第14話 ふたりだけの秘密

 目の前の畳に置かれた和菓子と抹茶――

 茶道部専用の茶室で慣れない正座をしている悠斗は、形式通りに一礼すると、おもむろに茶器に手を伸ばした。そこで、正面から来るどうにも強力な視線を感じて、一瞬目線を上げる。そこには若草色の着物姿の鈴七が、明らかにそうと分かる不機嫌な顔で正座をしていた。


「……何だか、怒りのオーラを感じるんだが、五形鈴七ごぎょうすずな

「そうでしょうとも。わたくし怒っているんですもの」

「ええと、それはやっぱり、俺が悪いってことになるのか」

「ここには、わたくしとあなたの二人しかいなくて、わたくしが怒っているのですから、怒られているのはあなたしかいないということになりますわね」

「……俺、何か気に障ることしたか?そりゃ、厄介なことをお願いしているのは申し訳ないと思っているが、それはこうして、俺がお前の点てたお茶を飲むという交換条件でクリアになってるんじゃないのか。それとも、こちらの依頼に対して、その対価では不足だという話なのか?」

「依頼の件は関係ありませんわ」

「だったら、一体何を……」

「いいから、早くそれお飲みなさいな、冷めてしまいますわよ。お話はそれからですわ」

 突き放すように言われて、悠斗は両手で茶器を持ち、教えられた作法通りに見よう見まねで茶器を数度回した後で、抹茶を一気に口に流し込んだ。


――にっが。


 今日の抹茶は、いつにも増して苦みが強い。いっそ何かに効く薬なのだと言われた方が、飲み下す努力が少なくて済むような気がする。数秒の躊躇の後、悠斗はようやくそれをゴクリと飲み込んだ。

「……ふぅ。それで?」

 苦さを中和するための和菓子に手を出せるような雰囲気でもなかったので、口の中に苦味を残したまま、悠斗は鈴七に不機嫌の理由を尋ねた。


「……昨年の事故以来、悠斗さんが和花名さんにお会いになっていなかったというのは、本当ですの?」

 鈴七が怒っている理由を察した悠斗は、小さく溜息を落とし、視線をそらして力ない返事を返す。

「……ああ」

「わたくしがっ……何のためにあなたに力を貸していると思うんですの?何もかも全て、和花名さんの為だというのに。それを、あなたはっ……和花名さんをあんなに追い詰めて、一体、どういうおつもりなんですのっ」

「……どういうも何も、和花名に『犬』を近づける訳にいかなかったからだろうが」

「……わたくし、言いましたわよね?封犬ふうけんふだと、戒めの首輪があれば、一応大丈夫ですからって」

「だって、それだって一応、なんだろ。俺の中から、和花名を想う『奴』の感情が止めようもなく溢れ出して来て、飲み込まれそうになる感覚が分かるか?そんな状態で、和花名の前で普通にしていられる自信がなかったんだよ。……俺はもう、和花名を傷つけることしか出来ない存在だから。そんな奴が、どうして和花名のそばにいられるんだよ」


「傷つけるだけだなんて。そんなことないですわ、悠斗さん」

 鈴七は畳の上をすいっと悠斗の方へにじりより、膝の上でぎゅっと握られていた悠斗の拳の上にそっと彼女の手を重ねた。

「五形……」

 そこから伝わる温もりに、悠斗の尖った心が少し柔らかくなる。

「……あなたが、わたくしを信じきれないのは、きっと、わたくしの力不足のせいもあるんですわ」

「……いや、そんなことは。五形は良くしてくれるし、悠希のことだって、五形の力のお陰で、ああやって和花名の側にいられる訳だし。五形が居なかったら、俺今頃どうなってたかって思うし……感謝してる」


「あらそう?なら、あなたにはもう少し、頑張って頂こうかしら。あなたのせいで、わたくし七紘に生まれて初めて秘密を作ってしまったんですもの。その分の見返りを頂いてもバチは当たらないと思いますわ」

「……見返りって」

「和花名さんの笑顔」

 言われた瞬間に、胸に杭でも打ち込まれたような痛みを覚えた。

「返して下さいます?」

「……そんなこと……今の俺に出来んのか」

「あなたにしか出来ないから、わたくし、こうしてお願いしているんですわ」


――昔みたいに。


 屈託なく笑う和花名が見られるのなら。俺の大好きな――笑顔が、また見られるのなら。


「俺……どうすればいい?」

「そうね、手始めに、もう少しわたくしの力を信用して頂くことかしら」

 鈴七がニッコリ作り笑顔を見せる。

「そして、あなたには立派な共犯者になって頂きますわ」

 可憐な、という形容詞を付けるのに違和感のないこの少女から、実に不釣り合いな大きな圧を感じる。

 半年前、あの事故の日に、悠斗はこの鈴七に救われた。鳳神社の神主としてこの街にやって来た彼女の父親と同様に、彼女にも『力』があった。それは、この地のあやかしと対峙することの出来る力だったのだ――




 半年前、悠斗はあやかしに出会った。

 これは、あの事故の後で鈴七に教えて貰ったことだが、そのあやかしは『犬鬼いぬき』という、小さな犬のあやかしだという。


 はるか昔、犬神家の先祖は『犬神』というあやかしを使い魔として召喚し、じゅを行うことを生業としていたという。大まかに言うと、呪とは、人をのろ呪詛じゅそのことであったり、災いを払うまじないのことであったりという感じのものらしい。


『犬鬼』とは、犬神に変化へんげする前の小者のあやかしであり、分かりやすく言えば、犬神の幼生体のようなモノだという話だ。



 あの日、悠斗は和花名から、飼っていた柴犬の姿が見えなくなったと言われて、手分けをして辺りを探していた。

 何か思う事があって、悠斗は神社の裏山に登った。どうしてそんな場所に行ったのかと言われれば、何となくだったとしか答えられない。勘と言えば勘だったかも知れないし、偶然だったと言えば、そうなのかも知れない。


 神社のやしろが見下ろせる場所に差し掛かった所で、悠斗は何処からともなく聞こえてくる犬の鳴き声に気付いた。それは、か細いクゥンといういかにも力ない声で、途切れ途切れに聞こえるその声を頼りに、悠斗が藪をかき分けて進むと、あろうことか、犬が首だけを残して地面に埋められていたのだ。


「シオンっ!」

 悠斗がその名前を呼ぶと、犬の耳がピクリと反応して、何かを訴えるような目が向けられた。

「……なんだよこれ。ひでぇイタズラしやがる」

 悠斗はすぐに近寄って、シオンを掘り出しにかかろうとした。

「待ってろ、今助けてやるから……」

 そう言いながら、悠斗は『そこ』に足を踏み入れた――


 足を踏み出した瞬間、不意に地面が発光して、シオンを中心に円形の光の文様が浮かび上がった。眩しさに目を閉じた途端、右足首を何かに掴まれる感覚があった。

「なに……」

 人の手とは思えないもの凄い力で足首が締め上げられて引きずられる。悠斗はバランスを崩してその場に尻もちをついた。

「何だよ……これ……」

 全身が光に飲み込まれていく。光の中で、辛うじて確認できたシオンに手を伸ばしてその前足を掴む。が、そこに黒い大きな穴が現れて、シオンはその穴に吸い込まれるように落ちていく。

「シオンっ……」

 そして悠斗もまた、シオンと共にその穴の中に引きずり込まれていく。そこで、悠斗の意識は一度途切れた。


 それからどの位の時間が経ったのかは分からない。誰かの悲鳴を聞いた気がして、悠斗は目を覚ました。

「……っ」

 意識が戻った途端、足首に痛みを感じた。見るとそこに、何かに掴まれたような跡がくっきりと残っていた。

「……痛っ……うーマジか」

 上半身を起こしただけで、足に激痛が走る。これでは歩くどころか、立てるかどうかも微妙なんじゃないだろうか。そんなことを考えていると、今度ははっきりと、その耳が少女の叫び声を捉えた。その切羽詰まったような声に、心臓がドキリとさせられる。

「……和花名?」

 それは彼女の声に似ていて……


 悠斗が焦りながら辺りを見回すと、林の途切れた山道の辺りで、何か大きな影が動いた。人というには大きすぎる、何かの獣だ。おそらく熊よりも大きい。痛いのを忘れて立ち上がろうとして、立てない自分に気付いて憤り、這いずるように藪を進んだ。藪から這い出した所で、悠斗はその獣に遭遇した。

「……犬……か、これ」

 大きさはともかく、その体躯の特徴は、犬で間違いなかった。その大きな前足が、そこに気を失って倒れている和花名の肩に乗っかっていた。

「和花名っ!」

 悠斗が叫ぶと、悠斗の存在を認識した犬が低い唸り声を上げながら、こちらを威嚇し始める。咄嗟に掴んだ棒切れで、応戦態勢を取ったものの、足を動かせないというハンデもあって、それが大して役に立たない対応であるのはすぐに分かった。


 果たして、バキッという音を立てて、棒切れはあれよと言うまもなく犬の化け物に噛み砕かれた。鋭い牙はそのまま悠斗に迫って来る。逃げようもなかった。反射的に顔を庇った腕に、その牙は容赦なく食い込んだのだろう。足の痛みなんてかわいいもんだったと言えるぐらいの更なる激痛に見舞われる。

「……っあぁっ……」

 自分が悲鳴を上げたのかどうかも分からないままに、悠斗は再び意識を失った。



 悠斗が二度目に意識を取り戻したのは、夜半過ぎだった。鳳神社の敷地内にある社務所の中で、悠斗は布団に寝かされていた。

 そして、悠斗の傍らに付き添っていたのが、この鈴七だった。体のあちこちに鈍い痛みは残っていたものの、あれほどの痛みを感じた足首や腕には傷ひとつなかった。訝しむ悠斗に鈴七は、あなたは犬神召喚の儀式に巻き込まれたのだと告げた。


――悠斗さん、あなたは犬神に憑かれてしまったのですわ。


 鈴七はそう言った。

 今、悠斗の中には、犬神というあやかしがいるのだと――


「……和花名……和花名はっ?」

「……和花名さんは、『あなた』が助けて家までお送りしましたわ。その後で和花名さんは救急車で運ばれて、入院なさったと聞きました。意識はまだ……戻らないというお話でした」

「え……俺……が?って……」

「正確に言えば、あなたの中にいる『犬神』が、ですわね。和花名さんは、裏山の崖から川に落ちて、流されそうになったところをあなたの体を借りたあやかしに助けられた。そういうことのようです」

「……ええと。何で……」

 あの時見た犬の化け物が犬神なのだとして、和花名を襲っていた奴がどうして和花名を助けるのか。訳が分からない。

「ともかく、取りあえず、犬封じのお札を作ってみたので、肌身離さずお持ち下さいます?」


 長方形の和紙に、悠斗には読めない模様のような不思議な文字と、漢字で大きく『封犬』と墨で書かれた紙切れを渡された。


「犬封じ……これ、お前が?」

「こう見えても、わたくしも一応巫女の端くれですから。護符の類を作ることぐらいは出来るんですの。取りあえずは、あなたの体から出て来ないようにすることしか出来ませんけど」

「それで、俺はこれからどうすればいいのかな……」

「何も。ともかく、犬神をどうこう出来る程の術者は、この街にはいないようですから、体の中で犬神を大人しくさせておく。今はそれしかありません」

「……そう……なんだ。取りあえずは分かった」

 鈴七の札を持ち歩いていれば、そう深刻なことにはならない様だ。そう思って安心した悠斗だったが、直ぐに体に居ついた犬神との生活はそんなに生やさしいものではないと知ることになった。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る