第1話 父と富士と新幹線(1)
東京駅はひどい混雑だった。事故で列車が遅れているという。切符売り場は長い列ができ、駅員は対応に追われている。私は4時15分発の指定席券を持っていた。だからハンドマイクで列車の遅れを告げている駅員に切符を見せて尋ねた。しかしは遅れは相当なもので、その列車は7時過ぎにやっと出発できるという。私はがっかりした。仕事は明日も休みを取っている。父の葬儀も一通り済ませた。急ぐ必要は無かった。ただ、帰りの新幹線から富士山を見たい取って思っていたのだ。しかし秋の陽は思ったより早く、あたりはすでにすこし暮れ色を帯びつつある。柔らかい日差しがホームに斜めに差し込んでいる。停車しているのぞみが、かすかに舞う光の中で淡く色づいている。 できれば少しでも早い列車に乗りたい。静岡あたりまでは少し時間がかかるだろう。
結局、指定席券を無駄にしてもいいか、という結論になった。少しもったいないが仕方ない。しかしやっぱり自由席はいっぱいで、とても座れる状況ではない。通路に立っているのも落ち着かない。そこで2号車後方のデッキに目をつけた。そこは3号車との通路で、空き缶回収のダストボックスがある2畳くらいの空間だ。他にも私のように立って帰ることになった3人ほどがデッキに陣取っていた。私はイヤホンをして小さくリズムを取っている若者に手で挨拶をして通り、空き缶回収ボックスの前に立った。手にしていたボストンバッグは床に置いた。そうして手にしていた父の遺骨をステンレス製のボックスの上にそっと置いた。遺骨は刺繍の入った白い布に包まれている。
東京へは父の葬儀のために来た。父といっても小学生の頃父母が離婚し、それ以来。ほとんど会ったことのない父である。離婚した時、私と弟は母のもとで 慣れ親しんだ大阪に暮らすこととなった。父は転勤で千葉へ行った。それ以来定年後も千葉に住み続けていた。晩年は、勤めていた会社が経営するガソリンスタンドで夜間のアルバイトをしながらの生活だったらしい。それも五年ほど前の話だ。弟もとで私も父と連絡をとってはいなかった。嫌っていたとか、恨んでいたというわけではない。ただ無関心でいただけだった。父からも連絡は一度もなかった。だから、はっきりとした居場所も電話番号も知らなかった。田中さんに気を使っていたところもある。田中さんとは母の再婚相手である。父と離婚後2年ほどで母は再婚していた。今から思えば、そもそも離婚の原因はその辺りにあったのかもしれない。ただ、だからと言って私も弟も、テレビドラマのように再婚相手に強く反発したりといったことはなかった。結婚式を挙げるわけでもなく、ファミレスで食事しながら「今日からいっしょにくらします。」と挨拶をされただけだ。
その夜、風呂から出て来て扇風機の風で頭を乾かしてながら、小学2年の弟が私に聞いてきた。
「お兄ちゃん、田中さんのことお父さんて呼ばないとダメかな。」
私は答えに困った。同じことを自分も考えていた。
「そやなあ、でも急にそんな風に呼ばれへんやろ。」
「お父さんともう会われへんのかな。」
父が出ていってもう二年が経っていた。その間、一度も父と会うことはなかった。
それでも父は父である。弟にすれば、記憶そのものが曖昧になっているようだが、それだけに父は優しく、いい父親像が彼の中で出来上がっている。
結局私たち兄弟は田中さんのことを「叔父さん」と呼んだ。当の田中さんもそれでよかったようだ。急に小学生の子供が2人もできるのだ。向こうも戸惑っているだろう。それに田中さんにも別れた奥さんに女の子がいるそうだ。田中さんのほうは、時折その子に会っているようだった。何度か写真を見せてくれたこともある。それ以来ずっと田中さんは叔父さんのままだ。
田中さんは、会社員で経理をしていた。真面目で物静かなやさしい人で、叱られた記憶もない。もっともお互いどこか気を使って生きてきた結果、怒らせるようなことも、腹を立てることも無かったのだ。思春期の難しい時期も口喧嘩一つすることはなかった。行儀の良い、少し他人行儀な、それでも幸せな家庭だったと思う。
次第に、家族という関係の中に父が立ち入る場所は無くなった。本当は父のことを忘れたわけではなかったが、兄弟の間でも父のことを口にすることは無くなっていった。それに、大人の事情はわからなかったけれど、父からも何の連絡もなかった。そうして何の連絡もないまま、私は35歳になった。
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