理想的な再婚④
いったんはアリシアの胸は、レイデン伯爵とその家の事情でいっぱいになっていた。しかしいざライセン家の中を進み始めると、彼女はあっという間にこの素晴らしい館の
壁は一面無機質な石造り、もしくは黒一色。床も黒く、窓は全てはめ殺しで、一つ一つの窓はかなり小さい。その窓の向こうは
よく見ればあちこち増改築を繰り返しているらしく、途中から壁の色が変わったり継ぎ目が浮き出ているところなどが数多く見受けられる。そのくせ使われていない部屋が多いようで、使用人たちの姿もほとんど見受けられない。
生きて歩いている人間よりも数多く見えるのは、柱の上や天井の隅にひっそりとうずくまった翼持つ奇怪な怪物たち。それらのものを見ながら歩を進めていくだけで、アリシアの胸の鼓動は
外装同様、内装の怪しさも
「そうよ、ハルバーストの薔薇屋敷に似ているんだわ」
土地の伝奇を集めた本の中にあった、ある話の中に登場する館にライセンの屋敷の構造はひどくよく似ていたのだ。
――これで裏手に薔薇園があれば嬉しいんだけど、と思いながら進んでいくうちに、ノーラは一つの部屋の前で立ち止まった。
「こちらが奥様のお部屋になります。さ、どうぞ」
黒塗りの扉を開き、立ち止まったノーラに導かれるままアリシアは内部を覗き込む。すぐに彼女はまあ、と声を上げた。
「まあすてき! なんて
興奮気味の言葉を残し、少女は部屋の中に駆け込んでいく。ぎょっと眼を見張ったノーラが内部を覗き込むと、アリシアはまあまあと言い続けながら忙しなく室内を歩き回っていた。
「すごいわ! 広いのに暗いわね! 家具が全部黒と赤なんてすてき! 怪物の像が、一つ、二つ……あら四つもあるの! まあ寝台の上にもいるわ!」
通路同様薄暗い部屋の中は、アリシアの言う通り漆黒と深紅で構成されていた。床も天井も壁も真っ黒で、その他の家具もほとんど黒。
高い天井の上部は暗くてよく見えないが、ぼんやりと例の翼ある怪物の像の輪郭だけが四隅に見えた。どう考えても新婚の花嫁のための部屋ではないが、アリシアは掛け値なしの喜びにきゃっきゃとはしゃいでいた。
「カシュヴァーン様がこのお部屋を私に下さったのよね! 後でお礼を言わなきゃ!」
「奥様……」
「高いお金を払って下さって、ここにいるだけでいいって言って下さって、おまけに私の趣味にぴったりのお屋敷に住んでらっしゃって!」
「……あの、奥様……」
「なんて理想の旦那様なの! 私、死神姫と呼ばれていて良かったわ!!」
「おくさまッ!」
いらいらしたノーラの大声に、アリシアはびっくりして振り返った。彼女の荷物を持って部屋の中に入って来たノーラは、さっさとそれを寝台の上へと運んでしまう。
「ああ、そうね。ごめんなさい。不謹慎よね、いくらなんでも。バスツール様に申し訳ないことを言ってしまったわ」
反省するアリシアだが、ノーラが欲しかった反応とはずれていたらしい。少ない荷物を出し終わった
「こちらは必要なかったようですから、片づけておきます」
言われてアリシアが同じ方向を見れば、そこには純白の花嫁衣装が立てかけてあった。アリシアが今着ているドレスに引けを取らないほどに装飾過多でごてごてしているが、元々儀礼用の服だからだろう。それほど時代遅れという感じはしない。
「あら、一応用意もあったのね」
結局着ずに済ませてしまったドレスに気づいてそう言うと、ノーラは
「使いませんでしたけどね。まあカシュヴァーン様の気まぐれなんかいつものことですけど、せっかくお直しもしましたのに」
「あら、ノーラが直したの?」
「ええ」
ノーラが誇らしげな声を、続いて意地の悪い含みのある声を出した。
「もっとも奥様がこういう方だと思いませんでしたので、どのみち補整をしないといけなかったでしょうけど」
ノーラと比べずとも貧弱な胸のあたりをじろじろ見ての発言に、アリシアはそうね、と脳天気に笑う。
「あら、そうねえ。確かに私色々言われているみたいね。眼が三つあるとか、角が生えているとか」
死神姫の噂なら、アリシア本人の耳にも幾つか入っている。語るうちになにか楽しくなってきて、彼女は妙に弾んだ声でこう言った。
「中には私の身の丈が山より高くて、それでバスツール様を踏みつぶしたなんて話もあるのよ。でも私が山より大きかったら、着る物一枚用意するだけでものすごくお金が」
「奥様!」
またも大声を出したノーラに、アリシアは話を中断する。気を落ち着かせるためにため息を吐いたノーラは、豪華な花嫁衣装に手をかけそれは美しい笑みを浮かべながら、
「あなたがいらっしゃらなければ、カシュヴァーン様のためにこれを着るのは私でしたの。もしかするとあの方は、それを見越して今回奥様にこの衣装をお着せにならなかったのかもしれませんわねえ」
さすがに少し驚いて、アリシアは不思議そうな顔をする。ようやく望み通りの反応を引き出せたノーラは、更ににこにこと優雅に笑いながら改まった声を出した。
「申し遅れましたわ。私はメイド兼カシュヴァーン様の愛人ですの。ここ何年も旦那様には、とっっっても
強く強くその部分を強調したノーラは、ぽかんとしているアリシアに「勝った」という顔をしてから最後にこう結んだ。
「ですから奥様、カシュヴァーン様もおっしゃりましたけどあなたはここにただいて下さればよろしいのです。とはいえそのうち逃げ出したくなるかもしれませんけどね……では、失礼」
何やら不穏な言葉を残し、花嫁衣装を手にしたノーラが出て行く。ぽかんとしたまま彼女を見送ったアリシアは、ノーラの言葉を口の中で反芻した。
「ノーラがカシュヴァーン様の愛人……」
眼鏡の奥の青い瞳が、次の瞬間きらきらと輝き始める。
「すごいわ、やっぱりカシュヴァーン様ってお金持ち! おまけに愛人の絡んだ
非常に嬉しそうな独白は、幸い誰の耳にも届くことはなかった。
花嫁衣装を手に一度外に出たノーラは、あとで戻ってきて一通りライセンの屋敷の中を案内してくれた。
と言っても「ここから先は召使いたちの部屋です」「あちらがカシュヴァーン様のお部屋です」と、歩きながら通り一遍のことを言われただけに過ぎない。メイドに連れられおとなしく歩く奥方の姿を、その他の使用人たちは遠巻きにしているばかりで
そんなことは特に気にせず、改めてこの屋敷中に自分が思うところの趣味の良さが浸透していることを確かめたアリシアは大満足。薄暗くてどこもかしこも黒くて赤くて、おまけに作りも複雑だ。侵入者を警戒してのものなのかもしれないが、慣れているはずのノーラでさえ時々曲がり角を間違えてしまうところなど
婚儀終了後即座に姿を消した夫のこともころりと忘れ、彼女は「あれは何」「これはどうして」を連発し、素っ気ないノーラの返答を聞いてははしゃいでいた。
中でも一際アリシアの好奇心を刺激したのは、屋敷の裏手に本当にあった廃園だ。
冷たい灰色の石を組んで作られたそれは、
興奮したアリシアは入口である黒い扉にまっすぐ向かって行こうとしたが、血相を変えたノーラに寸前で引き留められてしまった。
「奥様、命が惜しければそれに近づいてはだめです! 私も旦那様に怒られますわ!」
はあはあ息を荒げたノーラのあまりの気迫に、さしものアリシアも
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