第26話 女王様と犬のエサ
「おーい、どこまで行くんだよぉー」
吹き荒ぶ風雨をものともせず、撫子は神社の敷地を横切って行く。呼び掛けは嵐の音にかき消されて、撫子まで届いていないのか、その足は止まらない。春日は風に飛ばされそうになりながら、仕方なくその後をついていくしかなかった。
神社の大鳥居の下まで来たところで、撫子はようやく足を止めて振り返った。つられて春日が足を止めると、不意に、撫子がそこで春日に向かって、深々と頭を下げた。
「え……うぇっ??いったい何?」
思いもしない撫子の姿に、春日の方が狼狽える。
「ごめんなさい。今度のことでは、そちらにだいぶ迷惑を掛けました。尾花沢の者として、申し訳なく思っています」
そう言って、撫子は頭を下げた格好のまま動かない。
「……もう、いい。頭上げろよ。女王様が頭下げるとか、気持ち悪い」
春日の言い様に撫子がフフっと笑った。
「もう少し、マシな言い方はないのかしらね」
「安心しろ。僕はいつでもどこでも、誰の前でも、平常運転だ」
「訳分かんないんだけど。それじゃ、始めさせて貰うわよ」
言って、撫子が、春日の両手を自分の両手で包み込むようして掴んだ。
――えっとぉ。
自分の手をふわりと握りしめている撫子の手を、春日はしみじみと見る。
――もしかしなくても……女の子に手を握られるとか、人生初じゃん、僕。ちょっと感動かも。
嵐の中で、女の子と向かい合って手を握りあっている、というシチュエーションは微妙かもしれないけれど。滅多にない経験であることには変わりない。
――うん。これは貴重な経験だ。
春日が呑気にそんなことを考えていると、撫子がおもむろに言った。
「死にはしないけど、結構痛いと思うから、ごめんなさいね……」
「えっ?」
――何その、ごめんの意味ってー!?
掴まれている手に、ぎゅっと力が込められた、と思った時には、春日の体は遠心力を付けられて鳥居の外側に投げ出されていた。
「あーーー」
間抜けな声を上げながら、春日は道端に転がされる。
「……っつ。何なんだよもー……うぉっ……」
下手に体を起こそうとして、風に煽られ、春日は飛ばされないように、地面に這いつくばる。頭の上からは、バケツをひっくり返したような雨が降り注いでいて、なかなか惨めな有り様だと思う。
神社の中にいた時でさえ、結構な嵐だと思っていたが、鳥居を挟んだこちら側は、その比ではなかった。
――ていうか、これ、フツーにヤバイ奴?
植木鉢のひとつでも飛んできて、当たり所が悪いと命取りみたいな……
雨で霞んでよく見えないが、鳥居の向こうでは、撫子が仁王立ちになって、こちらをじっと見ている。
――これっ、もしかして、単なる意趣返しなんじゃないのっ?
「ぅ、おい、撫子ぉっ!お前っ……」
普段、安穏な生活をしているお坊っちゃまの我慢の限界は、割りと早い。堪らずに春日が抗議の声を上げ掛けた時である――
雨風になぶられながら、四つん這いになっていた春日の脇腹の辺りに、何か大きくて生暖かいモノが触れた。
「ふぁっ?!……」
何だと思う間もなく、脇腹がぐいっと押されて体が転がされた。
「って……な……」
仰向けになった春日の、まさに目と鼻の先に、大きな犬の顔があった。
――い、犬神っ!?
反射的に後退ろうとして、体が動かないことに気づく。見れば、その前足が春日のお腹の上に置かれていた。そして犬神の大きな口が、ぱっくりと開く。自然、口の中の立派な牙に目が行く。
――ああ、痛そうだな、これ。
もう逃げようがないという現実に、春日は観念した様に目を閉じた。その大きな口に、肩の辺りをはぐっと挟まれた感触に身が縮み上がる。それを皮切りに次々と、体のあちこちに、チクチクとした痛みを感じた。やがて、腹の辺りをはぐっとされて、体が持ち上げられたのが分かった。
――取り敢えず、くわえられただけみたいだけど……
犬神が少しでも力を込めたら、どれ程の痛みが来るのか。そう考えるだけで心臓がバクバクする。と、ブンと体が振り回される感じがして、春日は地面にポイっと投げ落とされた。
「あたっ……」
地面に落とされて、したたか背中を打った。
「いったい、なん……」
愚痴を言い終わらない内に、またはぐっとくわえ上げられて体が浮き上がる。
ぶんぶん、ぽい、はぐっ。
ぽい、ごろんごろん、はぐっ。
はぐはぐはぐっ。ぽいっ。
――あーあれだな、これ。お腹空いてない時に、餌で遊ぶってやつ?
「うぉっ」
なすがままにされていると、勢いよくベロンと顔を舐め上げられる。ついには、頭部をぱっくりされて、はぐはぐ――そんなことを繰り返すうちに、犬のテンションがだんだん上がって来ているのを感じる。最初はどこか遠慮がちだったものが、だんだん勢い増して粗雑に扱われ始めたような……?
「あたっ」
ついに、はぐっと来た瞬間、噛まれた部分に痛みを覚えた。はぐっはぐっ、と続けざまに噛まれると、その都度、体にそこそこの痛みが走る。
「いっ……たたた……いや、おま……も少し手加減っっーーきゃん……うおーーも、やーめーてー」
グルグルと地面と空が入れ替わり、地面を転がされながら春日は、犬の呼吸が荒くなってきているのを感じる。興が乗って興奮しているのだ。
「ちょーー撫子っ!あぎゃっ。これ、いつまで続くんだよーーっ、たっ……あだだっ」
縋るように、少し離れた所にいる撫子に顔を向ける。
いつの間にか嵐は弱まっていて、鳥居の向こうに撫子が佇む姿がよく見えた。感情の読めない静かな目が、春日を――というか、犬神をなんだろうけど――見据えている。
女王様と呼ぶにふさわしい、近寄りがたい空気を纏ったどこか高貴な佇まいに、不覚にも、春日は少し見惚れた。
彼女の髪から滴る水滴が、肌を伝い落ちる様が、妙に
「撫子ぉ……」
絶え間なく続く痛みに、必定情けない声が出る。すると、それに応じる言葉が返ってきた。
「堪え性のない男ね。もう少し頑張りなさい――」
そう言った撫子の口は、声は発しないものの、そのまま動いているから何か呪を唱えているのだろうと思う。集中している所を邪魔しちゃ悪いな、と思いって、目をぎゅっと閉じてひたすら痛いのを我慢のする。
はぐはぐ、
はぐはぐ、
はぐはぐ、
はぐはぐ――
――あー僕、だいぶ食べられた気がする。もう少しって、あとどのくらいー?
アドレナリンが出ているのだろうか、もう痛みもあまり感じない。それとも、意識の方が混濁し始めているのか――
「ああ、結構派手に食べられてますねぇ、これは。リカバリーが大変そうです」
――すっ、凉城?
「えーでも、あれ、甘噛みって奴でしょ?じゃれて遊んでいるようにしか見えないんだけど?あんなのに本気で襲われてたら、春ちゃん、今頃骨も残ってないよ」
――芹ぃー
「馬鹿ね、甘噛みって、意外と痛いのよ?」
――凛子ちゃん……
「って、一人ぐらい、大丈夫?って、言ってよっ!」
「あ、生き返った」
目を開くと、芹に顔を覗き込まれていた。芹の頭越しに星空が見えて、嵐の気配が完全に消えていることに気づく。
そしてそこに、
『あずき、おすわり』
撫子の声が聞こえて、春日はふっと体が楽になったのを感じた。
――あずき……?って、何だそれ……意味わかんねぇし…………
そして――
「あー、ホント痛そう。最悪……」
凛子のそんな不愉快そうな声を聞きながら、春日の意識はそこで途切れたのだった。
――頑張りましたね。
夢心地に凉城のそんな声を聞いた気もしたが、言って欲しかった言葉を脳内で自動生成した可能性もなきにしもあらずなので、その辺りは定かではない。
何だか――生暖かいモノに顔を舐め回されている。何だか――顔がべたべたするよ?もしかして、僕、また犬神に食べられて掛けているのかな――
「ふぁっ?!」
ガバッと身を起こすと、濡れタオルを手にした凉城が驚いたような顔で春日を見ていた。
「あ、春ちゃん起きた」
芹がベッドの横で、カップ麺をスズーっとすすり上げる。そのせいか、部屋の中がラーメン臭かった。
「……何でラーメンなんか食ってんの?」
「え?お腹すいたから。夜食にラーメン。春ちゃんも、食べる?」
「じゃなくて、死線をさ迷っていた僕の横で、よく呑気にラーメンなんか食ってられるよねってこと!」
「え?春ちゃん、死線さ迷ってたの?」
芹が凉城に訊く。
「なわけないでしょ。ま、気分的にはそうなのかもですが」
凉城が苦笑する。
――お前、そうやって笑ってるけどなぁ。僕がどれだけ怖い思いしたと思ってるんだ。
言ってやりたいことは山ほどあったが、取りあえず訊くべきことは訊いておく。
「報告しろ、凉城。それで、犬神はどうなった」
「あの犬神の本来の主――そもそも犬鬼を召喚した術者は、撫子さんだったのだそうです。そして、多忙な撫子さんが、その養育を任せたのが……」
「衣縫萩緒か?」
「はい。なので、あの犬神には、撫子さんの所有者印が刻まれていました」
「そっか……萩緒の解呪は、五形の封印は消せても、撫子の刻印までは消せなかったんだな」
「ええ」
基本的に、自分より強い力を持つ者の呪は、解けないのが常識だ。
「なら、始めから、あの犬神は撫子の言うことなら、聞いたってことか?」
「いえ。そこは最終的には、ということですね。次々に別の術者が、上から呪を掛けたり解いたりしていた訳ですから、犬神も混乱していたでしょうし、何より、あの犬は和花名さんに懐き過ぎていましたから、最初に所有印を刻んだ主だからといって、すんなり言うことを聞いたかと言われれば、それは何とも言えません」
「……そうか」
「だから、あなたの尊い犠牲が無駄だったなんてことは、決して……」
「口元が笑ってるぞ、凉城」
「……いえ、決して。撫子さんが、萩緒さんのお気持ちを汲んで、あなたにお灸を据えられたなんてことは……ないと思います」
「……ま、いいけど。そう言うことにしておいてやる。で?犬神はどうしたんだ?」
「それが、姿は消えたのですが、撫子さんがおっしゃるには、あの犬神は力が強すぎて、ひと思いに祓うことは出来なかったと」
「それ、手負いで逃がしちゃったってこと?」
「手負いとは言っても、もうほとんど妖力は残っていなかった様ですし、撫子さんの所有印は消去したそうなので、このまま放っておけば、数日中には自然消滅するだろうというお話でした」
「そうか……」
術者に召喚され、ひと
撫子はあれを封印ではなく、祓うと言っていたのだから、犬神は消えてなくなる筈だ――
「ということで、間違っても、またあなたを食べに来ることはないですから、ご安心下さい」
「べっ、別に、ビビってなんかないからなっ」
「ええ、承知しておりますよ――」
「だから、口元っ……お前、そうやって笑うけど、エサ役、ホント痛かったんだからなっ」
「お疲れさまでした」
「ホントだよ、全く」
凉城からようやく労りの言葉っぽいものを引き出して、春日は満足したように、ぽすっとフカフカの枕に身を埋めた。
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