第一章 理想的な再婚

理想的な再婚①

 あれから一年。

 気候も地形も穏やかで、あまり起伏のないフェイトリン地方の平原の中央部。うららかな春の日差しを浴びながら、アリシア・フェイトリンは自宅の庭に出した小さなティーテーブルで本を読んでいた。

 すでに喪も明けた現在、小柄な体を包むのは長年着古した数代前のはやりのごてごてとした意匠のドレス。昔は若草色だった生地がところどころ黄色くたいしよくしてしまったその服に身を包んだ彼女は、いいかげん読み古した本からを上げてつぶやく。


「ああ、お金が欲しい……」


 切実な一言を吐き出したアリシアの耳に、ばたばたとせわしない足音が聞こえてきた。地味豊かな土地にふさしく、少し手入れが滞ればあっという間に生い茂る雑草を踏んで中年男がこちらへ近づいてくる。


「アリシア! おお、良かった、もう畑仕事はしていないのだな!」


 やっと分かってくれたか、という風にうれしそうな声を上げながら小走りに近づいてきたのは、アリシアの後見人であるヘイスダムである。頭頂部の貧しさを補うように立派なあごひげを生やした彼に、アリシアはにこやかにほほんだ。


「ええ、今日の分の収穫はもう終わらせましたから」


 全然分かっていないせりを吐き、なまじの使用人より荒れた手をした彼女は赤い果実が山盛りのかごを指した。リーゴの実と呼ばれるその長細い果実は、両親の死後アリシアが勝手に作った畑で後見人を嘆かせながら育てているものだ。


「そうだわおじさま、そろそろ近所の子がリーゴの収穫を引き取りに来てくれるんですのよ。そのあたりにいませんでした?」


 のんきな彼女の言葉に、ヘイスダムは少ない髪の毛を引きむしりかねないしぐさで、


「ええい農民の子供など知るか! お前は仮にもフェイトリンの娘なのだぞ、果物売りのごとなどやめなさいとあれほど……!」

「だっておじさま、私お金が欲しいんですもの。そりゃあ一つ売っても二小ゼダル半にしかなりませんけど、五個も売れば一食分ぐらいは稼げますのよ」


 ごく自然に、彼女はそう言ってのけた。


「それに自分で作ったものを食べれば節約できますし、売ったらもうかっていいことずくめですわ。リーゴの実はおなかのちもとってもよろしいですし。甘くするにはちょっと肥料代がかかりますけどね」


 てらいも恥じらいもない台詞に、ヘイスダムはげんなりした顔をした。何か一言説教をしようとした矢先、また別の小言の種を見つけてしまう。


「ああっ、そういう本を読むのもやめなさいと言っただろう!」


 アリシアがティーテーブルの上に載せていた本を見て、彼は金切り声を上げた。小説本のため一見しただけでは中身は分からないはずだが、ちょうど挿絵の毛むくじゃらで口元にきばを生やした怪物が、れんな少女に襲いかかろうとしている絵が開かれていたのだ。

 だがアリシアは、何度も読み返した本を抱えてうっとりとした声を出す。


「うふふ、この本に載っているお話には外れがありませんのよ! 何回読んでも楽しめてとってもお得。本当は真夜中にすきかぜに吹かれながら読むのが一番なのですけど、こうやってあえて明るいところで読むのもまた一興」

「アリシア、そんなことよりだ! お前の再婚相手がとうとう決まったぞ!」


 いつもながらのアリシアの台詞を強引に遮り、彼女の後見人は一息に叫んだ。


「カシュヴァーン・ライセン! なんとアズベルグ地方の領主だ! 若くて金持ち、おまけに相当なやり手でな! 良かったなアリシア、これでお前もやっとぜいたくができるぞ!!」


 思わぬ台詞に、アリシアはがねの奥のひとみをぱちぱちさせていた。しかしヘイスダムはこの勢いで話を通す気らしく、芝居がかったしぐさで後方を振り返った。


「これでお前も贅沢ができる! この家だって修復できるんだ! 良かったなアリシア、お前の両親もいとたかき国で喜んでくれるだろう!」


 ヘイスダムが振り返ったその先に、白と青とを基調とした巨大で優美な屋敷があった。

 名高き地方伯の名に相応しい壮麗な建物、翼を広げた大きな白い鳥にもたとえられる名門フェイトリン家の邸宅。

 屋根や柱に曲線を巧みに取り入れた凝った意匠は、遠目にはこの上なく美しい。

 が、少し近づいてみればたやすくその荒廃ぶりは知れてしまう。

 まばゆいばかりの白さを誇っていたはずの壁は薄汚れ、下部には生い茂った下草がへばりついている。屋根の飾り窓の一部は割れて、つたない補修の跡が逆にみじめさを演出していた。屋敷を取り囲む広大な庭もたくましい雑草たちに占領されて、両親亡き後アリシアが作った畑がむしろ立派なものに見えるぐらいだ。

 今やこの屋敷は名門フェイトリンの没落の象徴。なまじ元が美しいばかりに、手入れが行き届かないゆえの寒々しいたたずまいはいかにも何か出そうな雰囲気をかもし出していた。


「ええ……そうですわね。でも私、これはこれで」

「では後日また迎えをす! それまでに畑仕事はやめて、悪趣味な本はすべて始末してしまいなさい! 読むのなら詩集か恋愛小説ぐらいにしておくように! いいな!」


 一方的にまくし立て、ヘイスダムはそれ以上聞き返す機会を与えないままばたばたと去っていってしまった。何が何だかよく分からないまま、アリシアは彼が叫んだ言葉をはんすうしてみた。


「ええと……カシュ……ライセン様。アズベルグって北の方だったわよね……とりあえず地方伯ではないようだけど」


 地名はとにかく家名には全く聞き覚えがない。かつて両親が彼女を嫁がせようと画策していた名家の一つではないようだ。

 けれどそれよりはるかに重要な単語を二つ、ヘイスダムは口にした。


「お金持ち、贅沢……すてきな言葉だわ」


 即物的な台詞を、アリシアは夢見る乙女のごとくにうっとりとつぶやいた。



 シルディーン王国内の各地方に家名を刻む、地方伯という貴族たち。かつて彼らはその地方の領主であり、己と同じ名の土地からの徴税などにより栄華を極めていた。

 しかし八十年ほど前に下克上の気運が高まったことから、同じ地方伯の中でも明暗はくっきりと分かれてしまう。平等を叫ぶ平民たちの反乱を何とか押さえつけ、体面を保った家もある。中には動乱の時期を乗り切って、以前よりも支配力を増したような家も存在した。

 だがフェイトリンは、ものの見事に栄光の座から転げ落ちた方の地方伯だった。今や彼らの持っていた多くの権利はばらばらに分割され、かつては平等をうたった平民たちの中から生まれた新興貴族たちに譲渡されてしまっている。

 現在のフェイトリンに残されたのは、広いばかりで維持に金のかかる屋敷とお情けのように与えられる王家からの爵位に対しての御下賜金だけ。しかも王家そのものも下克上の影響で徴税の強制力が落ちているらしく、御下賜金の額は年々理由をつけては削られていった。

 けれどフェイトリンの人々は、アリシアの両親はそれをよしとしなかった。自分たちは地方伯である、名家に相応しい暮らしをせねばならぬと息巻いて、屋敷を手放せと再三言っていたヘイスダムの言葉に首を縦に振らずに来た。


「長生き、出来るわけがないわよね……」


 がたごと揺れる箱形の馬車の中、窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめながらアリシアはひとりごとを言った。

 ヘイスダムより再婚が決まったと宣言されてからの日々は、花嫁本人を置き去りにしてあっという間に過ぎ去った。元々のほほんとした性格の彼女ではあるが、こちらが何もせぬ間に婚儀に関する全ての段取りが進んでいって気がついたら迎えの馬車に乗っていましたという感じだ。

 彼女の生涯二度目の夫となる男は、やり手の評判に相応しい人物のようだった。

 ただしライセン公爵が寄越した馬車は、二人も乗ればいっぱいになってしまうような狭苦しい作り。迎えに来たのも御者ひとりだけ。以前の婚儀の際は六頭立ての馬車に乗せられ、大勢の礼装の騎士に護衛されて嫁ぎ先に向かったことを考えると雲泥の差である。

 とはいえこの馬車を一目見てげんそうな顔をしたのはヘイスダムのみで、アリシアはわずかな荷物と共にさっさと乗り込み、一年前と同じように「屋敷を頼みますね」と言い残して実家を出て来た。


「うふふ、すてき……霧の中から現れるのは、やっぱり血まみれの剣を片手の首なし騎士の亡霊かしら。吸血鬼も捨てがたいけど。いっそライセン様がどちらかならいいのに」


 流れる景色を眺めては、独特の期待に胸をふくらませる花嫁のひとりごとを初老の御者は聞いていたらしい。さすがは死神姫だ、とつぶやいた後、彼はこうつけくわえた。


「我らが暴君にはお似合いかもしれんがな」


 そんなこととは露知らず、結局捨てずに持ってきたお気に入りの本たちに出て来そうな風景を眺め、アリシアはひとりで楽しそうにしている。

 生まれ育ったフェイトリンとは違い、初めて訪れたアズベルグの地は土地の起伏が激しい。山と谷が乱立し、そのはざを今いるような黒い森がひっそりと埋めている。

 太陽は空の高い位置にある時刻だというのに、びっしり並んだ背の高い木々に邪魔されてあたりはかなり薄暗い。おそらく朝や夕には霧が立ち込め、一層幻想的な景色を作り出すことだろう。

 やたらと馬車が揺れるのも、馬車自体の設備の悪さにくわえ道が悪いからだ。土地の政治の中心たる領主のやかたがこんな便の悪い森の奥にあるのも妙だが、容易に他者を寄せつけない立地条件にアリシアの期待はますます高まっていく。


「アリシア様、そろそろ到着いたします。恐れ入りますがご準備をなさって下さい」


 やがて聞こえて来た御者の声に、アリシアは眼を上げて前方を見やる。そして彼女はたちまちきらきらと瞳を輝かせ始めた。

 ここが黒い森の最奥なのだろう。少女の瞳に飛び込んできたのは後方に岩山、側面に生い茂る木々を従えた、いんうつな灰色と黒とで構成された巨大な屋敷だった。

 本宅と思われる一番大きな建物の左右に、一回り小さな離れ家と儀礼用の聖堂とおぼしき細長い建物がそれぞれ鎮座している。貴族の館としてはありふれた作りだが、ありふれていないのは、三つの建物の屋根の隅に翼を持った醜悪な怪物の姿が彫り込まれていることだ。

 ここがシルディーン王国内である以上、〈翼の祈り〉教をライセン公爵も拝していることは間違いないだろう。生前の善行に応じて死後翼を与えられ、それにより至高き国へと飛び立つことが出来るという教えを根底に持つこの宗教では、翼を持つ者全てが聖なる存在である。

 しかしライセンの屋敷の屋根にうずくまる醜悪な怪物は、到底聖なる者とは思えない。けのつもりの意匠なのかもしれないが、けいけんな〈翼の祈り〉信者が見れば神へのぼうとくと取られてもおかしくない。

 だがアリシアは、それらのものを見てほうっと満足げに息を吐く。


「すてき。なんて罰当たり。荒廃具合はうちの方が上だけど、このお屋敷なら何が出てもおかしくないわね……」


 それ自体が罰当たりな言葉を聞いて、御者は軽く眼を見張った。……全くお似合いだ、と口の中でつぶやいた後、彼は馬車をくるまめに寄せていった。


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