんて重くて身に着けられないし、大き過ぎて換金も難しいのに……あら」


 一応いくつか読んだことのある恋愛小説の乏しい記憶を探っていたアリシアは、何の気なしに手元の自作の地図に眼を落とした。うろうろしているうちにカシュヴァーンの部屋の側まで来ていたのだが、そこで彼女はあることに気づいた。


「私が間違えて書いたのかしら。ううん、でも……こちらのお部屋、確かこの柱が奥の壁で……でも外の壁はもっと続いていて……」


 ちょうど今アリシアがいる場所に、物置に使われているらしき部屋がある。雑多ながらくたがいっぱいで奥まで入り込めなかったのだが、一番奥のはずの壁の向こうにまだ空間があるようだった。


「でも扉もないし、こちら側は確か窓もなくて……あら?」


 黒い壁をさわさわとでながら進んでいたアリシアは、いつしか物置の隣の部屋との間にあるすきに入り込んでいた。妙な構造だとは以前地図を書いた時から思っていたのだが、そこで彼女の指は更に奇妙な出っ張りを捕らえた。

 眼を近づけてよく見ると、黒い壁にぽつりと浮かび上がった赤い印。図式化された薔薇の紋が、アリシアのちょうど腰のあたりにひっそりとある。


「何かしら、これ……あ、ら、ら?」


 見知らぬ紋をまさぐった指先が、何かの拍子にすっと沈んだ。薔薇の紋が壁に埋まった、と思った途端、かちっという音がどこからか聞こえた。


「あらあら」


 薔薇の模様を中心にして、漆黒の壁に長方形の切れ込みが入る。それはそのままくるりと回り、アリシアは回転する壁に巻き込まれたような格好でその奥へと足を踏み入れた。



「あららら……」


 ちょっとよろよろしながら地図上の空白地域に入り込んだアリシアの、視界をかすめ銀色のものが過ぎた。

 記憶のどこかをひどく刺激するその色に続き、彼女の眼に飛び込んできたのは隠された部屋の内装と奥にかけられた二枚の絵だった。

 磨かれた黒い床。窓のない黒い壁。れたようなつやのある木材で作られたづくえ、その奥には重たげなひじやみそのもののような漆黒の空間のあちこちに、翼を持つ不気味な像がうずくまる。

 天井に取りつけられたごうしやなシャンデリアが振りまく光さえ、広々とした室内にこごった闇をむしろ増強させているようだった。先日初めて見たカシュヴァーンの部屋よりも、ここの方がライセンのやかたの主のものとしてはふさしかろう。

 それらのものよりなお忌まわしい空気を放つ二枚の絵のうち、一枚は男性の肖像画だ。黒髪に黒い瞳のなかなかの美丈夫だが、これを描いた絵師の技術がなまじ優れているせいだろう。内に抱えた病んだ部分が、特にこけたほおと落ちくぼんだ瞳の鈍い眼光にぞっとするほどよく表れている。

 おまけにそこに描かれた男の顔に、アリシアは見覚えがあった。


「カシュヴァーン様?」

「うわ、この状況で俺のこと無視? おっとっと、危ないって」


 思わず前に乗り出そうとしたアリシアの鼻先をくすぐる、かすかな甘いにおい。そういえば、と思いながら声がした方を向けば、すぐ側に見知らぬ銀髪の少年がひとり立っていた。

 年のころは彼女と変わらないぐらいの、やや小柄で細身な少年だ。しかし体の線を浮き彫りにするようにぴったりとした、黒いそでなしの上着とズボンに包まれた肉体にひ弱な印象はない。しなやかな筋肉で出来たその腕の先には、細長い銀色の物が握られている。

 縫い物に使うような針を、形状はそのまま片手で真ん中を握り込めるぐらいの大きさにしたものだ。彼はアリシアが隠し部屋に入ってきたその瞬間、手にしたその針を彼女の首元に突きつけていたのだが、アリシアは絵に気を取られて今まで少年の存在に気づいていなかったのだ。


「あら、あなたはどなた?」


 当然と言えば当然、場違いと言えば場違いなせりに、少年は端の切れ上がった大きな緑の瞳をぱちぱちさせた。そして面白そうに笑ったかと思うと、いきなり彼の手から針が消えた。


「俺はルアークっての。ああそうだ、あんた、死神姫。アリシアって言ったっけ」


 アリシアはルアークのことを知らないが、ルアークはアリシアのことを知っているらしい。

 と、アリシアが胸元付近にいきなり顔を近づけてきたのでルアークはびっくりした声を出した。


「あれ、何?」

「やっぱり。これ、肥料要らずの匂いですわよね?」


 先程鼻をかすめた甘い匂い。トレイスと初めて会った際、食べようとして怒られた猛毒の植物の妙に食欲をそそる匂いがルアークからかすかに漂っている。


「うわ、すごい。鼻いいね! いやああんた、本当に変わったお嬢様だねえ」


 えらく嬉しそうに笑った彼の手元にまたあの針が出現する。降り注ぐシャンデリアの光にまぶしく光るその針を、ルアークはぷらぷらと振って言った。


「これにはね、肥料要らずの葉を煮詰めて精製した毒を塗ってあるんだ。どこにでも結構生えてる葉っぱだし、うっかり口に入れたりして死ぬ人も多いからね。色々ごまかしが利いて便利なんだよ」

「あら、そうなの。ところであなた、こんなところで何をしていらっしゃるの?」


 本来ならもっと前に出るべき質問に、ルアークはにこっと笑って答えた。


「俺はね、あんたの旦那を殺してくれって頼まれた暗殺者なんだ。あんたの元夫をやった時もこれを使ったんだよ」


 あっけらかんとした回答に、今度はアリシアが眼をぱちぱちさせる。そんな彼女の様子を見て、ルアークは面白そうに笑った。


「いやーしかし、あちこちうろちょろしてるのは知ってたけど、まさかあんたの方からここに入って来ちゃうとは思わなかったよ。あの勘のいいライセン公爵だって、この部屋のことは知らないっぽいのにさあ」


 言われてアリシアは、さっきの絵のことを思い出して振り返った。


「ああ、その絵はライセン公爵じゃないと思うよ。たまにこういう顔になってる時はあるけど、やばさの種類がまた違うよね」

「言われてみればそうね」


 のんきな会話を交わしてまたルアークの方を向いたアリシアの瞳に、ぴたりと据えられた銀の針。

 かつてブライアンが殺された際、花嫁のベールを巻き上げ行き過ぎた黒い影が彼女の記憶に残したのと同じ色。甘い猛毒をもまとったその色を、がねごしに眼を突くぎりぎりの距離に構えてルアークは低い声で問いかけてきた。


「怖くないわけ? 逃げようともしないけど。それとも怖すぎてもう動けないのかな?」


 近すぎて焦点がぼやけてしまうような位置にある針を見たまま、アリシアは言った。


「怖くないわけじゃないですけど……あなたの腕は私知っていますから。逃げようとしても無駄だと思いまして」


 どうにもならないことに対しては逆らわないのがアリシアの一貫した主義だ。名家に生まれながらどうしようもなく貧乏であるということについても、二回も花嫁として売り飛ばされたことについても、死神姫というあだ名がついてしまったことについても。与えられた状況で出来るだけ満足のいく結果を出すために動き、無理そうだったらあきらめる。


「あはは、褒めてくれてありがとう。ふーん、へえ、やっぱ変わったお嬢様だね、あんた」


 楽しげに笑う一方で、ルアークが手にした針は微動だにしない。人なつっこい笑顔には何の裏表もなさそうだが、殺人に使われた暗器を手にしてのものと思えばそれが逆に不気味だった。



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