第9話 君のために淹れるお茶
指定された社会科準備室は、別館の3階の奥にあった。中等部の教室から見ると辺鄙な場所であるが、その先の渡り廊下を行けば、高等部の教室がすぐだから、どちらかと言えば、高等部寄りの場所にあるのだと言えた。
和花名がそこに辿りついたのは、実に時間ギリギリで、最終的には階段を1階から駆け上がらなければならなかった。そのせいで、完全に息が上がっていた。
「……はぁっ、もうっ……カンペキ、時間……読み間違えたっ……しぃ……」
そこは思っていたよりも、だいぶ……いやかなり、遠かったのである。
「……ここで、いいのよね」
肩で息をしながら、ドアの上部に掲げられている表示を確認する。
【 社会科準備室 】
その文字列を見て安堵し、和花名は大きく息を付く。そして、ドアをノックしようとした所で、その横に貼ってあったA4サイズの紙に目が止まった。
―― 王子部運営事務局。
紙の上に太字のマーカーで、デカデカとそう書かれていた。
「……はい?」
状況が掴めないまま、続けてその大きな文字の下の説明書き……のようなものを読む。
『 ―― 僕はご主人さまの役に立つ犬になります。
大切な誰かを守りたいキミらよここに集え。
誰かのために何かをしたいという崇高な願いを抱く同士諸君、
共に忠実な犬となり、キミらの女王陛下にその誠意を捧げたもう 』
これだけ読むと、あやしい新興宗教みたいなノリだ。
――いや~こりゃますます、このドア開けたくない感が増しますのぅ……
まさか、ここが話題の王子部の本拠地だったとは。
「犬塚さん、お待たせしましたか?」
ドア前で立ち尽くしていると、後ろから稲田先生の声がした。先生は、まあ当たり前だが、何の躊躇もなくドアを開き、和花名に中に入るように促す。
「あのぅ、先生、王子部って……いうのは……」
和花名は貼ってある紙を訴えるような目で示す。
「ああ……」
と、短く言って先生は苦笑する。
「うちの子たちが、また悪ふざけを始めましてね」
「……うちの子?」
「ええ、本来はこちら、なんですが」
言いながら先生が、その紙をぺらっとめくる。
【 歴史研究同好会 】
そこには、そう書かれた木彫りのプレートが下がっていた。
「私はこちらの同好会の顧問なんですが、歴史研究とこじつけて、色々脱線してくれますよ彼らは」
「歴史研究、なんですか?王子様が?」
「今回は、中世の騎士道精神の考察と実践なんだとか……そんなへ理屈を並べていましたか。まあ、部じゃなくて同好会なので、その辺は大目には見ていますが。それでも、そのレポートは後ほどきっちり仕上げさせるつもりでいますけどね」
「ははあ……」
「さ、中へどうぞ」
「あ、はい……」
そこに漂う微妙な空気感に、和花名がだいぶ躊躇しながら室内に入ると、目の前に仕切り代わりになっている書架があり、その向こうから男子生徒の声がした。
「おい、
――凉城……って稲田先生のコトよね。先生を呼び捨て……なわけ?
和花名が訝しむ横で、先生が応えを返す。
「あのねぇ、君たち。先生っていうお仕事は、とぉっても忙しいんだけどな」
すると、
「あのねぇ、凉城、お前はこの学校の先生である前に、うちの使用人で執事なんだってコト忘れてる?」
という声が返って来た。
――えっとぉ……稲田先生って……
先生は書架の向こうを覗き込み、さらに言う。
「理事長からは、学校にいる間は教師優先で構わないと……」
「んじゃ聞くけど、そもそも、お前、何の為にここで先生をやってんの?」
「そりゃ、一言で言って、人使いの荒いご主人さまの『わがまま』ですね」
「お給料減らされたい?」
「おや、私の雇い主は、あなたではなくて理事長ですが?」
「まあまあ、二人とも抑えて抑えて。事情を知らない彼女が、びっくりしてるじゃない」
奥からこちらを覗きこんだ男子生徒が、和花名に気付いてその応報に割って入った。
「え?彼女?」
最初に先生にお茶を催促した人物の声がして、もう一人別の男子生徒が書架の向こうから顔を出した。
――うわっでた。小鳥先輩だっ。しかも首輪してるし、その上っ、首輪の色ピンクって更に微妙っっ。
「ああ、何だ。わんこのご主人さまじゃん。良かったらキミもこっち来て、一緒にお茶しない?」
「はぁ……」
どう受けていいのか分からない。が、取り敢えず、事実誤認だけは訂正しておく。
「……あ、いえ、私、犬はもう飼ってませんし、金輪際、飼う予定もありませんからっ」
「そ~は言われてもなぁ……どうも、わんこはキミに飼ってもらいたがっているようなのだが……」
「いや、だからですねぇ……」
「坊ちゃん、犬塚さんはここに補習にいらしたんです。くれぐれも、邪魔をなさらないように」
――ぼっ……ちゃん……いいました?いまっ。
本当に、執事兼先生なのか。笑っちゃいけないとは思うものの、突発的なことに、どうにも笑いが込み上げてくる。
――失礼よ……アンタこの状況で笑ったりしたら、かなり失礼だからっ。耐えろ私~耐えなさ~い……
「犬塚さん」
「ぅあ……はい……」
「先に、奥の部屋へ行っていて頂けますか?お茶を淹れ終わったら、すぐに行きますから」
「……は……い」
その場で吹いてしまわないように、和花名は慌てて書架の隙間を抜けて行く。
「凉城さんの淹れるお茶って、何か一味ちがうんですよね」
「お気遣いどうも、
そんなやり取りを背中に聞きながら。
――お茶入れるのが最優先とかって、どんだけ?
心でそうツッこんで、ついに吹き出したのは、ギリギリ奥の小部屋に飛び込んだ後だった。
狭い部屋の中に、それでも英国式ティーセット一式が収められた食器棚が置かれているのは、ひとえにこの部屋の主である社会科教師兼執事――稲田凉城の趣味以外の何物でもない。
仕事柄、おいしいお茶の淹れ方を探究し続けた結果の賜物といえば聞こえがいいが、実際のところ、自分がそういうことが好きだったから、そこにこだわりを求めたのだとも言える。
さらに本音を言えば、主人のためにおいしいお茶を淹れるというよりも、おいしいお茶を飲んだ主人が満足そうな表情をする瞬間に得られる、何とも言えない充足感のために、自分はその、お茶を淹れるという行為を行っているのだろうとも思う。
だから、お茶を淹れるのは嫌いではない。
間違ってもこの主人に、それが楽しいのだと気取られることはあってはならないのだが ――
カセットコンロの上で、やかんがシュンシュンと音を立て始めたのを確認して、凉城は火を止めた。そして無駄のない動作で、茶葉の入ったポットに沸騰少し手前のお湯を勢いよく注ぎこむ。もうもうと蒸気をあげながら、ポットにお湯が注ぎこまれるにつれて、部屋にふわりとバラの香りが広がった。
ここでローズフレーバーの紅茶を淹れるのは、もうじきここを訪れる人のためだ。今朝、出勤前に焼いたスコーンを皿に並べ、やはり『彼女』の好みに合わせてバラのジャムとクロテッドクリームを添える。
――完璧。
凉城がセッティングの整ったテーブルを満足げに眺めた所で、ドアの開く音がした。
「あら、いい匂い」
そう言いながら部屋に入ってきた彼女は、凉城の顔を見上げてこぼれるような笑顔を見せた。
――ホント、この笑顔のため、というかね……
坊ちゃんには申し訳ない限りだが、自分はこの瞬間の至福のためにお茶を淹れている。
「ちょうどいいタイミング?」
「ええ。ちょうどいいタイミングですよ、
「良かった」
にっこりとして、凛子と呼ばれた少女はいつもの定位置である長椅子に腰を下ろした。
「ホラそこぉ~。そこだけ別世界作らない」
「ハルちゃん、ヤキモチやいてんの?かわい~」
芹に突っ込まれて、春日は眉間にしわを作る。そんな彼に冷ややかな視線を向けて、凛子が言う。
「犬は無駄口叩かない」
「う゛……今日はまた、一段と冷たい」
そう愚痴をこぼされて、凛子の口元が僅かに皮肉めいた笑みを帯びる。
「……あのねぇ。目の前で、見るからに痛々しそうな傷負って、血ぃ流してる奴のせいで、せっかく淹れてもらったお茶の美味しさが半減してんのよ。あんたに想像力の欠片ってもんがあるんなら、最悪だと思いなさいよ」
凛子は一息にそう言うと、ティーカップに口を付けて、少し不機嫌そうな顔で紅茶を飲んだ。
「……う、マジ?」
穏やかならぬ言葉を投げつけられて、春日は呆然とした顔で凛子を見る。
「お~い、ハルちゃん、しっかりしろ~」
横から芹が励ましの声を掛けるが、あまり効果はないようだ。
「凛子さん、それって……」
凉城が事実を確認するように、凛子に問う。
「……ええ。くっきりはっきり付いてるわよ。全身に犬に咬まれたような、痛そうな傷がいっぱい……」
凛子がしかめっ面のまま、そう答える。
「やっぱり最悪の展開予想、来ちゃいましたか」
凉城が、参ったなという顔でそう呟いた。
社会科準備室の狭い空間で、4人は頭を付き合わせながら、互いにウーンという思案顔になった。
ちなみに彼ら4人の関係を簡単に説明すると、
更に言うと、彼らは、お坊ちゃま
それは、自分を守る盾として、異能の力を持つ人間をしもべとして従わせることが出来るという力である。彼らしもべの力は、世界を守るためとか、他の誰かを守るためには決して使えない。ただ、主である春日を守るだけの、ただ一人春日にだけ都合の良い力である。
そして、凛子の持つ力というのは、主の身に降りかかる災厄を予知する能力であり、その災厄によって、この先酷い目に遭う春日の姿が『見える』という力だった。
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