愛人の心 正妻知らず③


「レイデン伯爵は何の話をしていかれたんだ?」


 その日の夜、夕食の席にて上座に座ったカシュヴァーンは豪勢な食事に幸福な舌鼓を打っている妻にそう語りかけた。

 忙しいと噂の館の主が戻って来たのは、アリシアが台所にいた時のこと。ノーラ以外の使用人から無視されているに近い状態の彼女が、実家にいた時と同じように自分で食事を作り始めて間もなくだった。

 昼間アリシアの料理の手際を見たノーラは、彼女が今までずっと自分で食事を作っていたことを聞き出した。ではこちらでもそのようになさいませ、と言われたアリシアは、実家にいた時よりはるかに豊かな食材の山に感動しながら本当に夕食も作り始めたのだ。


「……お上手だなあ」


 中年の料理人がぽつりとつぶやくのをじろっとにらみ、ノーラも無言でアリシアの振る舞いを見守っていた。ところが途中でカシュヴァーンの帰邸が知らされ、慌てた使用人たちは今回は自分たちが作るから、と言ってアリシアを台所から追い出したのである。

 そうか、カシュヴァーン様がいらっしゃる時は作ってもらえるのねと学習したアリシアは、久しぶりの他人の手による食事に夢中だった。おかげで一瞬カシュヴァーンの台詞を聞き取り損ねたが、彼は口いっぱいに物を詰めた彼女を見て面白そうに笑う。


「ああ、それを飲み込んでから答えてくれるので構わない。レイデン伯爵が昼間あなたを訪ねただろう? 何の話をして行ったのか、と聞いたんだ」


 探るような色がその眼にはある。スープに浮いていた大きめの肉団子をごくんと飲み込み、アリシアは昼間のことを思い出そうとした。


「ええと……伯爵は、この近くに天幕を張って滞在していらっしゃるらしいですわね」

「ああ、そのようだな」


 別段驚いた風もなく、すでに食事を食べ終えているカシュヴァーンはおかしそうにうなずく。


「色々と用意がいいのは結構なことだが、他人の領地に勝手に天幕を張って居座るとはまことにいい度胸でいらっしゃる。とはいえ他に気の利いた設備もないことだしな。俺の見張りをしようと思えば、天幕でも張らざるを得ないのだろうが」


 彼の言う通り、ライセンの屋敷のそばには大勢が泊まり込めるような宿が他にないのだ。その言葉を聞いてアリシアはそういえば、と思い尋ねてみた。


「ねえカシュヴァーン様。こちらのお屋敷の場所は不便ではありませんの? 来る時に見ましたけど、森の中には他に村や町があるようでもありませんし。何かあった時に出て行くのにお時間がかかり過ぎるのではないかしら」


 攻め込まれることを想定しての立地なら便の悪さも計算のうちかもしれないが、統治を行うには不便だろう。やたらと出かけては戻って来ないのもそのせいではないかと思っての質問に、カシュヴァーンは少し意外そうな顔をしながら答える。


「確かにな。正直交通の便は悪い。一応もう少し便のいいところに、別に拠点となるような屋敷を構えてはいるんだ」


 そこで彼は、ちらと室内に視線を泳がせた。黒い壁を伝い、黒い床をい、窓を覆う深紅のどんちようを滑って天井の隅にある翼ある怪物の像へ。最後にその瞳は屋敷の裏手、あの廃園がある方へと向かった。


「だが……そうだな。まずは俺がここに住んでいるというだけで、ある程度の威嚇材料にはなるのが一つ。それに……やはりここが、俺の生まれ育った家だからな」


 わずかに声の調子を落としてつぶやく言葉にアリシアも同調した。


「そうですわよね、やっぱり生まれ育った家って大事ですわ。どんなにぼろぼろでお金ばかりかかっても、思い出もたくさんありますしね」


 彼女は自分の生家のことを言っているのだが、今の話の流れ上ライセンの屋敷を皮肉っているようにも聞こえる。だがカシュヴァーンは思うところあってかそこには触れず、さり気なくアリシアに眼を戻してこう言った。


「見るべき面白いものが何もなくて、つまらない思いをさせているのなら申し訳ない。あいにくと楽士だの道化だのの類も雇っていなくてな」

「いいえ、そんなことはありませんわ。だってこのお屋敷自体がとっても面白いですもの。昼間でも薄暗くて、とても迷いやすい構造で」


 夫の気遣いの言葉に対し、嫌味ともなりかねない返答をその妻はにっこり笑って返した。おまけに彼女はこんな質問を始めた。


「あのう、カシュヴァーン様ってそんなにひどい暴君なんですか?」


 ティルナードとユーランの話を思い出してみた結果、出て来たのはそういう言葉だ。これにはさしものカシュヴァーンも驚いた顔をし、給仕のために側に控えていたノーラまで瞬間的に青くなる。

 だがカシュヴァーンはむしろアリシアの受け答えが気に入ったらしい。探るような光はその瞳から完全になくなり、彼は豪快に声を上げて笑った。


「はは、レイデン伯爵はそんなことをわざわざあなたに忠告しに来たのか! 確かにきつすいの貴族連中から見れば、俺は大変な暴君に見えるかもな!」


 ひとしきり愉快そうに笑ったカシュヴァーンの眼に意地の悪いものが浮かぶ。もう一つ肉団子をすくおうとしている妻に、彼はこう問いかけた。


「あなたにはどう見える。俺は奴らの言うような、横暴で鼻持ちならない暴君だと思うか?」


 アリシアも一応生粋の貴族ではある。しかし彼女は人の悪い顔つきになっている夫を恐れることなく見返し、いつも通りに脳天気に笑って応じた。


「みなさん色々おっしゃいますけど、私にとってはとってもいい方ですわ。おいしい食事を食べさせて下さるし、すてきなお部屋を用意して下さるし、屋敷のお手入れはみんな使用人たちがしてくれますし」


 奥方つきのメイドはひとり、という言葉通りノーラ以外の使用人にはほぼ完全に無視されているアリシアだが、数は少ないながらも彼らはみな働き者だ。食事こそ大方は自分で作らねばならないが、掃除をしないで済むだけでかなりありがたい。

 不満と言えばあの、裏手にある廃園への出入りをカシュヴァーンが禁じているらしきことぐらいだろう。でも禁じられる方が燃えもするわね、と思いながらアリシアは続けた。


「ユーラン様は、あなたの統治の様子を実際に見れば分かるとおっしゃいましたけど。そうだわカシュヴァーン様、今度私もカシュヴァーン様のお仕事にいっしょに連れて行ってもらえませんか?」


 廃園以外の屋敷の内部は、昨日今日で一通り見回ってしまったのだ。未知なるものを求めるならば外へ行くしかない。カシュヴァーンが暴君かどうかは別として、彼がどういう仕事をしているかにも興味がある。

 だが嬉しそうな妻の提案に、カシュヴァーンは小さく笑って首を振った。


「そうしたいのは山々だが、生憎とあなたにやみに外に出てもらっては困るんだ。俺が噂の死神姫を妻としたことはたっぷり宣伝してあるからな。うかつに出歩くと殺されるかもしれないぞ」

「まあ、どうして?」


 あまり緊張感なく問い返してくる妻に、カシュヴァーンは笑いながら説明してやる。


「あなたを得たことにより、俺の領主としての基盤がますます強固になったからさ。それにこのアズベルグにはいまだに信心深い連中が多く、そういう連中にとっては死神姫は恐怖の対象だ。だからこそ、俺はあなたを迎えたわけでもあるんだがな」


 言いながら彼は立ち上がった。食事中に突然席を立った礼儀知らずの夫に合わせ、自分も立とうとした妻の小さな亜麻色の頭をカシュヴァーンは軽く押さえる。


「もっともあなたを一目見て、あの死神姫だと看破できる奴はいないだろうが。ああ、いいんだ、あなたは思う存分食べていてくれ」


 さり気なく失礼なことを言ってそのまま出て行こうとした彼は、ふと思い出したようにこう言い始めた。


「そうだ、禁止ついでに言っておこう。もうノーラか誰かに聞いたかもしれないが、屋敷の裏の廃園。あそこにだけは近づくな」


 ――廃園。

 その話を聞いて以来ずっと胸の中にしこっていたものについて、初めてカシュヴァーン自身の口から聞いた。アリシアの鼓動は自然と速くなり、彼女はぶるっと身を震わせる。

 言うなれば武者震いに近い感覚なのだが、カシュヴァーンはアリシアが怯えたと取ったらしい。満足そうに笑ってさらに言ってきた。


「その様子だと、現物を見たようだな。あそこはぼろぼろに荒れ果てている上に怖い怖い幽霊が出る。命が惜しいなら、絶対に近づくんじゃないぞ。屋敷内ならどこに行こうが別に構わんが、屋敷の外と廃園だけは立ち入り禁止だ。分かったな」

「……ええ」


 少ししょんぼりした様子でうなずいた彼女の頭を、カシュヴァーンは子供にするように軽くでた。ノーラが眼を見張るが、彼は触り心地を楽しむように滑らかな髪を撫でて笑う。


「それではな、奥方。俺は思ったよりもあなたのことを気に入っているようなんだ。しばらくは窮屈な思いをさせるが、俺の言うことを聞いている間は悪いようにはしない。いいな」


 ユーランが語ったことを裏づけるような台詞だったが、その口調は案外優しかった。大きな彼の手が自分の頭から離れる一瞬寂しさを感じながら、アリシアはそういえばと思い尋ねた。


「カシュヴァーン様は、いつもどこに行かれているんですか?」

「領地の見回りさ。俺が頻繁に顔を出して威嚇しておかないと、このあたりはまたすぐに荒れ始める」


 その、さも当たり前のような語り口にアリシアはもっと不思議そうな顔になった。


「アズベルグの地は、荒れているのですか? あなたが暴君だから?」

「……なるほど。本当に何も聞かずにここに来たわけだ」


 わずかに鋭さを増した瞳で妻を見たものの、カシュヴァーンはあわれみとあざけりが半々の微笑を浮かべて答えた。


「聞いての通りライセンという名前には全く歴史がない。そんな領主に頭を押さえられると、生粋のお貴族様というのは反発したくなるらしいのさ。もっとも大変にお上品な反発で、せいぜい俺の眼の届かないところで余計なをなさるぐらいのものなんだが」


 正面切ってけんを売る度胸は奴らにはないのだと、彼は言いたいようだった。


「だが、あなたは俺の仕事に首を突っ込む必要はないはずだ。それを食べたらおとなしく休むんだぞ」


 子供に言い聞かせるような台詞を最後に、彼はまたアリシアの頭を撫でて出て行った。

 お前だけは絶対に、いい家に嫁がせて楽な暮らしをさせてやるからな。

 繰り返しそう言ってこけた頰に笑みを浮かべた父親の面影が、ふとアリシアの脳裏をかすめた。

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