暴君と怪物②


「妻泥棒のところに、更に税泥棒が入っているとは驚きだな」


 代官たちが開け放していた扉から差し込む光が遮られ、黒い影が小屋の中に流れ込む。はっと戸口の方を向いたアリシアの瞳に映ったのは、太陽を背負って立つカシュヴァーンの姿だった。

 逆光になっているせいでその表情は分かりにくい。しかし低い声の調子と全身から漂う冷気だけで、彼の機嫌はアリシアにさえ容易にうかがうことが出来た。


「こ、公爵、様……」


 干上がったような声を出す代官をじろりとにらみ、カシュヴァーンは一言つぶやく。


「強公爵」

「……はっ、ライセン、強公爵閣下ッ。いや、これはその、と、取り立てを……!」

「そいつはきちんと税を支払っていると、俺は台帳を見て確認しているがな。ついでに裏で貴様が俺について何と言っているかも知っているぞ」


 冷え冷えとした言葉を吐いて、冷たい気配と共に黒い男が小屋の中に入ってくる。ようやく解放されたトレイスがずるずると地面に座り込んだのをちらといちべつした後、カシュヴァーンは自主的にその場にひざを折った代官一派を見下ろした。


「一度の忠告では足りなかったと見える。やはり貴様の代官の任は解いておくべきだったな」


 どうやらこの代官、トレイスに行ったような無体を見つかったのは今回が初めてではないようだ。長靴の先で地面にいつくばった相手の頭を軽く小突いたカシュヴァーンは、次の瞬間腕を伸ばし代官の立派なマントを引っつかむ。

 そのまま引きずり上げられた瞬間、首が絞まったのだろう。うぐ、と苦しげな声を上げるのに構わず、カシュヴァーンは彼を引きずって小屋の外に引きずり出した。

 いつしか霧は晴れていたようだが、弱い陽光に照らされた地面は湿気を含んだままだ。霧に湿った水っぽい土の上に、カシュヴァーンの靴跡と代官が泥まみれになって引きずられた跡が深々と刻まれていく。

 外には領主の見回りの供と思われる十騎ほどの騎馬兵、及び騒ぎに気づいて集まったらしい農民たちが何十人も遠巻きにしていた。カシュヴァーンは馬から降りて待機していた二人の部下に代官を左右から拘束させ、森の地面に無理矢理四つん這いにさせた。

 カシュヴァーンの後を追い、小屋の外に出たトレイスとアリシアの前で領主はすらりと剣を抜いた。手慣れたしぐさで代官の、マントをまとった首筋にねらいをつけて剣を振り下ろそうとする。


「さい、裁判を求めます!」


 流れるような一連の動作に逆らうすべを持たなかった代官が、そこに至って激しく身をもがきながら叫ぶ。


「わわ、私はこう見えて遠く男爵の血を引いておるのですぞ! こう、いや強公爵様の懐を潤すため、私は必死だったんです! 任を解かれるだけならまだしも、このようなやり方はあまりに、あまりに……!」


 領主といえども独裁者ではない。農民たちの中でのもめごとならとにかく、ある程度の地位を持つ者には国王の裁判所で裁かれる権利があるはずである。


「分かった。では裁判を行おう」


 あっさりとうなずいたカシュヴァーンは、茫然としているトレイスとアリシアを見て命じた。


「トレイス、その方の眼をふさいでおけ」


 言った瞬間、空気を切る音がした。同時に横合いから伸びてきたトレイスの手が、アリシアの両目を覆う。

 くらやみに覆われた視界の中、絶叫とやいばが肉を切り裂く音と液体が飛び散る音が響き渡った。そして最後に、カシュヴァーンの淡々とした声が聞こえてきた。


「国王陛下の手をわずらわせることもないだろう。領主の命に背き、身勝手な税の取り立てをした罪により貴様は死刑だ。以上で裁判は終了とする」


 面倒な儀式は嫌いだと、婚儀の際も彼はそういえば言っていた。処刑も含めての裁判の終了を告げたカシュヴァーンの声に続き、何かを引きずる音が聞こえてきた。

 震えるトレイスの手が下がり、開けたアリシアの視界の中にはすでに代官の姿はない。しかし彼がいた付近の地面には赤黒い染みがあり、カシュヴァーンの剣から垂れる同じ色をその部下が手際よくぬぐっているのが見える。


「新しい代官の任命は、追って通達をする。あいつに不当に税を取り立てられた覚えがある者は、その旨ひとまず村役人に申請をしておけ」


 周りに集った農民たちを見回し、言い渡したカシュヴァーンは次いでこうつけくわえた。


「あのような不心得者を今までのさばらせておいたのは、領主である俺の責だ。朝も早くから騒がせて悪かったが、もう一つやることが残っている」


 言い終えた彼が近づいてくる。眼をぱちぱちさせながら夫を見つめていたアリシアの側まで来るやいなや、大きな手がぬっと伸びてきた。

 次の瞬間ほおぼねが鳴る鈍い音が響き、トレイスの体が数歩分ほど横にはじき飛ばされた。

 ただでさえ散々殴られた後だった青年は、声を上げる暇もなくぬかるんだ地面に突っ伏す。


「まずは言い訳を聞こうか、トレイス。領主の妻に手を出した言い訳をな」


 妻、という言葉に農民たちに動揺が走る。彼らが口々につぶやくあれが死神姫、という言葉には幾つもの意味がありそうだったが、アリシア本人はそれどころではない。

 なにせ固めた拳の横でなぎ払うようにして思いきり殴られたトレイスは、まだ口がきけない状態なのだ。ぽかんとしていた彼女は、一拍遅れ慌てて夫に取りすがった。


「お待ちになってカシュヴァーン様、私がいけないんです。ええと、私が外に出たいと言って、トレイスは私をフェイトリンに連れ帰ってくれるって」

「……フェイトリンに連れ帰るだと?」


 事態の一番まずいまとめ方をしたせりの中、最も聞き捨てならない一言にカシュヴァーンの眼光がますます鋭くなる。彼は今度はアリシアに何か言おうとしたが、その時トレイスがふらふらと起き上がりカシュヴァーンの服のすそを摑んだ。


「そ、その子……いや、その方に、これ以上ひどいことをするのはやめて下さい、領主様……」


 すでにだいぶひどいことをされたトレイスの茶色い瞳には、強い光が宿っている。


「死神姫と結婚とは……あなたのやりそうなこと、ですが……その方は……いえ、その方でも誰でも……これ以上、あなた方の、犠牲になるべきでは、ない……」


 れた泥が体にも顔にも髪にも飛び散った、みじめな姿の彼をカシュヴァーンは無言で見返す。そしてもう一度手を振り上げ、今度は反対側の頰を容赦なく殴った。


「カシュヴァーン様っ」


 声を上げるアリシアをカシュヴァーンは完全に無視している。


「お前も相変わらずだなトレイス。そんなに俺のことが信じられないか」


 またも倒れ伏したトレイスを見下ろし、彼は冷たい声で言い放った。


「アリシアを妻に迎えたのは、俺の領主としての権限を強化するため。いまだ成り上がりだどうだとぎゃあぎゃあうるさい連中が大好きな、高貴な血とやらを我がライセンの血に加えるためだ。引いてはそのことが、アズベルグ全体の平和につながる」


「平和」の一言にトレイスは切れた唇をみしめる。どの口が言うのだ、と思っていることは明らかだったが、カシュヴァーンは同じ調ちようで続けた。


「さっきの代官のような勘違いをした連中を、一々粛清していては面倒が過ぎるからな。個々の貴族どもが好き勝手にやっていた時代はとっとと終わらせたい。そのためには多少の強引さもやむなしだ」

「……そうですよ」


 震える声が不意に上がった。声がした方を向いたアリシアは、乳飲み子を抱えた若い母親がおずおずと領主に頭を下げるのを見た。


「ライセン様は……怖い方、ですけど……でも……でも、理不尽なだけの支配は、なさいません」


 彼女の声は明らかにおびえている。しかしその怯えには尊敬と感謝の念も同時に込められていた。


「分を守っていさえすれば、ちゃんと守って下さります。あの代官などとは大違い……」

「そうだぞ、トレイス。前の領主様とも違うんだ」


 最初の女の声につられたように、別の男が今度はトレイスに話しかける。


「お前の姉のことは気の毒だった。だけどリリアはもう戻らないんだし、家族を失ったのはお前だけじゃないんだぞ。お前は公爵様のおさなみみたいなものじゃないか、そのお前がなんで……」

「うるさい、どうして皆この方を信じられるんだ! 分からないのか、怖くないのか! どんどんあの方に似てくるのに!」


 聞き分けのない子供のようにトレイスが叫ぶ。

「あの方?」と思わずアリシアは聞き返し、「あの方に似てくる」と言われた夫を見上げた。

 その瞬間、彼女は思わず息を飲む。

 どうやらトレイスにあらぬ嫌疑をかけているらしいカシュヴァーンの顔つきは、小屋に入って来た時点で穏当とは言い難かった。しかし今彼がトレイスを見る、その目つきに比べればよほどましだった。


「……その、眼、ですよ」


 ひるみを表情に覗かせながらも、トレイスは痛々しくれた顔をカシュヴァーンかららさずに言う。


「ずっとあなたの側にいた私だからこそ、言えることがあります。領主になってあなたは変わった」


 拳を握り締め、彼は震える声を絞り出した。叫んだためにさっき切った唇の端からまた血が流れ始めているが、悪い熱に浮かされたような言葉は止まらない。


「ええ、分かっています。ただ優しいだけでは領主は務まらない。めちゃくちゃだったこの地の支配を正すため、あなたがどれ程努力されているかも。……ですが、感情だけはどうしようもない……!」


 おとなしげな容姿とは裏腹の強い怒りと憎しみにトレイスの声は震えている。彼を見つめるカシュヴァーンの表情はいつしか先刻ほど恐ろしげなものではなくなっていたが、無表情に近いその顔からは内面にあるものを読み取ることが出来ない。


「お前はアリシアを俺の妻と知って、自分の家に連れ込んだのか?」


 どうこくのようなトレイスの言葉など、まるで聞いていなかったかのようにカシュヴァーンが問う。トレイスは一瞬眼を剝いたが、すぐに深く一つ息をいて答えた。


「……あなたの奥様とは存じませんでした。ですが、あなたから逃がして差し上げようとしたことは事実です」


 くだくだしい言い訳を、彼はする気はないようだった。短くそれだけ述べた後、トレイスは自ら地面に膝を突き頭を垂れた。


「私は裁判は要りません。あなたの思うままの処置で結構です。もっともあなたの思う裁判を受けたところで、結果が変わるとも思えませんが」


 差し出された首筋を見下ろし、カシュヴァーンの手が腰の剣に伸びる。止めようとアリシアは手を伸ばしたが、それよりはるかに彼の動きが速い。

 思わず眼を閉じてしまったアリシアの耳に、がつっという鈍い音が響く。さっきと音が違うわと思いながらそろそろ彼女が眼を見開くと、またしても地面に横倒しになったトレイスが見えた。


「俺に対する暴言の数々については、これと税の一割増で勘弁してやろう」


 今度はトレイスの脇腹をしたたかにばしたカシュヴァーンは、足を戻してそう言い放つ。


「お前は俺が定めた法に従い、課した税をきちんと支払っている。そうである以上お前も俺の領民だ。アリシアについては、迷子の妻を保護してくれたということにしておいてやろう」


 懸命に吐き気をこらえているらしき若者から眼を逸らし、彼はおもむろに妻の細い手首を摑んだ。


「ただし二度目はない。おい、戻るぞ」


 息を殺して主人のすることを見守っていた部下たちにカシュヴァーンはそう言った。よく訓練されているらしい彼らはてきぱきと動き始め、カシュヴァーンは振り返りもせずに一台の馬車へ向かう。

 昨日の夜ノーラが乗せてくれたものではなく、アリシアがアズベルグにやって来た時に乗った馬車だった。御者は同じくロセで、冷たい無表情のあるじとその妻が近寄って来るのを何か言いたそうな顔をしながら黙って待っている。

 先にアリシアを乗せ、続いてカシュヴァーンが乗り込むと騎馬兵に囲まれた馬車はすぐに出発した。先程の農民たちが頭を下げて見送っているのをアリシアは窓の外に見たが、トレイスの姿は見つからなかった。


「さて、我が妻よ。今度はお前の言い訳を聞こうか?」


 言われて夫の方を向いたアリシアは、思ったよりもずっと近い位置にカシュヴァーンの顔を見つけた。その顔は先にトレイスが口を滑らせた時ほど冷たくはないが、昨日アリシアの頭をでて笑った男と同一人物とは思えない。


「勝手に出歩くなと俺は言い、あなたは分かったと答えたはずだ。その舌の根も乾かぬうちに、ごていねいに変装までして屋敷を抜け出すとは恐れ入ったぞ」


 突然の来訪には驚かされたものだが、カシュヴァーンは元々アリシアを探してこのあたりに来ていたのだろう。そこに不当な税の取り立てをしている代官を見つけ、ついでに始末をつけたというわけだ。


「ごめんなさい……」


 他にどうしようもなく、素直にアリシアは謝った。


「あの……私、カシュヴァーン様がどんな風にお仕事をしていらっしゃるか知りたくて。ごめんなさい」

「つまりは俺の暴君ぶりを知りたくて、か。では今回のことは、実に有意義だったわけだ」


 皮肉げな瞳は不穏な輝きを秘めている。その輝きに触発されて、アリシアはついこう聞いてしまった。


「トレイスの言っていたあの方って、前の領主様のことですか?」


 先の話の流れからするとそういうことだろう。しかし彼女の言葉を聞いた瞬間、カシュヴァーンの目つきは一気に険しくなった。


「アリシア。あなたは俺の何だ?」


 逆に問い返され、アリシアは素直に答える。


「妻です」

「そう、金で買われたな。つまりあなたはどうあっても、俺の機嫌を損ねるわけにはいかない存在だ。分かるな」


 言いながら彼は手を伸ばし、アリシアの髪に触れる。農民のような服が妙に似合っている彼女の髪の触り心地は気に入っているらしく、その指先の動きは不気味なくらいに優しいが口から出る言葉は鋭く冷たい。


「いいかアリシア。今後二度と俺に逆らうな」


 有無を言わせぬ口調でカシュヴァーンは命じる。


「もしもまた勝手に屋敷を抜け出すようなをしてみろ。俺はあなたに首輪をつけるか、さもなくば足をらねばならなくなる。分かったな」

「……はい、分かりましたわ」


 恐ろしい脅し文句にアリシアは素直に首を縦に振る。ただし彼女がより恐ろしく思い出していたのは、ティルナードが自分を連れ戻すとわめいた際にカシュヴァーンが口にした違約金のことだった。


「ならいい」


 うなずいたカシュヴァーンは、ふっと息を吐いて前を向いた。瞳を閉じ、唇を閉ざしたその横顔は何か考え込んでいるようである。

 どことなく疲れているように感じられる顔を見ながら、アリシアはもう一つ聞いてみた。


「トレイスは、カシュヴァーン様のお友達ですの?」

「……大概学習しないな、あなたも」


 再び眼を開いたカシュヴァーンは、あきれたように彼女を見た。


「好奇心おうせいなのは結構だが、俺の機嫌を損ねさせるなと今言ったばかりだろうが」

「あら、ごめんなさい。トレイスのことはお嫌いなのですね」


 そう言って謝るアリシアに、カシュヴァーンはかすかに眼を見張った。なぜか苦笑いした彼は、手を伸ばし今度は彼女の肩を抱く。


「俺より先にあいつと一晩過ごした訳だが、何もされなかっただろうな」


 言われてアリシアは、されるがままに抱き寄せられた状態で首を振った。


「いえ、別に」

「だろうな。他の男ならとにかく、あのトレイスだからな……」


 あの、という彼の言い方には、幾つかの感情が込められているようだった。懐かしさ、親しみ、一種の誇らしさ。

 だがそれらすべての感情を閉め出すように瞳を閉じて、カシュヴァーンは小さく息を吐いて命じる。


「……トレイスのことを聞くのも禁止だ。分かったな、アリシア」


 もう一つ増えた禁止事項に、アリシアは好奇心を抑えてこくりとうなずいた。


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