第4話 犬神家の兄の方

 まだ目は開いていないけれど、意識は覚醒に近づいていた。


 たぶん校庭から聞こえてくるのであろう運動部の掛け声や、廊下を行き来する生徒たちの話し声や、その足音なんかを、一つずつ確かめるように耳が拾い上げては、意識の覚醒を促していく。


 布団を掛けられて寝かされているから、ここは保健室なんだろうと思いながら、和花名はしばらくそのまままどろんでいた。


 するとそこに、コンコンとドアをノックする音が混じり、中の応答も待たずにガラリとドアが開く音がした。そして間を置かず、男子生徒の声がした。


「失礼します。3Aの保健委員ですけど、犬塚和花名さんはどんな具合ですか?」

 その声に和花名の目は、反射的にパチっと開いた。


――って、うそっ……何で悠斗ゆうとっ!?


「ああ、犬塚さんなら、まだ眠っているわよ」

 保健の先生が応じる声がする。

「そうですか。ちょっと様子みて行ってもいいですか?担任に様子報告しなきゃならないんで」

「ええ、構わないけど、起こさないように静かにね」

「はい」


――やだ、先生っ、私は構いますぅ……


 和花名の困惑をよそに、閉じられたカーテンの向こうから人の気配が近づいてくる。


――ど、どうする私っ。


 考えを纏める間もなく、カーテンがわずかに揺れたそのタイミングで、切羽詰まった状態の和花名は思わず目を閉じていた。


――と、とりあえず、寝たふりっ。


 してしまった訳である。

 思い切り逃げ腰なのが、何とも情けない限りだが、とにもかくにも今の和花名には、悠斗と顔を合わせるには心の準備というものが必要なのだ。

 こんな風にいきなり、というのは、到底ありえない話で。


 暗転した世界に、カーテンがそっと開かれる音がする。そして足音が近づいて来て、すぐそばで止まった気配がした。


――そこに、いるの?


 悠斗がすぐ傍らにいる。

 そう思うと緊張のせいか、心拍数は否応なしに上がって行く。顔が赤くなっているような気がしないでもない。


――どーか、気付かれませんように……


 と、額に悠斗の手が触れた。


――ばっ、あんた、なっ、なんで触ってんのよぉ……


 思わず表情が出てしまいそうになったのを、和花名は必死にこらえる。すると、悠斗がぽつりと言う声が聞こえた。


「……ごめんな……」


 え?と思う間に、悠斗の指が和花名の前髪をくしゃくしゃっといじった。


――あぁ……この感じ……


 和花名の胸に、じんわりと懐かしさがこみ上げた。


 小さい頃、和花名は泣き虫だった。ある時、和花名がいつまでも泣き止まずにいたのを、悠斗はこうして前髪をくしゃくしゃっとして、そして言ったのだ。


『だいじょうぶ、ワカナはだいじょうぶだから』――と。


 和花名はいつも、前髪を触られると、もの凄い剣幕で怒る。それを悠斗は面白がって、何度もその悪戯を繰り返しては和花名を怒らせていた。

 それで、いつまでも泣きやまない和花名に、もしかしたら前髪をくしゃっとすれば、「和花名は怒る=元気が出る」んじゃないだろうかと、幼いながらにそう考えた結果の行動だったらしい。


 以来、和花名が落ち込んていたりすると、悠斗はこうして前髪をくしゃっとするようになった。


 小学校に上がってからは、照れの方が先に立って、そうされると和花名はやっぱり怒るコトになるのだが、そこに込められた悠斗の励ましは、いつも和花名の心を温かくしてくれた。


 さらに高学年になる頃には、二人が言葉を交わす事も自然と少なくなって、直接、「がんばれ」なんて言われることはなかったけど、「それ」は間違いなく「がんばれ」のサインとして和花名に届いていた。


 そして――

 今もこうして。


 その悠斗の指が離れた瞬間に、和花名は言いようのない寂しさを感じた。そして悠斗が自分から離れていく気配に、慌てて目を開く。そこには半年ぶりの、悠斗の背中があって――


 半年ぶりの声も、指の感触も、その優しさも……何も変わっていないのだから、何かが変わってしまったなんてことは、きっとない。和花名は巻き戻る記憶と共に溢れ出しそうになる不安を心に押し込めて、自分にそう言い聞かせる。


 何かが変わってしまったのかも知れないという恐さよりも、今言わなければ、自分はこの温もりをきっと失ってしまう。大切なものを失ってしまう――その恐さの方が勝って、和花名は手を伸ばし、悠斗のシャツの裾を掴んだ。



 和花名にシャツを引かれて足を止めた悠斗は、しかし、ただその場に立ち尽くすだけで、そこにあるべきリアクションがなかった。

 先刻無理やりに押し込めた不安が、堰を切って溢れだしそうになる。


「……悠斗」

 和花名が不安の混じった声で呼ぶと、悠斗がようやく肩越しに振り向いた。

 その表情はやはりどこか固い。

「……具合……いいのか?」

 そう問う悠斗の声も、なんとなくよそよそしい色を帯びる。そのことに不安を煽られながらも、和花名はつとめていつも通りの調子を装う。

「うん、もう大丈夫……だから、座って?」

 言ってベッド脇のパイプ椅子を目で示すと、悠斗は少し逡巡するようにその椅子を見てから腰を落とした。そして、和花名の視線から逃れるように、悠斗の視線はそのまま床へ落ちた。


 悠斗のそんな様子に、和花名の胸がまた軋みを生じる。

 それでも、きっと自分はこのまま記憶に蓋をしてしまうことは出来ないのだ。


 あの時、本当は何があったのか。

 自分は悠斗の口から聞かなければならない。そして、否定して欲しいのだ。

 和花名がこの半年、抱え込んでいた忌まわしい記憶は、和花名の思い込みが生んだ幻影に過ぎなかったのだと。


「……あの、さ……」

 緊張のせいか、声が掠れる。

「……」

「あぁ……そっか私、まずお礼、言わなきゃだ」

「……?」

「……ほら、あの時……私が川に落ちた時。私を助けてくれて、うちまで運んでくれたのって、悠斗だったんでしょ?」


 半年前、和花名は神社の裏山の崖から落ちた。


 崖の下が川でなかったら、間違いなく死んでいた高さで、川に落ちて気を失った和花名を、悠斗が間髪いれず川に飛び込んで引き上げてくれていなければ、きっとそのまま溺れて、どうなっていたか分からない。


 ずぶ濡れの和花名をおぶって家に運んだ悠斗もまたずぶ濡れで……

 だけど、和花名の姿に恐慌を来たした両親は、娘の介抱や救急車を呼ぶことで手いっぱいで、悠斗の存在を気に留める余裕もなかったのだという。


 だから、悠斗がいつの間にかそこから姿を消していたことも、後になってから、そういえば……という感じで気付いたという有様で、娘を助けてくれたことに対するお礼も、だいぶ遅くなってしまって申し訳なかったというような話をしていた。


「うちの親からそう聞いて……だからお礼……言わなきゃって……ずっと思ってて……だから、ありがとうね」

「……いや……」

 応じる声は返ってきたが、やはり悠斗の視線はこちらを向かない。


 そんな悠斗の様子に、そこから本題に入るべきか否か、和花名は躊躇う。それでも、胸に抱え込んだ重荷から解放されたいという強い思いが、和花名にその先の言葉を言わせた。


「……それで、さ……私、実は、あの時……崖から川に落ちた時の記憶が、何かあいまいっていうか……」


 和花名はそこで一旦言葉を切った。

 悠斗は下を向いて黙り込んだまま、ただ話を聞いている。


「……うん、ぶっちゃけ、よく覚えてない……っていうか。私、あの後、半月も意識不明だったでしょ?その間、何だか夢もいっぱい見てた気するし、だから、夢と現実の区別がよく分からなくなっちゃったっていうか……だから、きっとあれも夢だったんだと思うんだけど……」

「……」

「……思うんだけど……」

 そう言いかけたところで、押し込めた筈の哀しみがこみ上げてきた。


――大丈夫、こんなの悠斗が違うって言ってくれれば、消えてなくなるんだから……


 和花名は気持ちを落ち着けるために、大きく息を吐き、息を整えてから意を決して先を続けた。


「……でも、シオンが……あの日から戻って来なくて……戻って……来なくて……だから私……不安になっちゃったっていうか……で……」


 懸命に絞り出す声は、でも少し震えていて、すんなりとは出て来なかった。もっと普通に話したいのに。上手く出来ない自分にもどかしさを覚える。


 そんな和花名の言葉を遮るように、悠斗が不意に口を開いた――


「現実だよ……」

「え?」

「……お前が見たのは、夢でも幻でもなくて……間違いなく現実だ……」

「……そんなのうそだよ……だって……そしたら……」


 一番あって欲しくない悲しい現実が、一番認めることの出来ない現実が、本当の現実だということになるではないか。


――そんなのは……嫌。


 だが和花名のそんな思いを突き放すように、悠斗がさらに言った。


「うそなんかじゃない。シオンはもう、戻って来ない……俺が……殺したから」

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