第3話 捨て犬、拾うべからず


 付き合って下さいお願いします、みたいな勢いで、頭を下げて言われた言葉がまず意味不明で。

「って、えっ?」

 と、思わず訊き返す間に、更に理解不能なモノを目の前に差し出され。

「……く、首輪??」

 それは、正真正銘、立派な革製の赤い首輪チョーカーで……。

「はいぃ??」

 状況が飲み込めずに、真っ白になっていく頭に、周囲のどよめきというか、ざわめきがさざ波のように押し寄せて来て――


「王子部だ……おい、あれ王子部……」

「うっわ~まじ、朝から王子部って、濃すぎんじゃん……」

「ま~た王子部かよ~チクショウ勘弁しろよ~」


 そこここで繰り返される同じ言葉。それが嫌でも和花名の耳にも届いた。


「王子部……?」

――って、何っ?


 ただ一つ確かなことは、自分は今、間違いなくとても恥ずかしい状況に置かれているということだ。


――で?


 病み上がりのか弱い乙女が、久しぶりに登校したその朝いちばんに、こんな晒しもの状態って、一体ど~ゆうこと?っていう苦情はどこに持っていけばいいんでしょーか。


――って、これ、マジ超恥ずかしいんですけどぉ……


 この校門前のパフォーマンスに、登校してくる生徒たちが、次々に何事かと足を止める。その当然の結果として、和花名たちを中心にして、どんどん人垣が大きくなっていく。


――も、勘弁して……よぉ……


 だが、がっちりと掴まれている手は、多分、かなり全力で引き抜きに掛からないと抜けない感じで。簡単には逃がしてもらえなさそうなのは、見て分かる。困った。


――ん?あれ?


 一瞬、悠希の手が僅かに震えているような気がした。

 気のせいなのかもしれないけど、一瞬でもそんな風に思ってしまうと、もしかしてこいつも、今いっぱいいっぱい状態なのかしらと思う。


 確かに、一生懸命というか必死な感じの気迫みたいなものは伝わってくるのだ――手に込められた力加減だとかから。それはまた見ようによっては、拒絶されるのを恐れているようでもあり……


――そこまでしてのお願いが「犬」っていうのが、ただただ理解不能なんだけど……


 それでも、そんな悠希の様子を見ていると、その馬鹿ばかしいお願いを、即却下することに、ついためらいを覚えてしまう。


――いやいやいやいや……付き合って下さいとかならともかく……って、まぁ、それも何だけど、犬はないでしょう犬はっ。


「あのぅ……和花名さん?」

 和花名が対処を決めかねて、フリーズしたままでいると、背後で鈴七の小さいけれどはっきりとした声がした。

「……差し支えなければ……早く拾って差し上げて下さい」

「……?拾う……?って、この首輪?」

「いえ、その犬を……です」

「……は?」

 鈴七までが、意味不明なことを言い出して、和花名は軽く目眩を覚える。そしてそこで、思考回路が結論を叩きだす。この意味不明な状況から抜け出すのに、情けは無用だと。


「……いや私、どっちかというと、犬より猫派なんだよね。うん、だから、差し支えあるから、このわんちゃんは、拾えません。つ~ことで、ごめんなさいっ」


 そう言って和花名が頭を下げると、手に感じていた圧迫感がふっと解けた。


「そっか、残念」

 悠希はそう言いながら立ち上がり、そのまま自分でチョーカーを装着する。

「あのさ、馬鹿馬鹿しいの承知で聞くけど、何で首輪?」

「俺、犬だから」

 そう言って悠希は、無駄にキラキラとした笑顔を見せた。


「……」

その瞬間、重たい塊を抱え込んている胸が、何でだかきゅっと痛んだ。


――あ、いや見惚れた、だなんて、これは違うから……うん、違うから……


 心の底で生まれかけたさざ波を、なだめる様に軽く息を吸う。


「……だから、何で犬なのよ」

「そういうルールだから」

「ルール?」

「これと思い定めた、ご主人さまのお世話を誠心誠意行う忠実な番犬になります、みたいな?」

「番犬って……あんた、自尊心みたいなもんは無い訳?」

「どうして?自分の好きな人を全力で守るって、素敵なことじゃない?」

「……まあ……」


――モノは言い様だが。


「で、犬にして下さいって言って、その相手に首輪を巻いてもらえたら、晴れてその人の犬になれる。これはそういうルール」

 言いながら、悠希が首の輪っかをくいっと引っ張った。


「ちょっ……私、今断ったわよね?ていうか、首輪は私がつけた訳じゃないから、ルール適用外だよね?」

「うん。でも俺は、それでも和花名を守るって、もう決めてるから」

「は?」

「だから、断られても別に関係ないっていうか、さっきのは一応ルール通りに体裁整えただけだから。そりゃ、きちんと認めてもらって犬っていうのが理想だったけど」

「いや、そういうコト勝手に決められても困るんですけど」


「だから、俺は今日から和花名の犬」


 奴の主張する意味不明なルールとやらに、苛立ちを覚えながらも平静を装って言い放つ。

「……そうか、しかし、だ。残念だが、私は犬が嫌いなんだ」


 ところが、それに返された言葉は――

「大丈夫、邪魔にならないようにするから」


――って、こいつ、頭脳も犬並なのかっ!……いや。そういう問題じゃなくて。犬とか……犬……とか……


 まずい何だか頭痛がしてきた。

「わん」

「っ、やめ、懐くな、おバカっ」

 なんつ~か、シッポをブンブン振り回している幻覚が見える……ような気さえしてきた。


「だからっ、私はっ、犬が嫌いなんだってゆーとろうがっ」

「うん、でも。今日から俺は、和花名の犬だから」


――ニホンゴ通じなーい。会話噛み合わなーい。


 間違いない。こいつは確かに犬、だな。しかもっ、日本語も通じない程のバカ犬。


「人の話を聞けっ!」

 こちらの剣幕に、さすがの能天気犬のへらへらが止む。

「あれ?和花名、なんか怒ってる?」

「るっ!……犬とか勝手なこと言わないでよ。私、犬なんか大嫌い……大嫌いなんだからっ……勝手なこと……私はもう……あんな思い……したくない……のに……っ……」


 そう言った途端、否応なしに巻き戻る記憶。そして、また胸が締めつけられるような感覚に襲われる。


――や……この感じ……こんな時にまた……

息が苦しい……苦しい。


――苦しいよ……助けて……ゆう……と……


「大丈夫か?和花名っ?」

 呼びかけられる声に応じる余裕もない。

「……何か息……出来な……」


 全身に震えが来た。

 寒い――


 ああもう、私、やっぱり駄目っぽい。こんなことが親にバレたら、また家から出してもらえなくなるのに。遠退く意識の中、そんなことを考えていると、遠くで声が聞こえた。


『大丈夫、和花名は大丈夫だから、和花名なら大丈夫だから』


「え……」

 飛びかけた意識がその言葉に引きとめられる。体を温かいもので包まれたような感じに、心細さが消えていく。

「和花名っ」

 耳元で悠希の声が、和花名の名前を呼んた。

「……ゆぅ……き……?」


――あれ……じゃぁ、さっきのも、悠希?


 どうして悠希が、あの時の言葉と同じことを言うのだろう。

 訳が分からない。

 あの声は、悠斗の声じゃなかったのか。


「大丈夫か、和花名?」

「あ……うん……」

「立てるか?」

 そう聞かれて、さっきから空が見えていたのは、そうか自分は倒れているのだな、と、今更気づく。そして、自分が悠希に抱きかかえられている事にも遅ればせながら気づく。

「や、ごめっ……っくぅ……」

 慌てて体を起こそうとしたところで、間が悪く日差しが目に入り目眩を起こす。

「うん、和花名の大丈夫は、大丈夫じゃないんだって、良ーくわかった」

「え?」

 悠希の言葉の意味を考えるよりも先に、体が持ち上げられた。数秒遅れて、自分がどういう体勢なのかを理解する。

「うえぇぇっ!?……」


 お姫様抱っこ――


 これ、病み上がりの弱った体には、刺激が強すぎだろう。そんな事を思いながら、今度こそ間違いなく、和花名の意識は遠退いていった。

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