第二章 愛人の心 正妻知らず

愛人の心 正妻知らず①


 新婚一日目にアリシアのを覚まさせたのは、馬のいななきと人の話し声だった。


「……あら、いけないわ」


 素晴らしい悪夢を期待し過ぎて、ノーラが去った後も珍しく寝つけなかったせいだろう。うっかり寝過ごしてしまったアリシアは、寝台から飛び起きて着替えを始めた。

 そこへ扉をたたく音が響き、ノーラの呼び声が聞こえてくる。


「奥様、おはようございます。起きていらっしゃいますか?」


 まだきちんと服を着ていなかったが、相手がノーラということもありアリシアは「起きているわ」と返事をした。


「おはようございます……あら、まあ、まあまあ」


 入ってきたノーラはさもおかしそうにくすりと笑った後、一生懸命髪をといているアリシアに向かって用件を伝え始めた。


「奥様、実は奥様にお客様がいらしております。カシュヴァーン様に申し上げたところ、お通しして良いとのことですので客間にてお待ち頂いておりますが……いかがいたしましょうか」

「え、私に? どなた?」


 いきなりのことに驚くアリシアに、ノーラは試すような視線を送る。


「昨日お会いされた、レイデン伯爵閣下とその後見人様でございます。普通は新婚の花嫁に男性のお客様など、あまり会わせたいとは思わないものでしょうけどねえ。いかがしましょうか」


 織り交ぜられた嫌味に反応せず、アリシアは何でもないように会話を続ける。


「ええと、カシュヴァーン様はお通ししなさいとおっしゃったのよね。あ、それで、カシュヴァーン様ご本人は?」

「……だん様はお忙しい御方ですから。先程お出かけになられました」


 ではさっきの馬のいななきは、彼のしゆつたつの際のものだったに違いない。


「とっても働き者の旦那様ねえ。出立のごあいさつぐらいしないといけなかったわよね、私ったら」


 ほほ、とノーラはまたおかしそうに笑った。


「いえいえ、カシュヴァーン様もおっしゃってたでしょう? 奥様はただここにいて下さればよろしいと。一々出立の挨拶なんかしなくてもよろしいのですわ」

「あら、そうだったわね。じゃあお客様のお相手もしなくていいかしら」


 ティルナードたちを無視しようかという発言に、ノーラは慌てた顔になった。


「いいえ! だめですよそんなの。ご主人様がお通しせよ、とおっしゃった上でのお客人ですのよ。きちんとお迎えいたしませんと、家の名誉にかかわりますわ!」

「やっぱりそうよね。じゃあ分かったわノーラ、私がお迎えします」


 家の主人が不在の際、客のもてなしをするのは妻の役目である。どうにか身なりを取り繕って部屋を出ようとしたアリシアだが、その時彼女のおなかが小さく鳴った。


「あら、嫌だ」


 ちょっと恥ずかしそうにしてから、アリシアはノーラに聞いてみた。


「ええと、レイデン伯爵様にはお茶菓子か何かお出ししてあるのかしら。申し訳ないけど、私ちょっとお時間を頂いて何か食べて来てはだめ?」


 このままだと客人の前でまたおなかを鳴らしてしまいそうだ。しかしアリシアの言葉に、一瞬黙り込んだノーラは次の瞬間空々しい声でこう返した。


「お食べになるのは結構ですけど、レイデン伯爵は客間でお座りのままお待ちになってますわよ。お茶菓子も何も、奥様の指示を頂いておりませんのにお出しできませんわ」

「あら、それはいけないわね。じゃあ悪いけど、何かお出ししてくれる?」


 ノーラの声音の変化にあまり気づいた様子なくアリシアは応じた。

 しかしノーラはつんと高い鼻をふんと鳴らして冷笑する。


「何か、では分かりませんわ奥様。昨日屋敷の中は一通りご案内したでしょう。どういったものをどのようにお出しするのか、きちんと命じて下さりませんと」


「あそこが客間です」程度の案内しかしていなかったメイドの口から出て来るのは、命令の詳細を要求する高圧的な言葉の数々。ぽかんとしているアリシアを見下ろして、ノーラは腕組みしたたみこむ。


「言っておきますけど、他の使用人に助けを求めても無駄ですわよ。私はあなたづきの、たったひとりのメイドです。ライセンの屋敷に使用人が少ないのはもうご存じでしょう? ただいて下さればいい奥様に、これ以上の人員を割くことは出来ませんのよ」

「あらそうなの。私が決めないといけないのね」


 あまり深刻さのない声で言ったアリシアは、少し間を置いてそうだわ、とつぶやいた。


 他の部屋と同じく、黒い床と黒い壁に囲まれた客間内に温かな湯気が立ち上る。ライセンの奥方として長卓の上座に腰掛けたアリシアは、斜め向かいの席に座ったティルナードとユーランににこにこしながら食事を勧めていた。


「さあ、ご遠慮なくどうぞ。私も頂きますから」

「は、はあ」


 困惑した様子で、ティルナードは眼の前に並べられた料理の皿を見つめている。

 茶菓子を決めてくれと言われたアリシアは、本当にそれを決めるために台所へ行った。突然の奥方の登場に驚く料理人たちを尻目に彼女は食材を物色したが、その間にもおなかがぐうぐう鳴ってしまった。

 そこで彼女は三人分のパンに野菜や揚げた肉を挟んだ軽食を手早く作り、それらを持って客人の待つ客間へと向かったのだ。ちょうどいい茶菓子のたぐいも見当たらず、自分のおなかをなだめる必要があることを考えるとこれが一番の解決法だと彼女は考えた。

 しかしティルナードとノーラはそう思っていないようであり、早速食事をぱくつき始めたアリシアをかなり困惑した眼で見つめている。前者は待たされた挙げ句に朝食を取って間もない胃には重たい食事をどうしようかと思っており、後者は勢いにまれて結局手伝ってしまった自分を悔やんでいる様子だった。


「全く、自分で食事を作れるお嬢様なんて聞いたことがないですわ! この方本当に偽物で、下働きの子かなんかじゃないのかしら」


 一応アリシアの背後に残っているノーラが小声でぶつぶつ言っているが、アリシア本人はとりあえず自分の食欲を満たすことに夢中で気づいていない。


「うわあ、フェイトリンのお嬢様の手ずからお作りになったものとは! 感激です。ねえぼっちゃん」


 喜んでいるのはユーランで、にこにこしながら横のティルナードに同意を求めている。脳天気なその笑顔を見て、逆にティルナードはここに来た目的を思い出したらしい。


「僕たちは食事をたかりに来たんじゃないんだぞユーラン! アリシア様にお話をしに来たんだ、お聞きになっておりますよねアリシア様!」

「いいえ」


 そういえば理由を聞いていなかった、と思いながら、一通りおなかは満ちたアリシアが素直に答える。出鼻をくじかれたティルナードは途端に言葉に詰まってしまう。


「お、お聞きになっていらっしゃらないので……くそ、ライセンの奴……道理であっさり通してくれるはずだ……」


 カシュヴァーンがわざと聞かせていないのだと思ったのだろう。毒づいたティルナードは、それでも何とか勢いを保持してこう続けた。


「僕はあなたをお助けしに来たんです。バスツールから解放されたかと思ったら今度はライセン……金で買われ、他人の意思に運命をほんろうされるあなたを助けて差し上げたい」


 これも黒い卓の上に置いたこぶしをぎゅっと握り、彼はそれはしんな眼でアリシアを見つめる。

 アリシアは相変わらずのよく分かっていない顔で見返したが、それすらもティルナードには哀れを誘う風に見えるらしい。


「……僕にはあなたの苦労が分かります。なぜなら僕だって……あなたと同じように、他人にいいように利用されて来たから」

「まあ、レイデン伯爵様も二回花嫁になられたの?」

「違います! 地方伯の家に生まれながら、下克上などといった下らない気風に巻き込まれ苦労をしたという意味です!」


 言われてアリシアはああそうか、という顔をした。


「確かにそうですわね。レイデン地方の領主はレイデン家ではないですもの」


 アリシアもレイデン地方といった地名があるのは知っているのだ。確かこのアズベルグの東、険しい山脈を挟んだ先にある豊かな緑に恵まれた地域である。フェイトリンと同じく土地が肥えており、様々な野菜や小麦などの生産地として有名だ。

 そこは地方伯レイデン家の治める地域であり、レイデン一族はフェイトリンと違い近年まで昔ながらの強固な権力を保っていた。しかし十年ほど前、下克上のはやりからかなり遅れて農民たちによる反乱がぼつぱつ。強固な権力を保つための強引な支配がたたってか、噴出した彼らの不満はついにレイデン家を転覆させたと聞いている。

 だがいざレイデンの統一支配がなくなったらなくなったで、今度は彼らを打ち破った者たちの中での内紛が起こった。領主の権限は引き裂かればらばらに分解され、国王ですら事態を収めることが出来ずレイデン地方は混乱の極みに陥ったはずだ。


「いいえ、アリシア様。レイデンの領主の地位は今でもレイデン家のものです」


 ところがティルナードは自信たっぷりにそう言ってきた。横でユーランもうなずいてつけくわえる。


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