第6話 犬と、……ご主人様?

 先生を見送ってから、ベッドを下りてそばに置かれていた荷物をまとめながら、和花名の思考は先刻の先生の言葉を反芻していた。


――元通りになる……何もかもが……


 そう繰り返すと、心に小さな希望の種が植えられたような気がした。


――なるの……かな……


 どこか哀しみを帯びた悠斗のあの瞳が脳裏に浮かぶ。きっと悠斗も苦しかったのだ。自分と同じように。そう思う。

 だから……


 突きつけられた残酷な事実に、さっきは怯んで逃げてしまったけれど、その事実の向こうに隠れている真実を、自分は知る必要がある。そうしなければ、悠斗はこのままどんどん遠くへ行ってしまう。そんな気がするから。


 だから、自分は本当のことが知りたい。

 本当のことを――悠斗があんなことをした理由を。


 だって、悠斗がシオンを理由も無く傷つける訳がないから。

 自分はそう信じたいから。


「……違う、信じているからだよ」

 自分に確認するように声に出して呟く。


 だって、悠斗は昔のまま何も変わっていないから。倒れた和花名を心配して様子を見に来てくれた。そんな優しい悠斗のままだから。


――きっと、そこには何か理由があったのだと。


 残酷な事実はもう変えようがないけれど、まだ見えない真実に、悠斗が抱え込んでいる闇を消し去る力があるかも知れないのなら、自分はそれを探すべきなのだろうと思う。どんなに恐くても、心細くても……。


『今日から俺は、和花名の犬だから』


――守るから……かぁ……う、やば。今更、ちょっと頼りたい気分になってきた。


 そもそも、守るなんて言われて、クラッと来ない女子はいないのだ。こんな風に心細い気分の時には、思い切り寄り掛かりたい誘惑に駆られる。


――い~や、だめだめ。うん、だめよ。飼う気もないのに、餌付けはまずいでしょ、餌付けはっ!


 あんな風にシオンを失って、もう他の犬なんて飼う気にはならない。


――って……いや、そもそもあれは、犬じゃなくて人間なんじゃないの……


 どうも思考回路が変な回り方をしている。

「ふぅ……」

 自己嫌悪に溜息を落したところで予鈴が鳴って、和花名は慌てて保健室を飛び出して教室へ向かった。




 彼女が廊下を走って行く、その後ろ姿を、悠希が少し離れた場所から見送っていた。

 とりあえず元気そうな様子に安心して、それから廊下を逆の方へ歩き、その先の階段を上る。だが数段上がった所で足が止まり、大きな溜息と共にそこに座り込んで肩を落とす。


「……なにやってんだろ、俺。守るどころか、めちゃくちゃ迷惑かけたっぽい……」

 和花名の役に立ちたい。そう思う気持ちばかりが空回りしている。

「おい、バカ犬」

 頭の上から不機嫌そうな声が降ってきて、悠希はその体勢のまま顔だけ仰向いて声の主を見る。

「……悠斗」


「お前の言う、守るっていうのは、ああいうことを言うのか?」

「……いや……あれは、ホント反省してる……俺、少しはしゃぎ過ぎてた」

「ふざけるなよ?お前、今度あんな風に和花名を傷つけてみろ……」

「……分かってるって」

「本当に理解しているのか、お前は。今の和花名には、お前の存在は刺激が強すぎるんだ。たくっ、能天気に毒気を振りまきやがって」

「どく……!?って、ひどっ。そんなん、言われなくても分かってるよっ。だからっ、保健室に送っただけで早々に退散したんじゃないか。ホントは目が覚めるまでそばにいたかったのに」

「当然だろう。身の程をわきまえろ」

「……俺はさ……絶対和花名が大事だもん。だから、何があっても守ってみせる。……そのために俺は、ここにいるんだから」


――何があっても守ってみせる、か。


「……だいたい存在すら認めて貰えなくて、何が守るだ。聞いて呆れる」

 つい口を付いて嫌味が出てしまったのは、こんな風に、正々堂々と大切なものを守るのだと宣言出来る奴の立場が、妬ましくも羨ましくもあったからだろうか。

「それはっ……時間かかってもさ……いずれ必ず……絶対、犬にして貰うもん。俺はっ、絶対、和花名の犬になるんだっ!」

「……」

 全く敵わない。こいつは全力で前向きだ。そんなお手軽な思考に、悠斗は思わず失笑する。


「そしたら悠斗、和花名は俺が貰うからな」

 その増長を揶揄するのも馬鹿ばかしい程の、一途さ。犬そのまんまではないか。

「……勝手にしろ」

 そう言い捨てて、悠斗は階段を下りて、悠希の脇をすり抜ける。

「……それでいいのかよ、お前はっ」

 背中に投げかけられた言葉が、結構な勢いで心臓を貫いてくれる。


――いい?いいわけないだろう……。


 怒鳴り返したい気持ちを抑える代わりに拳を握る。


――この無神経な犬を、殴り飛ばしてやりたい。


 一瞬浮いた邪悪な願いを振り払い、悠斗はそのままそこから歩き去る。


 他に選択肢はなかったのだ。

 だから、諸々、後悔はしていない。

 ときどき、無性にやり切れなくなることはあるけれど。耐えられないことはない。


――それが、俺にとっての和花名を守るということだから。





 和花名が教室に足を踏み入れると、ちょうどそこでチャイムが鳴った。そこかしこで雑談をしていた生徒たちの塊がほぐれて動き出し、それぞれの席に戻って行く。


 和花名が自分の席を探して室内を見回すと、馴染みの顔がこちらに手を振って合図をしていた。

「和花名~っ、ここここ。和花名の席ここだよ~っ」

 1年の時からずっと同じクラスの、尾花沢桐響おばなざわ ききょうが、自分の後ろの席を指して和花名を呼んでいる。


「お~、今学期は席が近いんじゃん、やったね」

 言いながら和花名が席につくと、桐響の3つ前の席から、七紘が肩越しに手を振って小声で生存確認をしてくる。

「和花名ったら、もう大丈夫ですの~?」

「うん、大丈夫~。心配させてごめ~んね~」

 手を振り返して応える。すると間髪いれずに桐響が話し出す。

「ホント、びっくりしたよぉ。朝っぱらから、あの犬神弟にお姫様抱っこで運ばれてく子がいるって思ったらさぁ、和花名なんだもんねぇ」

「いやあ……ははは……」

 桐響にもアレを見られていたのかと思うと、もう笑うしかない。


――しかし、『あの』犬神弟……って、あ奴はそんなに有名人なのか。


 そう思うそばから、さらに興味津津という風の桐響の声が訊いてくる。

「で、さっそく女王様扱いされた気分はどんな感じ?」

「や、違うってば。私、あれ、犬認定なんかしてないからねっ。ただ、ちょっと具合悪くなって、そしたら、あの子が保健室に運んでくれたってだけで……ていうか、この学校、いつからそんな妙な遊びが流行ってんの?」


「遊びっていうか、やってる奴らは、至極真面目みたいだけどなぁ、女王様の犬ごっこ」

 そう隣から声がする。


 見れば、去年も同じクラスだった袴田藤はかまだ ふじが、どこかだるそうに机に頬づえをつきながら、視線だけをこちらに向けていた。


「あぁ……おはよう袴田くん。今日も陸上部、朝練きつかったの?何だかバテバテだね」

「なんだかなぁ……半年かけてようやく袴田くんから藤くんに昇格したのにさぁ、半年たったら、また袴田くんに格下げとかって、それ結構ヒドイ、と思う」

「え、あ……そか。ゴメンゴメン、藤くんね、うん、藤くん」

「僕もな~和花名ちゃん抱っこしたいんだよな~でもな~犬はな~無理なんだよな~部活とか忙しくて時間的に厳しいからな~」

「あんたは、犬以前に、身長差から言って抱っこは無理でしょうに。そもそもあんた、女の子に抱っこさせてとかって、間違いなくセクハラなんですけど」


 桐響が容赦ないツッコミを入れたが、藤はそんなことは全く意に介さずといった調子で続ける。


「ていうか、僕的には、犬よりも彼氏の方がいいんだけどな~」


――ああ、そか、忘れてた… …


 そんな藤のセリフに、和花名は苦笑しながら大事なことを思い出す。


 そう……半年前にも、藤からこんな告白めいたことを言われていて、でも、その後すぐに休学してしまったから、その返事をまだしていなかった。

 まあ、そのことを忘れていたという時点で、もう返事は決まっている様なものなのだが……。


 だがしかし――


「なんなら付き合っちゃおうか、僕たち」

 また冗談めかして笑いながら藤が言う。


 こんな風に、藤はいつも、遠まわしにやんわりと押してくるものだから、和花名の方もキッパリ断る間合いが取れずにいる。


 実を言えば、和花名が学校を休んでいた間、七紘たち双子よりも、桐響ききょうよりも、この藤からのメールの数が一番多かった。そしてそれは、和花名の体調を心配するものでもなく、頑張れという類のものでもなく、ただ他愛もない戯言を綴っただけのメールで。


 でも、日に数度送られて来るそのメールのお陰で、間違いなく、和花名の気分はどん底まで沈まずに済んでいたのだ。


 それでも、だからそれで付き合うとかいうのは、何か違う気もするし。正直、遊び友達と彼氏と、どこがどう違うのかも良く分からない。藤はイイ奴だと思う。でも例えば……キスとか……そういうことを藤と、というイメージが和花名にはしっくりとこないのだ。だから、今は ――

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