第22話 本当の飼い主
次の日の放課後、悠希はひとり被服室を訪れていた。
「あら?今日は、和花名さんは来ていないわよ?」
中にいたのは、意味ありげな笑みを浮かべた萩緒ひとりだ。今日は部の活動日ではないようだった。
「知ってる。今は補習中だ」
「そう?なら、私に会いに来てくれたってことでいいのかしら?」
「あんたが、俺の本当の飼い主なのか?」
「……へぇ。そういうの意外と分かるものなのねぇ。何て言うか、ちょっと感動かもだわ」
「分かるも何も……」
悠希が左腕をまくり上げ、前腕の上部、肘の内側の辺りを萩緒に示す。
「こんな所有者印ガッツリ付けといてさぁ」
そこには小さくて丸い文様が、刺青のように刻まれていた。
「……すごい。消えずに残ってたんだ」
悠希の腕を手に取って、萩緒が感心したように呟く。
あの日――
去年、和花名が巻き込まれた、あの事故の日。
萩緒は神社の裏山で、和花名の飼い犬だったシオンの体を使って、犬神下ろしの儀式を行った。和花名がシオンを探し当てたその時に、術が発動して、和花名の体に犬神を憑依させる。計画ではそうだった。だが、和花名の代わりに、犬神を解放してしまったのは、犬神家の末裔である悠斗だったのだ。
術の発動に気付き、萩緒が裏山に行った時にはすでに、シオンの姿も、犬神の気配もそこにはなかった。
翌日、和花名があの崖から落ちて怪我をしたと聞いて、犬神の出現はあったのだと分かったが、その行方は掴めなかった。和花名の意識が戻った後でお見舞いに行った時も、彼女から犬神の気配は感じられなかったのだ。
それから数か月して、萩緒は不意にその気配を、犬神の気配を感じた。思いがけないところから――そう、犬神悠斗から、その気配を感じたのだ。
やがて、悠斗の傍らに現れた弟、悠希。それが人ではないモノであると、萩緒にはすぐに分かった。それが犬神の化身なのか何なのか、その正体を見極めようとしたが、彼には既に小鳥家のガードがついていて迂闊に近づくことが出来なかった。その腕の首輪しかり、王子部の結界しかりという訳だ。既に、ターゲットである相手に、犬神の存在を気づかれてしまっていたし、自分の呪の支配下からも離れてしまったモノを、もう今更、使い様がないと思っていた。
それが昨日、和花名を迎えに来た悠希に、ダメ元で呪を送ってみたら、残っていた刻印に反応したのだろう、思いがけず彼に上手く絡みついた。そして、今日のこの訪問となった訳だ。
――へぇ……この刻印に引っかかったのね。
それは、萩緒が犬神召喚の儀式の時に、シオンに施した呪の名残りだった。
「それで?あなたが自分でここに来たってことは、こっちに戻って来たってことでいいのかしら?」
「俺はもう、和花名の犬だから。ここに来たのは、この印を消して貰おうと思ったからだよ」
犬鬼を和花名に渡したのは、萩緒だ。
数年前、犬を飼ってみたいと言った和花名に、犬鬼を渡した。もちろん、ただの子犬だと言って。
いずれ和花名に犬鬼を使ってもらうには、そこに絆が必要だったから……
育てられた犬鬼が犬神として和花名の使い魔になるには、和花名に犬鬼を育てて貰う必要があったのだ。
ただ計算外だったのは、犬鬼が和花名に懐きすぎてしまったこと。
――ホント、犬塚の血の匂いを甘く見てた。
そんな伝承は、術者の力量でどうとでもなる類のものだと思っていた。だって、和花名はごく普通の中学生なのだ。まさか、一流の術者並みに犬神を従えることができる力があるなんて思わないだろう。
まあ、従えるとは言っても、あれはただ懐かれているだけなのだろうけれど。それでも、それがこちらの術をキャンセルさせるほどのものとなれば、話は別だ。
本当は萩緒自身が犬神の
身の丈に合わない力は、身の破滅を招く。背伸びをしてはいけない。それが、術者としての師でもある父から、幼い頃からきつく言い含められていたことだ。
それでも、手塩に掛けて育てたあやかしに、好き勝手されるのは面白くないと思う。これは、犬飼家の矜持の問題とちょっとした意趣返しだ。
「はいそうですか。って、すんなり話が付くほど、世の中は甘くないのよ?」
「えぇーーっ」
「ちなみに聞くけど、和花名さんはあなたの正体、知らないのよね?」
「……犬だってことは言ったけど?」
「それって、言葉の綾みたいなノリで言っただけでしょう?」
「まあそうだけど」
「なら、和花名さんに正体をバラされたくなかったら、私の言う事きいて?っていう強迫は有効よね?」
「え?別にバレても俺困らないけど?」
「は?あなたは、あやかしなのよ?化け物なの。バレたら和花名さんの側には居られないでしょうが」
「どうして?」
――どう……してって。この子の理解力は、犬並なの?そうなのっ?
「女は好きになったら、犬だろうが化け物だろうが関係ないんでしょ?」
「は?」
――一体誰よ、この子に妙な常識教え込んだのはっ。
「その辺、絶賛惚れさせ中だから、問題ないし」
「……頭痛くなって来た」
「それでも、和花名じゃない人が付けた鎖を引き摺って歩くのは、何て言うか気持ち悪いから、外してくれると嬉しいんだけど」
「……」
「まあ、無理ならこのままでも構わないけど。ちょっと気持ち悪いの我慢すればいいだけだから」
「……ちょっと気持ち悪いだけ?冗談でしょう……」
萩緒が人差し指を唇に当てて、何ごとかを呟いた。そして、指先にふっと息を吹きかけると、その指を悠希の額に押し当てた。
「世の中そんなに甘くないんだってこと、思い知らせてあげるから」
「え?なっ……に」
押し当てられた指先から、ピリリと全身に不快な痺れが広がっていく。小鳥邸で結界札を踏んだ時と同じ感覚に、悠希は慄然とする。腕の文様の辺りに熱さを感じて目をやれば、文様が発光していた。その部分がねじり上げられる様な痛みを感じる。
「いっ……くっ……」
耐えていられたのはほんの数秒で、悠希は逆の手でその部分を抑えながら、痛みに耐えるように体を丸めこむ。しかし、限界点はすぐにやって来た。痛みに耐えきれなくなって膝を折り、叫び声が口から漏れ出す。
「うぁああああっ」
地面がグラグラと揺れ出して、二の腕に巻いていた首輪が千切れ飛んだことに気付く余裕すらなく、悠希は成すすべもなく地に伏してうずくまる。しばらくそうしていて、やがて痛みが引いたことに気付くと、朦朧としながらも何とか身を起こした。
気づけば自分を見下ろしていたはずの萩緒が、自分を見上げている。
「あ……れ?」
違和感の正体はすぐに分かった。
「あら、意外ともふもふなのね、犬神って」
――もふもふ?
言われて自分の体を見た。見たはずなのに、そこに見えたのは、大きな犬の体躯で。
「え?あれ?……」
数秒考えて、ようやくそれが自分のものだと認識する。
「なっ、なんでっっ?」
「あなたに掛かっていた封印関係、ぜ~んぶきれいに
「えぇ?」
「それがあなたの、ありのままの姿。犬神の姿」
「えーーーー?って、どうすんだよ、こんなのっ。和花名になんて説明……」
「今のあなたは、誰からも束縛を受けない、フリーのあやかしモノ。だから、好きにしていいわよ?」
「好きにって……」
「ああ、でももし、どこにも帰れる場所がなかったら、私の所にいらっしゃい。私が飼ってあげるから」
楽し気にそう言って、萩緒は被服室を出ていく。
――えーーーーーーっ。て、ちょ、これっ、困っ。
「困った」
放課後の被服室――
今日が部の活動日じゃなくて、ほんっとに良かったと思っている犬神悠希(犬神化後)です――
「じゃなくてーー」
いつまでもここに隠れている訳には行かないだろうと思う。でも、まんま大きな犬で、あやしいモノであるのは一目瞭然な訳で。
――いや、あやかしモノか。って、んなん、今どうでもいいからっ。
とりあえず、暗くなって
――あぁ、ダメだわ。あそこんち、結界張ってあるから、あやかしの体だと入れないじゃん。
それなら、神社の鈴七の所か。事情を知っている彼女なら、匿ってくれるかも知れないと思う。悠希がそんなことを考えていると、廊下に人の気配を感じた。
―――やべー。誰か来たっ。どーしよ。
「悠希~?いる~?」
和花名だっ、と思った瞬間にもうドアが開く。悠希は咄嗟に飛び上がって天井に張り付いたが、視線をちょっと上に向けられたら終わりだ。
「悠希いたか?」
姿は見えないけど、廊下からは悠斗の声もする。
「いな~い。どこ行っちゃったんだろう、悠希」
言いながら、和花名がふと天井を仰いだ。刹那、目が合ってしまった。
「あ……ははは」
もう笑って誤魔化すしかない。そう思って力ない笑い声を漏らした悠希の前で、和花名は、
「ここにはいないみたい」
そう言って、扉を閉めた。
「え」
廊下を遠ざかっていく足音に、悠希はキツネにつままれたような面持ちで呆然とする。
「松葉杖なんだから、教室で待っててくれて良かったのに」
「お前ひとりじゃ、危なくてな」
「階段踏み外した人には言われたくないんですけど……」
「あのな、お前……の……だけ……」
「……もう……ら……ね……」
「……」
「……」
二人の気配が完全に消えた所で悠希はようやく、和花名には自分の姿が見えていないのだと気付いた。声も――聞こえていない。もしかしたらもう、自分は和花名に触れることさえ出来ないのかも知れない。そう思ったら、急に切なさがこみ上げた。
――どうしよう。俺。
恐らく自分の存在を見つけられるのは、萩緒のような術者だけなのだ。
自分はもう、人外のモノ。あやかしモノなのだから――
――もし、どこにも帰れる場所がなかったら……私が飼ってあげるから――
そんな萩緒の声が、悠希のこの状況を嘲笑うように繰り返し頭の中でこだまする。
あやかしモノの自分には、どこにも帰れる場所がない――
その現実に愕然とさせられる。自分をこの現実世界に繋ぎ止めるものが無ければ、あやかしである自分はここにはもう居られないのだ。何が理由がなければ――
焦燥の中で、ジンジンと腕の刻印が疼いた。気付けばそこから、今にも切れそうな細い光の糸が伸びている。
「これ……って……」
――女王様がそう望んでいらっしゃるの。だから、あなたはその望みを叶えて差し上げなくてはならないわ。分かるわよね?
それは、萩緒の残した呪の残滓だ。
主人の願いを叶えること。それが、しもべがその存在を許される唯一の条件。この契約はまだ、有効なのだろうか。主人のこの願いを叶えれば、自分はここにいることが許されるのか――萩緒のしもべであるあやかしとして。もしそうなら……
「女王様の望み……って……何だっけ……」
悠希は、すでに消えかかっていた、自分の中の犬鬼の記憶を手繰り寄せる。
――そう……確か。小鳥春日を……
その望みを叶えれば、自分はこの場所に留まることが許される。きっと許してもらえる――
そんな望みとも確信ともつかない思いを抱いて、犬神は閉め忘れた窓から大きく跳躍すると、暮れかけた夕闇の中へと姿を消した。
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