愛人の心 正妻知らず④


 夕食を終え、部屋に戻ってしばらくした後のことだ。真っ黒い寝台の上に座り、アリシアは実家から持ってきた読み古した本を引っ張り出して読んでいた。

 しよくだいの火は惜しみなく使えるとはいえ、元が薄暗い屋敷の中である。ただでさえ古びてかすれてきている字は読みにくいことこの上ないが、むしろ趣き深いと彼女は感じていた。


「それは漆黒の森の奥深く、闇の中の更なる深き闇としてたたずんでいた。さやかな風に乗った甘いに入り混じり、死の気配が巨大な屋敷のすべてを覆う……」


 お気に入りの話の一つ、ハルバーストの薔薇屋敷の冒頭部分である。口に出して読み返してみてアリシアはああ、と声を震わせた。


「もったいないわ! しかも幽霊が出るなんて、ますますそのものじゃないの。何とかカシュヴァーン様にお願いできないかしら……はい? どうぞ」


 いまだ未練がましく廃園について考えていたところに、扉を叩く音が響く。入って来たのは予想通りノーラだったが、その唇から出た言葉は予想と違った。


「夜分に失礼します奥様。ねえ、奥様はカシュヴァーン様の仕事ぶりに興味がおありのようですわね。もしも奥様がどうしてもとおっしゃるのなら、このノーラが外へご案内しましょうか?」


 思ってもみなかった提案に、アリシアはびっくりして声を上げてしまう。


「まあ! ノーラ、いいの!?」

「ええ、奥様がどうしてもとおっしゃるのなら」

「でもカシュヴァーン様はお許し下さるかしら?」

「さあ……ですが、奥様がどうしてもとおっしゃるのなら」


 カシュヴァーンがどう思うかについては、ノーラははっきりとした言葉を出さない。アリシアはちょっと考え込んでしまった。


「ううん……でもどうかしら。カシュヴァーン様と、ついさっきお約束したばかりなのよね……」


 夕食の席でしたばかりの約束を、いきなり破るのはさすがにまずいのではないか。思うように話に乗ってこないアリシアに、ノーラはわざとらしくため息をつく。


「そうですか、仕方がないですわねえ。わざわざ農民に変装するためのお洋服まで用意して、絶対にばれないようにしようと思っておりましたのに……分かりましたわ、このお話はなかったことに」

「いいえ、待ってノーラ!」


 にわかに慌てた顔になり、アリシアは去ろうとしたノーラを引き留めた。


「ごめんなさい、私行きたいわ! こんな夜中に農民のふりをしてお出かけなんてとても面白そう! 連れて行って!」

「ほ、ほほ、奥様ならきっとそうおっしゃると思っておりましたわ」


 あまりのアリシアの勢いに若干引きながらノーラがうなずく。


「でも、くれぐれも私がこんな提案をしたことはカシュヴァーン様にはないしょにしておいて下さいね? 万一あの方にばれてしまった時も、どうぞこのノーラをお恨みにならないで頂きたいのですが」

「もちろんよノーラ! ありがとう!」


 心からの礼を述べるアリシアの笑顔に、一瞬ノーラが言葉に詰まる。だが彼女はすぐにいいえどう致しまして、と優雅に微笑み、早速計画の実行を始めた。


 アズベルグに来た時よりもさらに旧式の、どこからどう見ても荷馬車である物に乗せられたアリシアの胸は弾んでいた。


「ちょっと、もうちょっと揺れないように出来ませんの!?」


 農民の娘が着るような前掛けつきの粗末な衣服に身を包んだアリシアの横で、ノーラが御者台に向かって叫んでいた。御者役の若者は多少速度を下げて彼女の命に対応しようとしたが、元の道が悪いためあまり効果は上がっていない。


「まあ、霧まで出て来たわね。うふふ何にも見えない」


 霧に閉ざされた空を見上げ、アリシアは幸せそうに笑っている。その横でメイド服のノーラは下から突き上げるように襲いくる揺れに翻弄され、そのたびに悪態をついていた。

 どれぐらい走っただろうか。ノーラの指示で馬車は止まり、痛むお尻を押さえながら立ち上がった彼女が馬車の引き戸を開けアリシアを降ろしてくれる。

 靴底に湿った土の感触を感じながら、アリシアは白く濁った景色を見回した。夜の冷気は着込んだ服の上からも肌に染み入るようだが、吐く息の白ささえ霧に紛れてよく分からない。


「降りても何にも見えないわねえ」


 馬車の横にくくりつけられたあかりにより、かろうじて森の中の少し開けた地である、ぐらいは分かる。いくつか切り株が見えるので付近には人がいるのだろうが、いかんせん霧が濃く元々土地勘のないアリシアには全く場所の見当がつかない。


「あちらをご覧下さいませ奥様。灯りが見えませんか?」


 ノーラに言われて霧の向こうに眼をやったアリシアは、確かにぼんやりとした灯りを見つけた。周りには火の見張りらしい人影が立っているのも見える。


「確かにそうね、灯りがあるわ。あれは村か何かの見張りの火? あら?」


 少しそちらの方に進んでみてから、ノーラを振り向こうとしたアリシアの耳にむちの音と馬のいななきが響く。視界を埋める霧の向こうに、ごくぼんやりとだが走り去る馬車の姿が見えた。


「あらら?」


 数歩荷馬車を追ってみたが、走り出した馬に人が追いつけるはずがない。きょとんとしている内にぼんやりした影すら見えなくなり、ひづめと車輪が地面をる音も聞こえなくなってしまった。


「あらあら、ノーラってば。私はここにいるのに」


 のんびりつぶやいたアリシアは、とりあえず周囲を見回してみる。目標物になりそうなものは先程ノーラに言われたあの火しかない。


「あの火のあるあたりにカシュヴァーン様がいらっしゃるのかしらね」


 ひとりごちたアリシアは、置き去りにされた自覚もないままに夜の森の中を歩き始めた。



 近くに見えていた火だが、視界の悪い夜の森の中だ。その上霧に閉ざされた状態では、目標に向かってまっすぐ歩くこと自体が難しい。

 いつの間にか目標にしていた火をアリシアは見失ってしまった。切り株なども見えなくなってしまい、まわりに広がるのは人の手が入っていることが感じられないうつそうとした黒い森ばかり。

 フェイトリンにだって森がないわけではなかったが、ここは日差しが弱いせいだろうか。陽光を求めて高く伸びた木々の足下には下生えの植物があまりなく、水気を含んだ土は一足ごとに靴の裏に粘つくように感じられる。


「ううんと……ちょっとまずいかしら」


 いくらのんきなアリシアでも、霧に包まれた夜の森の中での単独行動が危険なことぐらい分かっている。木で風が遮られているのでまだ寒さは何とか我慢できるはんちゆうだが、霧も吹き散らされることなくその場にとどまったままだ。

 人里に近い場所ならまだしも、森の奥深くに入ってしまえば危険な獣が出る可能性は高い。さっきから時折、おおかみおぼしき獣のとおえも遠く聞こえて来ているのだ。

 おまけにおなかがいて来てしまった。もっと食べておけば良かったわと後悔しながら、カシュヴァーンよりも食べたはずのアリシアはきょろきょろと視線を巡らせる。

 だが霧はますます濃くなってきており、転ばないように歩くので精一杯。しめった木の幹につかまりながら進むうち、段々元来た方向も分からなくなってきた。なにせ延々と同じような木が並んでいるばかりなので、目印に出来るようなものが見当たらないのだ。


「何か出そうで素敵なんだけど、困ったわねえ……あら」


 夜の森の闇の中、湿った土のにおいとははっきりと区別される甘い匂いが不意にアリシアの鼻先をかすめた。

 それほど強い匂いではない。けれど妙に食欲をそそる甘いに、彼女と彼女の空き腹はたちまち反応した。


「まあ、この匂いは……」


 そろそろ闇にも慣れた眼でまわりを見回すと、匂いに導かれ少女はとことこと歩き出す。程なくちょうどアリシアの背丈ほどの、肉厚の葉の集合体であるこんもりとした茂みの側へとたどり着けた。

 甘い匂いの発生源は間違いなくこの、縁にぼんやりとした赤紫を含んだ葉。吸い寄せられるようにアリシアは一枚の葉を手に取り、躊躇なく口に含んだ。


「何をしているんだ!」


 突然響いた大声に、アリシアは驚いて眼を白黒させる。だが驚いたのは霧の向こうから現れた青年も同じであるらしく、こわった顔をした彼は早足に近づいて来てアリシアの口に指を突っ込んできた。


「飲むんじゃない、馬鹿、吐き出せ!」


 血相を変えた彼の指は強く、あっさりとくしゃくしゃになった葉は彼女の口から吐き出されてしまった。飲み込んだ様子がないことを確認しながら、突然現れた金髪の青年はまだ動揺の残った声でうめいた。


「こ、こんな夜中にこんな森の中で、しかも肥料要らずの葉を食べるなんて正気か君は!? いくらいい匂いがするからって、食べたらどうなるかぐらい知っているだろう!」


 農夫か木こりのような粗末な服装をしているにもかかわらず、アリシアを「君」と呼ぶなど妙に言葉遣いは上品だ。けほけほとむせながらアリシアは、背をさすってくれている彼を見上げた。

 短い金髪の青年は、年の頃は二十代半ばほどだろうか。中肉中背で一見目立たない感じだが、よく見れば案外その顔立ちは整っている。


「あ、ありがとうございます……かしら? あのう、と言いますかあなたもここで何をしていらっしゃるの?」


「こんな夜中にこんな森の中」に関しては、彼もアリシアと同じである。すると青年は背後を振り返ってこう言った。


「私はこの近くに住んでいるんだ。この肥料要らずたちも私が植えたんだよ。……森の獣も恐れて近づかない葉だから、獣けになるってことを知らない訳じゃないだろう? このあたりの子供なら、親は真っ先にそれを教えるはずで……え」


 肥料要らずという名の由来も、人や獣が匂いにつられて食べたが最後その場で即死するほどの毒性にあるのだ。己の側で息絶えた者たちを養分とし、彼らは新たなえさを招き寄せるのである。

 アリシアの頭の具合を心配しているように言った彼のまゆが寄せられた。


「君、このへんの子じゃないね。どこから来たの?」


 見つめるうちに、本当にこのあたりの者ではないと気づいたのだろう。当然の質問にアリシアはこう答えた。


「フェイトリンからです」


 素直な回答に、彼はぎょっとした顔になる。


「フェイトリン!? そんなに遠くから、一体どうやって!」

「馬車で」

「い、いや、それはそうなんだろうけど……」


 徒歩で来られる距離ではないのだから当たり前だが、素直過ぎる答えに彼はいささか面食らったようだ。次の質問に困っている青年に、少し迷ってからアリシアは尋ねてみた。


「あのう、実はですね。理由は聞かないで欲しいんですけど、私ライセンのお屋敷に戻らないといけないんですの。申し訳ないけど、ここからだとどちらの方向になるのかしら?」


 ノーラにはお忍びなのだから身分を隠せと言われている。そのためものすごく怪しい前置きつきの質問になってしまったが、一連の言葉を聞いた途端青年の態度がまた一変した。


「ライセン!? 君、君はあそこから来たのか!?」

「ええ」


 過剰反応に鈍い反応を返すアリシアを、青年はまじまじと見つめていた。何やら非常な衝撃を受けた表情で、彼はぶつぶつ言い始める。


「まさか……そうか。やっぱりだ。やっぱりあいつは、また同じことを始めたんだ」


 アリシアにはよく意味の分からぬひとりごとが終わる頃には、彼の優しい茶色の瞳にあるのは怒りから同情と……そして奇妙な使命感へと変わっていた。ティルナードがアリシアを見る時とある種共通した空気がその表情に現れている。


「気の毒に。つらい目に遭ったんだろうね」


 真摯な声でつぶやかれても、アリシアは何のことやらさっぱりだ。だが彼はその反応すら、彼の中の法則にのつとって受け止めたらしい。


「ううん、全てを言わなくてもいいんだよ。もうここまで逃げて来たんだ、大丈夫。あいつらはそこまでひとりの女性に執着しない。誰だっていいんだ。誰だって……」


 怒りと憎しみに青年の声が震える。何だか変だとは思いながらも、アリシアはとりあえずこう言った。


「いいえ、私カシュヴァーン様のところに帰らないと。だって私、あの方に買われて」

「だめだ! 君はだまされているんだ。あんな屋敷に戻ってはいけない!」


 聞く者をぎょっとさせるような大声を出した後、彼は眼をぱちぱちさせているアリシアに何とか声を抑えて続ける。


「……君は余計なことを知る必要はない。心配しなくても大丈夫、フェイトリンには私が明日の朝にでも送ってあげる。狭くて汚いところで悪いけれど、差し当たって今夜は私の家へ泊めてあげるから」


 いつの間にかフェイトリンに帰される話になっている。アリシアはさすがに何か言おうとしたが、それより早く彼がこう言った。


「私はトレイス。おなかが空いてるんだろう? すぐに食べる物も用意するからね」


 アリシアとしても元来た方向も分からない現在、これ以上夜の森の中にいるわけにもいかない。何より食べる物という言葉が魅力的で、彼女はトレイスという青年にひとまず従ってみることにした。


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