第23話 解き放たれた犬神
「小鳥様、こちらにいらっしゃいますかっ?」
バーンという擬音でも付けたら良さそうな勢いで、社会科準備室のドアを開いたのは、五形鈴七だった。和装で足袋という出で立ちで、息を切らせている。
「ス、スマホ……に掛けてみたんですけど、る、留守電になっててっ……」
「あ、えーと、春ちゃんは今日は歯医者さんの予約があるって言って、もう帰ったけど?」
応対した芹の言葉に、鈴七はその場にへなへなと座り込んだ。
「そんなぁ……」
「ええと、茶道部の人だよね?そんなトコに座り込んだら、着物汚れちゃうよ?」
芹がそう声を掛けても、鈴七は力尽きたという様子でその場から動けずにいる。それを見て、芹はやれやれという体で彼女に近寄って手を差し伸べた。
「……まさかとは思うけど、君、本館の方から走って来たの?」
「は……い」
差し出された手に掴まって、鈴七はようやく立ち上がる。
「まあ、中入って、お茶でも飲んで、ひと息ついて」
「え……あぁ、はい、ありがとうございます」
促されるままに鈴七がソファーに腰掛けると、すぐに凛子がティーカップを差し出した。それを受け取って鈴七は紅茶を一口飲み、「は~」という困惑交じりの大きな溜息を漏らした。
「それで?春ちゃんに用事って?」
正面に座った芹が訊ねると、途端、鈴七が見るからに泣きそうな顔になる。
「う……ぇえとぅ……り、凛子さん、俺、何か聞き方間違えたっ?」
たちまち狼狽える芹に、凛子は脇に除けろという仕草をして芹をソファーの端に追いやると、自身が今にも泣き出しそうな鈴七の正面に座った。
「大丈夫よー、ええと、茶道部の……何さんだっけ?」
「……ごっ、五形鈴七……です」
「五形?ああ、鳳神社の子よね?」
「……はい」
「それで、何があったの?私たちに協力できることはある?それとも、春日じゃなきゃ全然無理な話?」
「……あ……その……皆さんは、犬の話はどこまで……」
鈴七の問いに、芹と凛子は顔を見合わせる。
「犬って、悠希くんのことで、OK?」
凛子が言うと、鈴七が身を乗り出す。
「は、はい。その彼が……悠希さんがっ、いなくなってしまったんです」
「いなく……なった?」
芹が横から、鈴七の言葉の意味がよく分からないという感じの声を出す。すると、
「これ……」
そう言って鈴七が、着物の帯の間から細長い紐状の物をいくつか取り出してテーブルの上に置いた。
「これって、悠希の首輪、よね?」
凛子が芹に確認するように言う。首輪は何か強い力で引きちぎられた様なひどい有様で、もはや原形をとどめていなかった。
「これは、犬神を封じていた首輪なんです」
「……て。え?どういうこと?」
凛子が困惑した声を漏らす。
「て、そういうことなんじゃないの?」
芹が肩を落とす。つまり、矢は放たれたということだ。
「わたくし、お茶室の方にいたんですけど、そうしたら何か嫌な感じがして……」
「嫌な感じ?」
「上手く言えないんですけど。ざわざわした気配がするというか。学校でこんなこと初めてで……」
「ええ、それで?」
「わたしく、気配を辿りながら校内をあちこち見て回っていたんですわ。そうしたら、被服室でこれが床に落ちていて……」
「被服室かぁ……」
それって尾花沢の本丸。まんま、敵地のど真ん中じゃん、と芹は思う。悠希が犬神に
――間違いない。犬神は解き放たれたのだ。
「凛子ちゃん、凉城さんに連絡」
「え、ええ……」
凛子がスマホに指を走らせたちょうどそのタイミングで、ドアが開いて凉城が姿を見せた。
「和花名さん……は、もう帰っちゃいましたよね……参ったな。あ、凛子さん、大丈夫ですか?顔色が良くない……」
凛子に気遣うような声を掛けつつ、部屋に鈴七の姿を見つけて、凉城はそこにいる者たちがすでに事情を把握しているのだと知った。
「凉城さん!」
「ええ、分かっています、芹くん。ついさっき、窓の外を犬神が走っていくのが見えましたので」
「あ、やっぱり」
彼らの中で、あやかしがまともに視えるのは、凉城だけだ。
「和花名さんなら、アレを止められるかも知れないと思ったんですが……」
「犬神をどうするかはともかく、春ちゃんを早く確保しないと」
「ええ。この時間でしたら、坊ちゃんはまだ歯医者さんにいるハズですので、私はそちらに向かいます。芹くんは私と一緒に来て下さい。鈴七さん、凛子さんをお願いして構いませんか?ここから先は、私たちで何とかしますので」
「凉城、わ、私も行くわ……」
凛子は気丈にそう言って、芹と一緒に立ち上がった。自分たちはチームなのだから、一緒に行くべきだと思う。そんな凛子の心中を察したのか、凉城は優しい眼差しを向け、その頭にポンと手を置いた。
「貴方の瞳に映るものは、一つ残らず美しいものであって欲しい……そんな俺のわがままを聞いて下さいませんか?凛子さん」
「凉城……」
――空気が甘ったるーく感じるのは気のせいじゃないよな~春ちゃん、今日歯医者で良かったよホント。
芹は凉城の後ろでスーハーと呼吸を整える。こういうことに慣れていない部外者の鈴七は、顔を赤らめながらも目の前の甘々なやり取りをガン見している有様だ。
「じゃ、行きましょうか、芹くん」
「ふぁい」
自分も大人になったら、こんな甘々なセリフをサラッとカッコよく言えるようになるんだろうか。などど、どうでもいいことを考える芹(彼女いない歴=年齢の人)である。
何しろ、凉城は芹がなりたい大人の理想像なので、今日のやりとりもキッチリ芹の「心の凉城メモ」に記録された。データ収集には余念がない。
甘いモノを少しお控え下さい――
歯科医にそう注意されて春日は憮然としていた。その上、遠慮のない看護師さんからは、
「高校生にもなって、甘いモノ食べすぎて虫歯になるなんて、スイーツ男子も程ほどにして下さいね」
な~んて、恥ずかしい注意をされるし。
――別に、僕はスイーツ男子じゃないしさぁ。
自分はお茶どきに出されるおやつを自動消化しているだけなのだ。糖分とか、栄養とか、そんなものは、料理人の方がきちんと管理してくれなきゃ困る。そもそも、凉城のつくるおやつは旨すぎるのがいけないと思う。
歯科医院の待ち合い室で迎えの車を待ちながら、これを機に栄養士を雇うべきか否かという問題に春日が頭を悩ませていると、窓の外、通りの反対側を和花名と悠斗が、並んで帰っていく姿を見つけた。
和花名は松葉杖の悠斗を気遣いながら、歩調を合わせる様にゆっくりと歩いている。そしてそこに、悠希の姿はなかった。
「……弟はどうした……」
無意識に感じた違和感を口にした途端、そこに悠希がいない理由が春日の頭に浮かんで背中を冷たいものが滑り下りた。
「うわぁぁ……もしかして、マジ、そういうこと……?」
こんな時に限って、しもべがひとりも側にいないなんて。全く付いていない。
――さて、どうしてくれよう。
ここで待っていれば、もうじき凉城が車で迎えに来るはずだ。時間を確認しようとして、春日は制服の上着のポケットを探ってスマホをさがす。
「あれ?どっか置いてきたっぽい?」
部室で触った記憶があるから、そこかと思う。悪いことは重なるものだ。
「あーもうっ」
自分の迂闊さに憤りながら待合室の壁掛け時計に目をやると、待ち合わせ時間まであと十五分ほどだった。
「十五分かぁ……」
ふと目をやった空は黄昏時で、どこか禍々しい感じのする黒い雲がオレンジ色の空を斑に覆っていた。自然、心拍数が上がる。もう、嫌な予感しかしない。体内の危機感知センサーがピコピコと点滅しているのを感じる。
――ここは、多分ヤバい。
そう感じて春日は立ち上がり、歯科医院の外に出た。ここから神社まで、走れば五分と掛からない。あそこの敷地内なら、結界が張られているから、あやかしの類いは入って来られない。そう算段すると、春日はカバンを抱えて走り出した。
「あれー?小鳥先輩、急いでどこ行くんですかー?」
道を先に歩いていた和花名が、春日に気づいて通りの向こうから声を掛けてきた。
「しー見っかっちゃうから、オネガイ静かにしてー」
「……見つかる?」
和花名がキョトンとしたのを横目に、春日は全力疾走で通りを駆け抜ける。
程なく神社の大鳥居を視界に捕らえて、ほんの少し気が緩んだ。そんなタイミングで、背中から思いきり突き飛ばされた。誰にかは問うまでもなく――
――くっそーあとちょっと、なのに。
不意のことで、受け身も取れずに思いきり顔から転んで額を擦りむいた。起き上がろうにも、背中から強い力で地面に押さえつけられていて動けない。無様にも、転がされたカメのように、手足をバタバタと動かすことしか出来ない有様だ。
「先輩、大丈夫てすかっ?!」
少し離れた場所から、和花名の悲鳴のような声がして、続いてパタパタという足音と共に、人が駆け寄ってくる気配がする。
「……さ、触んないで、危ないからっ」
顔を和花名の方に向けて、そう訴えると、和花名が春日の方に伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。
「とにかく、僕から離れてて」
「え、はい。あのっ……救急車、呼びます?」
何がどうなっているのか分からないまま、パニクった様子で和花名が訊く。
「あ、うん。救急車よか、凉城に連絡取って貰ってもいい?」
「え?稲田先生ですか?いいですけど……」
和花名は立ち上がると、少し離れた場所でスマホの電話帳で凉城の番号を探し始める。入れ替わるようにして、悠斗が捻挫した足を庇いながら春日の傍らに膝をついた。
「先輩、これって……あいつ、なんですか?」
ヒソヒソ声でそう訊かれる。
「わ、っかんないけど、かも……」
「俺たちで、何か役に立つことありますか?」
「取りあえず、逃げてくれない?」
「え?」
「ここにいると巻き込まれるかも知れないから、彼女連れて早く逃げて」
「……でも、先輩を置いて逃げる訳には」
「馬鹿言うな。彼女にいられる方が、僕的にはヤバいんだってば」
「あ……ああ、初呪?」
「ウンウン、だから、彼女連れて早くどっか行って」
「わ、わかりました……」
「先輩、稲田先生と連絡つきましたよ。電話に出たのは、芹先輩でしたけど。二人一緒に、車でこちらに向かってるって」
「ああ、あんがと、和花名ちゃん。んじゃ、犬神兄、頼んだぞ」
「はい……和花名、行くぞ」
立ち上がった悠斗にそう言われて、和花名が怪訝な顔をする。
「え?でも、先輩このままで?せめて先生来るまで……」
「いいからっ」
「何?ちょっと、訳分かんないんだけど……」
尚もその場から動こうとしない和花名に、悠斗は舌打ちをして、言葉を荒げる。
「いーから、早く来いって言ってんだろっ」
「……」
何だか様子のおかしい悠斗に、和花名が不審の目を向けたのを見て、春日がフォローする。
「あー和花名ちゃん、僕のことは気にしないで行って。犬神兄には、お使い頼んだんだよ」
「お使い?」
「そ、そう。神社の五形さんにさ。なぁ、犬神兄?」
「ええ。だからほら、行くぞ、和花名」
「う、うん」
心配そうな表情を見せつつ、和花名は悠斗に引っ張られる様にしてその場から離れていく。それを見送って、春日は小さくため息を漏らした。
「お前、一体何なのさ」
ダメ元で、自分の上に乗っかっている、『何か』に訊いてみる。
「犬神弟なの?……って、返事されても、残念ながら僕には分かんないんだけどなー」
自分は、理不尽に捕捉され、一方的に蹂躙されるばかりで、抵抗する術を持たない。
捕捉されないように、蹂躙されないように、幾つもの予防線を張って、張って、張って……出来るのはそれだけだ。だから、その予防線を越えられてしまったら、もう『負け』は確定したも同然なのだ。それでも――
「お前が、犬神弟ならさ、おやつ食べさせてやった恩に免じて、あんまり痛くしないでね」
と、言っておかずにはいられない。
――だって、痛いのは嫌に決まってるし。悪あがきだけどさっ。
すると、ふっ……と、押さえつけられていた重圧感が消えた。
「あれ?」
何だか分からないけど、体が軽くなった。もしかして、諦めてくれてのだろうか。それならありがたいけれど……
ジンジンと痛む額の傷を気にしながら、春日は身を起こす。と、不意に傍らを強い風が吹き抜けた。風の行く先を追うと、そこには和花名達がいた。ユラリと空気が揺れて、大きなモノが移動している様な感覚を感じた。犬が走っていく――見えた訳ではないのに、そう思った。
「……に、逃げろ、犬神兄っ!」
春日の叫び声に瞬時に反応した悠斗は、松葉杖を捨てて和花名の手を掴むと、足を引き摺りながら、神社の鳥居を目指して走り出した。
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