第6話 父と富士と新幹線(6)

新幹線のデッキは客室よりも薄暗い。その暗い中に立って、明るい客室を眺めた。小さな子供を抱いた母親が通路ぎわに座っている。その通路を挟んだ反対側の席から、白人の若い男が赤ん坊に手のひらをひらひらさせてあやしている。スマートフォンを見つめる若い女性。ビールを手にすでに赤い顔をしているサラリーマン。列車が走り出してもまだ荷物を棚に置こうと苦戦している若い女性。ザワザワした空気。客車の中は生気に満ちている。その一方、客車からあぶれた数人が暗いデッキの中に立っている。私は目を窓の外に向けた。品川を抜けて数分が経った。富士が見えるには後どれくらい走らなければいけないだろう。5時を過ぎてあたりは暮色を帯びている。赤みがかった風景は心もとない。富士が見える時間に間に合うのだろうか。無理かなと思った。列車はどんどんとスピードを上げて行く。それにつれて、次第に眠くなった。私は立ったままウトウトしていた。

「俊夫は富士山が見たいのか。」

後ろから突然声を掛けられて、私は驚いた。振り向くとそこに父が立っていた。グレーのスラックスに薄い緑のセーターを着た、写真の中の父だ。

私は周りを見回した。新幹線のデッキに変わりなかった。隣でヘッドホンを聞いている若者は、足でリズムを取っている。スマホを繰っているサラリーマンも何事もないよに過ごしている。父は私の横にしっかりと立っている。

「ど、どうしたの。」私はなんと言って良いかわからず、そう尋ねた。思えば少々間が抜けている。父は笑っている。まるで私がまだ幼かった頃家族で一緒に出かけた時のように、嬉しそうだ。

「富士山か、そうだな、連れて行っってやれてなかったな。」

私はまじまじと父を見た。

「見に行く約束してたっけ。」

私は記憶を辿った。しかし父はその問いに答えず、窓の外を見ている。外はすっかり暮れて、これでは見えないだろう。

「父さん、通帳、ありがとう。驚いたよ。ずっと貯めていてくれたんだね。亮介のぶんも預かったから、ちゃんと届けておくよ。」私は父に礼を言った。本来なら直接言えないことだから、こんな形でもよかったと思った。父はやはりニコニコしている。

「どうして一度も会いに来てくれなかったの。」と聞こうとして辞めた。父が私たち兄弟を忘れていたわけではない。それだけでいいと思った。だから私は父がいなくなってから後のことを一生懸命に話し出した。なぜだか忘れていたことが後から後から心の中に湧き出して来た。横の中年男性が、スマホから目を上げて私を見た。しかしあまり気にならなかった。

そう言えば、弟と二人で父を探しに行ったことがあった。駅前まで自転車で行った。そして記憶にあった、父が通っていた理髪店を外からのぞいた。パチンコ屋さんにも行った。本屋さんの雑誌コーナーも、一度連れて来てくれたことのある喫茶店にも行った。二人で一生懸命に探した。もう探す場所も思いつかなくなって、弟は声を出して泣き出した。私も泣きたかったけれど、必死で我慢していた。初めから、そんなところにいないことはわかっている人探しだった。結局、夕方暗くなった道を弟と二人で自転車を押して帰った。

「父さんたちが勝手に離婚なんかするからだ。」

私は拗ねている子供のように言った。やはり父は笑っている。私は子供の頃に戻ったように話した。田中さんを亮介と相談して叔父さんと呼んでいたこと。少年野球で地区優勝した時のこと。その時は補欠で試合に出られなかったこと。中学では野球部に入らなかったこと。弟入らなかったサッカー部出られなかった女の子によくモテたこと。仕事のこと。家族のこと。弟は勉強もよくできて、海外勤務していること。

話したいことは後から後から湧いて来て、とにかく夢中で話した。思い出しもしなかった父に話したいことがこんなにあったとは。

その時、父が窓の外を指差して「ほら、」と言った。私は窓の外に広がる暗闇を見た。すっかり陽が落ちた景色の中に、見えるはずのない富士が真っ赤に染まって立っていた。その裾野はどっしりとして広い。この揺るぎない安心感はなんだろう。真っ赤に染まった頂きの美しさはどうだろう。私は父を見た。父のの横顔にも富士の朱が差している。その光の中で父は絶対だった。子供の頃に父と見た富士をはっきりと思い出していた。それは本物の富士ではなく、父がもらって来たカレンダーで見た富士だ。そうだ、その時私が父にお願いしたんだ。富士山を見に連れて行って欲しいと。

父は覚えてくれていただろうか。父は何も言わず暗い新幹線のデッキに立って外を見ている。突然富士がかき消え、通過中の駅の蛍光灯がたったん、たったん、と過ぎて行く。もう富士は見えなかった。

それから私と父はあまり話さなかった。富士はほんの一瞬の景色だった。だがその一瞬は強烈に心に残った。それで十分だった。

私はもう大人に戻っている。父と話すことがなくて当たり前だと思った。話すことはなくても、父の想いはわかっている。そう思った。自分もやっと本当の父になれる気がした。

列車は京都を過ぎて、まもなく大阪に着く。

しかし父はこのまま列車に乗って行くと言い出した。ここに置いて行けと言う。

私は困った。それでいいのだろうか。父はどこへ行く気だろう。しかし父は頑なだった。もう、お前たちのもとに戻ることはできないという。それがけじめのつけ方だと。だからこのまま置いて行けと言う。

迷ったけれど、結局私は父の言う通りにした。

新大阪のホームに降りた私は、父を振り返った。もう父の姿はなかった。ただ、空き缶回収乗ってステンレスボックスの上に、真っ白な布に包まれた箱があった。スマホをいじっていた男もここで降りて、階段に向かって歩いている。ヘッドホンした青年が、同じ姿勢のまま立っていた。

警笛が鳴り響き、扉が閉まった。

私はじっと父を見送った。

遠ざかって行く新幹線の赤いテールランプを、私はただただ見送った。父と本当の別れだと思った。赤い富士を見ていた父の横顔が脳裏にくっきりと残っていた。

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