第24話 犬神と少女

 ザザーっと木々がざわめく音がした。


――な、何?


 突然の強い風の気配に、和花名が身構えた時だった。

「……に、逃げろ、犬神兄っ!」

 春日先輩がそう叫ぶ声がして、いきなり悠斗に手を掴まれた。

「え……」

 戸惑う間もなく、

「和花名、走るぞ」

 と、悠斗に手を引かれる。

「え。走るって、悠斗、あんた足は……ゆうっ……」

 有無を言わせずぐいと手を引っ張られて、和花名は、訳も分からず悠斗と一緒に走り出す。


――て、悠斗っ、あんた足……怪我……痛くないの……


 声にすることも出来ず、手を繋いで走っているというこの状況に、和花名はただただ気恥ずかしさを覚える。手を振りほどこうにも、手首をがっちりと悠斗に掴まれていて、それも叶わずで……

「ちょっと、悠斗っ、待っ」

 神社の朱塗りの大鳥居が目の前に迫る。神社には、きっと鈴七たちだっているのに、こんな姿を見られたら、何を言われるかと思う。


――ダメダメ、こんなの恥ずかし過ぎる。


 そんな乙女心が、全体重を掛けた渾身の乙女ブレーキを発動させた。

 間合いが良かったのか悪かったのか、手首を掴んでいた悠斗の手がツルリと抜けた。そして、前のめりの態勢だった悠斗がバランスを崩し、たたらを踏んで鳥居の中に転げ込んだ。


「ちょっ、大丈夫?悠斗……えぇ?何これ?やっ……」

 つむじ風が和花名の体を捉え、なぶる様に体に絡み付き、制服のスカートをはためかせる。

「和花名っ!」

 悠斗の切羽つまった声に、和花名は風に煽られながら薄目を開ける。鳥居の向こうで、悠斗が足を押さえているのが見えた。


――ほら、やっぱり痛いんじゃないのよ。


 そう思った刹那、ふわりと体が浮き上がった。

「え……何これ?ちょ……嘘……」

 体が宙に浮いている。


『和花名……』


「え……?」

『和花名、和花名、和花名……っ』

 耳元に悠希の声が聞こえた。

「何で……」

『和花名ーーっっ!!』


 更に風が強く吹き荒れる中で、目を開けることもままならない。自分が目を開いているのかも分からないそんな状態で、目の前にぼんやりと犬の姿が浮かび上がって見えた。


 それは、忘れようもなく、愛しく懐かしい――


「……シ……オン?」


 幻かしらと訝しみながら、和花名はそっと手を伸ばしてその体に触れる。

 手が覚えていた柔らかく滑らかな毛並みの感触とそこに感じる体温。幻なんかじゃない。そう思ったらもう、夢中でその首に抱きついていた。


『わ、和花名……っ』

 頭の上の方から、どこか照れくさそうで嬉しそうな声がする。

「シオン……」

 久し振りのもふもふを堪能するように、和花名はその体にすりすりと頬を滑らせる。

「……シオン。あなた、これ、大きくなりすぎじゃないの?」

 言って、和花名は顔を上げて自分を見下ろしている大きな瞳をのぞきこむ。

『……そうかな。このサイズなら背中に乗せてあげることも出来るよ?』

「それは、嬉しいけど、エサ代がかさみそうでこわいんだけど」

『俺、そんなに大食いじゃないよぉ……』

「ふふ。なら、許してあげる――」


「和花名っ!!」


 悠斗の声にはっとして目を開けると、腕の中の温もりは消えていた。途端、勢いを増したつむじ風に巻かれて、体がよろめく。


――な……に。今の……


「大丈夫か?和花名っ」

 悠斗が鳥居の柱に掴まって立ちながら、片手をこちらに差し伸べている。

「手、掴まれ」

「……え?手?」

 半ばぼおっとしながら、言われるままに手を出すと、手首を掴まれて強い力でぐいと引っ張られる。その勢いに、バランスを崩した和花名を悠斗が上手く抱き止めた。肩越しに後ろを振り返ると、風の渦は同じ場所をくるくると回りなから、次第に消えて行く。


「頭、ボサボサだな」

 そう言って悠斗は、和花名を片手で抱き寄せたまま、もう一方の手で髪を直し始める。

「……悠斗」

「ん?」

 まだ頭がぼんやりしている。それに、何だかとても体が怠い。そして、ちょうど目の前には、何だか良さげな肩がある。和花名は何も考えずにそこにトンと頭を乗せた。

「和花名……?」

「……声が、聞こえたの」

 悠斗の肩に頭を乗せたまま、和花名がひとりごとのように呟く。

「あれはきっと……」

「和花名……?」

「悠希の……声……」

「え?」

 悠斗が聞き返した時にはもう、和花名の意識はなくなっていて、力が抜けたように崩れ落ちた体を悠斗は慌てて抱き止めた。




「おーい、春ちゃん、ぶじ~?」

「ご無事ですかっ?!春日様っ」


 気付けば後ろにしもべ達がいて、相変わらずの対称的なテンションでそれぞれに安否確認の言葉をくれた。


「あぁ、もうっ、おでこ擦りむいてるじゃないですかっ」

 凉城があたふたしながら、どこからともなく絆創膏を取り出すと、春日の額にペタリと貼り付ける。

「大事ない。かすり傷だ」

「頭ですよ、頭。バイ菌でも入って、これ以上、常識が飛んじゃったらどうするんですか。只の変態じゃないですか」

「あのさぁ、凉城。そういう、気遣いながらディスるの、やめてくんない?」

 反応に困るじゃないか、もう……などと、春日は口を尖らせる。


「ともかく、ご無事で何よりでした」

「ああ、うん。何か見逃してくれたっぽい。餌付けとか、しとくもんだな~そこは、凉城のおやつのお陰かも」

「それは、どうもありがとうございます」

 滅多に人を誉めない春日に誉められて、凉城が殊勝な表情になる。

「でも、そのおやつのせいで、僕は虫歯になった訳だからなープラマイゼロか」


――ああ、春ちゃん。その上げて落とすって、最悪だからっっ。


 傍若無人というか、人の気持ちに寄り添わないというか。春日の相変わらずの空気読めなさ加減に芹は苦笑する。


「それは、あなたが歯みがきをキチンとなさらなかったからでしょう。高校生にもなって、少しは恥ずかしいと思って下さいね」


――で、凉城さんも、きっちり言い返すんだよな。


 この主にしてこのしもべ、である。


「それで、犬神は?」

「わかんない。和花名ちゃんにちょっかい出してたみたいだけど……」

 そう言った春日の視線の先では、気を失ったらしい和花名を悠斗が介抱している。

「ああ……和花名さん、妖気に当てられたんてすね。取りあえず、この辺りにはもう、犬神の気配はない様ですが……」

「ふー。なら、ひと安心ってとこか」

「それにしても犬神は、どうしてあなたをひと思いに片付けてしまわなかったんでしょうか……」

「お前、さらっと恐ろしいこと言うね」

「だって、凛子さんの予知が実現したら、この件はそれでお仕舞いだったのに。これじゃ、延長戦じゃないですか。残業代出して頂けるんですか?」

「……お前ねぇ」


 春日は表現のしようのない複雑な顔になっている。まあ、冷たいようだけど、凉城さんにしてみれば、この数ヵ月の過重労働で、凛子さんとのデートも儘ならない様なので、多少の八つ当たりは仕方がないのかなと、芹は思う。何でもそつなくこなすスマートな凉城も、さすがに疲れているのだろう。




 和花名が目を覚ますと、傍らには悠斗がいた。和花名は横になったまま頭を巡らせて、そこが神社の社務所だと確認する。

 風が吹き寄せる音が、ガタガタと窓を揺らしている。和花名が眠っていた間に、外はかなり荒れた天気になっているようだ。嵐と言っていいレベルかも知れない。


「大丈夫か?」

「え?ああうん。何か夢、見てたみたい……悠希が出てきて……あれ?シオンだっけ……あ、でも変なの。シオン、悠希の声で話すんだよね」

 和花名の言葉に、悠斗が少し困った様な顔をした。そんな悠斗を、和花名が不思議そうな顔をして見据えている。ややあって、悠斗が観念したように口を開いた。

「……それ、多分、悠希だわ」

「え?」

「夢でもなくて」

「は?だって、犬が喋ってたんだよ?」

「だから、あいつは犬なんだって。まちがいなく」

「ん?んんん?」 

 和花名の眉間にみるみる皺が寄っていく。まあ、当然の反応だろう。到底普通じゃない領域の話だ。悠斗は更に言葉を継いだ。

「正確に言えば、あれは、犬神というあやかしなんだそうだ」

「あやかし……じゃ、悠希はシオンで犬神でってこと?」

「そう」

「ほへー。じゃぁ、悠希が双子の弟とかいう話は……」

「まあ、嘘?」

「へー嘘、だったんだー?じゃ、シオンが死んだっていうのも?」

「ああ」

「……」

 そこで、心に湧き上がる何かを押し込めるように和花名がぎゅっと目を閉じた。

「和花……」

 言いかけた悠斗を遮るように、和花名はいきなりがばっと身を起こすと、悠斗をキット睨み付けて、叩きつけるようにその言葉を発した。

「嘘つき」

 

――あぁ、まぁ、そりゃ怒るよな。


 悠斗としては、和花名の怒りに対して、返す言葉がないし、言い訳のしようもない。


「ごめん」

 それ以外の言葉はなかった。ただそれだけ。そして、悠斗は頭を下げた。

 

 重苦しい空気がふたりの間に下りていた。謝られても、すんなり「はいそうですか」というには、このひと月の間には、色々なことがありすぎた。悠希という存在はもう、和花名の日常にしっかりと根付いてしまった。今更それを、嘘だったからといって、なかったことには出来ない。

「……」

 そんな重たい空気の中で、悠斗の後ろから鈴七がおずおずと進み出て、小さな声で言った。

「和花名さん、わたくしも悠斗さんと同罪ですから、謝らなくてはいけませんわ。ごめんなさい」

 取り敢えず最悪の事態にはならなかったという凉城の連絡を受けて、鈴七は凛子を伴って神社に戻って来ていた。

「でも、和花名さん。これだけは分かってあげて欲しいんです。悠斗さんは、あなたの為に……」

「分かってる。そんなこと。言われなくても、分かってるよ。私だけ何も知らなくて、のうのうとしてたんだよね?何だか知らないけど、悠斗は全部一人で抱え込んでて。私はそんなことにも気づかなくて」

「……だって、お前は死にかけたんだぞ。それで、半年も学校に出て来れない程のダメージ受けて。そんなお前に、これ以上厄介事を背負わせる訳にいかないだろうがっ」

「それでも、私は言って欲しかったんだよ」

「わがまま言うなって」

「そんなの、言うに決まってるじゃないの。悠斗に何かあったら、私がどれだけダメージ受けると思ってるのよ」

「っ……」 

 和花名の言い分に悠斗はパクパクと口を動かすものの、続く言葉が出て来ない。


「なんつーか。盛大に相手が大事アピール合戦してるよな、君たち」

 ずずーっと緊張感のない音を立てて、芹が緑茶を啜る。

「いや~微笑ましいですなぁ」

 同じ様にずずーっとお茶を啜りながら春日が遠い目をして応じる。これまでの人生において、こんな風な労りの言葉を、自分は掛けてもらったことがあるだろうか。


――うん、ないよね。


「いい所なのに、雑音を立てるんじゃないわよ、無神経ボーイズ」

 凛子が上品にお茶を飲む。

「うわっ、やば、俺、春ちゃんと同じカテゴライズ?」

「芹くん、君もさ、たいがい失礼だよね」

「冗談だよ」

  

 横で繰り広げられる緊張感のかけらもないやり取りに、和花名の昂った感情は急速に冷まされていく。と同時に、勢いに任せて、今自分は結構恥ずかしいことを言ってしまったんじゃなかろうかという思いに囚われて、和花名は気まずそうに俯いた。

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