序 章

序章

 しんと静まり返った広々とした礼拝堂の中心を、少女は花嫁衣装に身を包んでひとり歩んでいた。ステンドグラスを通して降り注ぐ陽光は華やかな色彩を帯び、花嫁の純白の衣装と長いベールに様々な色を映しては輝く。

 ずらりと居並ぶ人々の中、文字通り彼女はひとり。婚儀にふさしい美々しい衣装をまとった参列客すべては、花婿であるブライアン・バスツール伯爵の縁者ばかりだ。

 少女のただひとりの血縁者であり、亡き両親に代わる後見人であり、こたびの縁組みを持って来たヘイスダム・フェイトリンの姿さえない。深紅のじゆうたんの上をたったひとりで歩いてくる花嫁を、若いくせに早くも下腹が突き出て来ている花婿は高慢な表情を浮かべて待ち構えている。


「全く、せっかくいい花嫁衣装を着せてやったってえない小娘だな。顔は隠せても体の貧しさはどうしようもない」


 ゆっくりと歩み寄って来る花嫁をじろじろと見ながらのブライアンの言葉は、ひとりごととしては少々大きすぎた。


「伯爵閣下、神聖なる儀式の最中ですぞ。聖女アーシェルも聞いていらっしゃる、お静かに」


 案の定その声を聞き止めたらしく、彼のそばにいた〈翼の祈り〉教団派遣の中年の聖職者がたしなめてくる。しかしブライアンはどうしても己の不幸を嘆かずにはいられないらしく、彼の言葉を無視して続けた。


「つくづく高い買い物になった。地方伯の娘という条件をつけても、もう少しマシなのが他に見つかっただろうに。あのヘイスダムとかいうやからにまんまとだまされたな、くそ」


 いまさらのようにこぼし続ける彼の側へと、白いベールで顔を覆った花嫁はしずしずと、というよりよろよろしながら近づいてくる。細すぎるほど細い体にはおおぎような衣装が重すぎるのか、かなりの低速移動をしている彼女を見てブライアンは余計にいらちを募らせたようだった。


「おいアリシア! もっとさっさと歩け! 僕は早くこれを終わらせて、イリーアのところに行きたいんだ!」


 近頃お気に入りの高級しようの名を挙げ、花嫁をかす花婿に聖職者は露骨にまゆをひそめ小声で清めの聖句を口にする。全く近頃の若者は神へのおそれというものをまともに持ち合わせていないと、その表情は言いたげだ。

 だが次の瞬間、自分勝手なブライアンの願いは半分だけはかなえられることになった。

 動作の遅い花嫁の真横をすり抜けて、黒い布で全身を覆った人影が恐ろしい速度で彼の前に立った。次の瞬間、人影は一陣の風のように左手の〈翼ある少女〉のステンドグラスを突き破り、あっという間にいずこかへと消え去っていった。

 後に残されたのは居並ぶぽかんとした人々と、いつの間にか床に倒れ伏していた花婿ブライアンの姿。砕け散ったステンドグラスの破片の一部が彼の体にも降り注ぎ、しよくだいあかりを映してきらきらと美しく光っていた。

 一見、彼はまるでふざけてその場に寝転がっているように見える。しかし高価な生地にも吸われずに流れ出した一筋の赤いものが、この日のために磨き抜かれた白い床の上にゆっくりと広がり始めていた。

 一拍遅れてブライアンの母親が発した絶叫を皮切りに、婚儀の場は大混乱に包まれた。

「だから罰当たりなことをするなとあれほど!」とわめく聖職者、失神する貴婦人、飛び散ったステンドグラスで手や顔を切ったと騒ぐ者、巻き添えを恐れて逃げ出す者、去っていった影を追おうとする警備の兵士たち。

 皆が皆大声を出して騒ぐ中、花婿がめくるはずだったベールを自分でめくって花嫁はゆっくりと周囲を見回した。


「あらまあ」


 かけていたがねの縁を持ち上げて、彼女はひとみをぱちぱちさせた。

 倒れ伏した花婿のいる前方と扉のある後方へと参列者たちが分かれたために、花嫁だけが礼拝堂の中央部に取り残されている格好だ。


 亡きブライアンがぼやいていた通り、長い亜麻色の髪を結い上げた少女は決して美人ではない。せいぜいわいい、それもまあまあ可愛いといった程度のものか。体つきも同じくで、細くはあるがあまりにもなだらか過ぎるその肉体は、女性として魅力的であるとは言えないだろう。

 だが誰もが口々に叫びながらやみに動き回るなか、花嫁の動作は先程までと同じく緩慢だ。その視線は半狂乱の母親に抱き抱えられがくがくと揺さぶられているブライアンをあっさり通り過ぎ、巨大な穴の開いたステンドグラスへと向かう。


「あれ、高いでしょうにねえ。何もあそこから逃げなくてもいいのに」


 のんびりした調子でつぶやく声は、周囲のけんそうに紛れ聞こえていたはずがない。


「だから私は反対したんです!」


 だが時を同じくして立ち上がったブライアンの母親は、取りすがる侍女たちを振り切らんばかりの勢いで少女に叫んだ。


「こ、このっ……疫病神! 死神ッ!!」


 この瞬間、よわい十四歳で未亡人になった少女アリシアに、このありがたくない称号が未来えいごうついて回ることになったのだ。

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