第15話 うるさい犬

――和花名、和花名、和花名っっ。


 またこれだ。眠りによって悠斗が意識を手放すと、体の中で勝手に犬が走り回る。自分のものではない記憶が夜ごと脳内で再生されて、自分の知らない和花名を垣間見る。というか、強制的に見させられるのだ。夜ごとの和花名シアターだ。そして、悠斗は一つの確信を得た。


――こいつは、シオンだ。


「シオン?」

「和花名が飼ってた柴犬だよ。そうとしか思えない。毎晩、和花名が恋しくて、和花名との記憶を俺の脳みそ使って再生しまくりなんだ。何とかしてくれ」


 犬神が和花名を助けたのも、そもそも奴がシオンだったというのなら、納得が出来る。最初に和花名を押し倒していたのだって、じゃれていただけだったのかも知れない。


「……と言われましても。困りましたわねぇ……」

 チラっと、その和花名シアターとやらを見てみたいと思ってしまった鈴七であるが、本音は隠して話を続ける。

「でももし、その犬神がシオンくんなのだとすると、和花名さんが育てていたシオンくんは『犬鬼いぬき』だったということになってしまうんですけど……」

「犬鬼?」

「ええ、犬鬼。犬神に変化へんげするあやかしの一種ですわ」

「ええと……何か変なものが和花名の犬に憑いて犬神化したとかじゃなくて?シオンは元々あやかしだったってことか?」

「普通の犬は、そうそう犬神に変化したりしませんもの。犬鬼というあやかしが何等かの妖力を得て、犬神に変化へんげするというのが、一般的です」

「……って、あいつ、どっからそんな妙なもの拾って来たんだよ……たくっ」

「それはともかく、和花名さんの意識が戻ったというお話はお聞きになりまして?」

「……そうか。戻ったんだな。良かった……」

「私と七紘とで、週末頃お見舞いに行こうという話になっているんですけど、ご一緒にいかがです?」

「……いや。俺は、もう少し落ち着いてからにするわ」


 和花名の顔を見たい気持ちはもちろんあった。だが、変なことになってしまった今の自分は、どういう顔をして和花名に会えば良いのか分からない。


 それに自分の中にいるシオンが、和花名の顔を見たら、暴走しないとも限らない――鈴七のお札の威力を信じていない訳ではないが、鈴七にしたって、彼女はあくまで巫女であり、術師とは違う。

 犬神の扱いを全て分かっている訳ではないみたいだし、不安が払拭されないうちは、自分は和花名に会うべきではないと思ったのだ。


 もう少し、この状況がはっきりして、有効な対処法というか、和花名に迷惑の掛からないことがはっきりしたら……そうしたら会いに行こう――そう思っていた。


――何も分かっていなかったこの時に、ひとめでも会っておけば良かった。


 後に、悠斗はそう後悔することになった。間もなくその状況とやらがはっきりしたことで、悠斗は和花名と距離を置くことになってしまったからだ。





 何だかとても寒い。そう思いながら、悠斗は半分寝ぼけたまま、布団を手繰り寄せると中に潜り込み、体をちいさく丸めた。それでも体は冷たいままで、布団のぬくぬく感が全く感じられない。


―― これ、ユキが降るかも知れないねぇ。


 不意に頭の中でそんな声が聞こえた。


――雪?ああ、だからこんなに寒いのか。


 ぼんやりそんなことを考えて、空を仰ぐ。空には灰色の雲が厚く垂れこめて、今にも雪が降り出しそうな気配がしていた。


――ああ、これまたシオンの記憶か。


 そう思って辺りを見回すと、側にそんな鈍色の空を見上げている少女の姿があった。その姿は水面に映る影の様に輪郭がぼやけていて、はっきりとは見えない。和花名なのかと思ったが、雰囲気がだいぶ違う。どこか影を纏ったような、しっとりとした物静かな感じの子で、自分と同年代の女の子だということだけが、何となく分かった。



―― これ、ユキが降るかも知れないねぇ。


――そう言ったご主人さまの声には、どこか楽しげな響きが籠っていて……

『ボク』は生まれてから一度もユキというものを見た事はなかったけど、それはどうやら楽しいもののようだと思ったから、ボクは自慢の大きなしっぽを盛大にユサユサと揺らして、楽しみだって伝えたんだ。


 不意にシオンの声がそう呟いた。それまでとは違って、まるで人間のような言葉遣いに悠斗は驚かされた。シオンは自分の中で、単なる犬から、それ以上の存在――犬神に変わり始めている。そのことを実感させられて、悠斗は呆然とした。




――ねえ、犬鬼いぬき……


 情景が切り替わり、少女の声が再びそう言った時、悠希はこれはシオンの記憶ではなく、それ以前の犬鬼とよばれるあやかしであった頃の記憶なのだと気付いた。


「ねえ、犬鬼いぬき……」


――すぐそばで、ご主人様の感情の抜け落ちた声がボクを呼んだ。


「女王様がそう望んでいらっしゃるの。だから、あなたはその望みを叶えて差し上げなくてはならないわ。分かるわよね?」


 そんな言葉と共に、すうっと目の前に冷たさを纏った手が延びて来て、その気配に全身の毛が逆立つのを感じた。危険が迫っている。ただ本能でそう感じた。それでもボクは身動きひとつすることは出来なかった。というのも、首から上だけを残して、ボクの体はもう土の中に埋められていたから……


 そして、氷の様に冷たい手が首に掛けられる。


――イヤダ……


 牙を剥いての精一杯の威嚇。それでも、ご主人さまの力の前に、ボクはただ、自分の無力だけを思い知らされただけで……一生懸命に息を吸っているのに、一向に楽にならない呼吸。いまだかつて遭遇したことのない状況に、恐慌に飲み込まれながらもう声も出ない。


――なんだよこれ。

 嫌だ。

 怖い……


 そんな思考を読まれたように、ご主人さまの淡々とした声が告げる。


「怖がらなくていいのよ。大丈夫、死にはしないわ。だって、あなたは今からカミサマになるのだもの」


 口角を僅かに上げた彼女の表情は、笑っているようにも見えた。


初呪しょじゅというのは、とても強力らしいから、それなら例えどんなに強固な鎧を着こんだ相手でも、お前の牙で貫くことができるんじゃないかって思うの……だからお願い……女王様のお役に立ってね……わたしのかわいい犬鬼………………」


 苦しい息の下、視界がだんだんと霞んでいく中で、体全体が熱を帯びて、ふわふわとした浮遊感に包まれる。


――ねえ、でも、ボクは……今の『ボク』だから『ボク』な訳で。この『ボク』じゃなくなったら、きっともうそれは『ボク』じゃないよね……


 視界が暗転して、意識が遠退く瞬間。


―― ああボクは、もうユキというものを見ることはないんだなぁ。


 その『ボク』の最後に、ボクはそんなことを思った。


 その時のボクは、

 ただただ、

 それが哀しかったんだ――





「初呪……?」

 悠斗が犬鬼の記憶の中で見た少女の話をすると、鈴七は難しい顔をして考え込んだ。

「……それって、何か厄介なことなのか?」

 悠斗が答えを促すと、鈴七が何処か上の空で答える。

「初呪というのは、術者がその人生において、初めて使う呪のことで、その最初の一回は特別なものだと言われています」

「特別?」

「ビギナーズラックとでも言えば分かりやすいでしょうか……実力以上のかなり強力な術を発動させることが出来るというものなのですけど」

「そう……なのか」


「話の様子では、犬鬼を変化させた犬神を使う呪を、これから術者デビューする初心者の方に使わせて、強固な鎧を持つどなたかをどうにかしたいということでしょうか」

「それって、呪詛的な……ってことか?」

「恐らく……ですわね」

「ていうか、前に犬神を扱える程の術者は、この辺りにはいないって言ったよな?」

「ですから、その犬神の呪を使うのは、今はまだ術者ではなくて、これから術者になるお方なんですわ……シオンという犬鬼が和花名さんの元に送り込まれたのだということを考えれば、多分、その術者候補は和花名さんなのだと思います」


「和花名がって……あいつは術者でもなんでもない、ただの女子中学生じゃないか」

「和花名さんのおうち、犬塚家というのは、元々犬神使いの血統なんです。素人でも、術者としての素地はあるのですわ」

「なん……だよ、それ。じゃ何か?そいつは、和花名に呪詛をさせようとしてるってことか?ふざけんなよ……」

「犬神は悠斗くんの中にいる以上、和花名さんが、そんな厄介なことに巻き込まれることはないと思いますけど、万が一を考えて父に、犬神を祓うことの出来る術者を探して貰うことにしますわ」

「頼む」


――誰かを呪うなんて、そんな卑劣なことを行うために、和花名を道具として使おうなんて……誰がそんな酷いことを。


 誰かを傷つける為に、自分が利用されたなんて知ったら、和花名がどれだけ傷つくと思うんだ。そんなこと、この俺が絶対に許さない。

 犬神を宿した自分も同じだ。今の自分は和花名を傷つける存在に他ならない。だから、この犬神を何とか出来るまで、自分は和花名とは距離を置こう――


 悠斗はそう決心した。


 のに、だ。


――和花名、和花名、和花名っっ。


「あー煩い」

 お前、いい加減にしろよ、このバカ犬。


 犬神を宿してから早数ヵ月――

 悠斗の中の犬神は、日々その存在感を増している。近頃では、日中起きている時間にも遠慮なしに話し掛けてくるようになっていた。


――何で和花名に会いに行かないんだよ、もー 俺、和花名に会いたいのに、会いたいのに、会いたいの、にーー


「……誰のせいだと思ってるんだよ」

 自分だって会いたいのに、こいつのせいで会えないのに。いい加減にしろよと思う。

 遠慮なしに思考を垂れ流しにするくせに、こちらの抗議には聞く耳を持たない。


――会わせろ、会わせろ、あーわーせーろー


「煩い、黙れ」


――和花名、和花名、和花名、会いたいよぉ……わかなーー






「何かもう、色々限界なんだが……」

 悠斗がげんなりした顔で鈴七のいる茶室を訪ねたのは、寒さも緩んだ春も間近のとある放課後のことだった。

「大丈夫ですか?」

 そう声を掛けてから、目の下に隈を作り、疲れきった顔の悠斗に、鈴七は同情的な視線を向けた。

「……大丈夫じゃないみたいですわね」

「も、犬が煩くて、昼も夜も……どうにかしてくれ。頭がおかしくなりそうだ」 


 父親に頼んだ犬神祓いの件は、まだこころよい返事が来ていない。それほどの術者と言えば、数える程しかいないから、どの術者も仕事が立て込んでいて、直ぐには無理だと言われている。

 取りあえず、犬神は悠斗の中に封じられていて事なきを得ているから、直ぐに他に危害が及ぶことはないだろうということで、緊急性は低いと思われているせいだろう。



「あれから少し調べてみたのですけど、悠斗さんは、犬神家の方なので、そもそも犬神とは相性がいいみたいなのですわ」

「相性いいって、止めてくれよ」

「犬神の妖力が大きくなってきているのは、悠斗さんから生命力を得ているからだと思います。言わば、悠斗さんは犬神のゆりかごの役割をしてしまっているんですの……」

「マジ勘弁しろよ」


 悠斗が満身創痍といった体でガックリと肩を落とす。このままの状態では、悠斗が参ってしまう。それに、犬神の力も更に増大していくだろう。いざ、祓う段になって、犬神が余りに大きく育ってしまっていては、そちらの方も難易度が上がってしまう――


「犬神を一旦外に出しましょう」

「え。だってそんなことしたら……」

「『首輪』をつけて『鎖』で繋いでおけば、いきなり問題を起こすことはないと思います。例え、和花名さんと顔を合わせることがあっても、躾さえしっかりしていれば、きっと大丈夫です」

「……その躾って、もしかして俺がすんのか」

 悠斗が絶望的な顔で聞く。

「まあ、それは仕方がないですわよね。ワンちゃんのあるじは、現状、悠斗さん以外にいないのですから」

「まじかー」

「それもすべて、和花名さんの為ですわよ」

「……うう、分かったよ」

 悠斗が大きなため息をついて、しぶしぶ同意した。

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