024 百年の孤独

それから俺達は千鳥足のまま、しおかぜ街の迷路みたいな路地を遊びつくした。かくれんぼやら、鬼ごっこやら、影ふみなんて他愛もない遊びをして、俺達は小さな子供のようにはしゃいだ。空き家の中を探検したり、石蹴り勝負をしたりしながら、どこまでもどこまでも続く路地を、俺達は何週も何週も駆け抜けた。終わらない夜を、歌うように笑い転げた。アルファルドを笑っているあいだは寂しい事は全部忘れられた。二人でなら、どこへだって行けるような気がした。


「なあ、アルファルド。この路地はな、不思議なことにステラとかいう奴の魔法にかかっとるらしくてな、何べん行っても同じ所に戻ってくるらしかやん。でも、俺、お前さんと二人でなら、この迷路ば突破出来る気がしてきたばい」


 坂道を見上げる。俺はもう、この階段の向こう側を見据えることに恐怖を感じなくなっていた。酒の力なんかじゃない。アルファルドという自分の分身のような友達が、心の内に秘められた孤独という感情を認めてくれて、一緒に居てくれるからだ。やけに視界が鮮明だった。この長い迷路の先が今の俺になら見える気がする。


「よっしゃ、アルファルド! どっちが先に頂上の閃光寺まで辿り着けるか、競争しようや」


アルファルドは黙ったまま息を切らしていた。はしゃぎ回りすぎたのか、何か考えごとでもしているのか、アルファルドは答えないままだった。気のせいだろうか、瞳がまた、少し揺れた気がした。


「どげんしたとね? あ、さてはお前さん、俺に負けるんば、ビビッとるっちゃろ!」

“……八鹿みタイナ酔っぱライのオッサンにダケは負ける気がシナいネェ”


やはり気のせいだったか。アルファルドは殊勝な声でそう言ってみせた。


「おう、言ったけんな! よし、せっかくやけん、なんか賭けるか!」

“……じゃあ、ボクが勝っタラ、ボクとズット友達でいてクれルッテ、約束シテヨ”

「そげなん、勝とうが負けようが、約束しちゃるが」


俺はアルファルドの肩を叩いたが、アルファルドは石のように硬い表情のまま、ただただ長く続く坂道を見上げて、声を低くして言った。


“ダメだヨ”

「アルファルド……?」

“コレハ、勝負ナンダ。ボクが、自分デ、自分の力デ勝ち取らなきゃ、意味がナイんダ”


彼の言いたい事が俺にはなんとなく理解できた。きっと彼なりに決心をしていることがあるのだろう。自分の力で勝ち取りたい何かがあるのだろう。その意思は、志は、どんな鉄よりもずっと硬く、鋭いものなんだろう。俺は静かに頷いた。


「じゃあ俺が勝ったら、今度は『うなぎのねどこ』でメシに付き合え! あそこの太刀魚の刺身は特段美味い!」

“太刀魚のお刺身も食べてミタイところダケド、デモ、絶対に負けヤしナイヨ!”


その一言を合図に、俺達は駆け出した。気が遠くなるほど長い長い階段を俺たちは駆け抜けた。後ろは振り返らない。前だけを見て。息は絶え絶え、足も、手も、千切れてしまいそうなぐらいに全力で、それでも俺達は足を止めたりはしなかった。心の中にアルファルドの苦しそうな息遣いが流れ込んでくる。必死にもがくように、意思に導かれるように走り続けた。これが、スピカの言う魂の共鳴するほうへってやつなのかもしれないな。風を切る中で、そっと、そんな事を考えた。夜の闇を切り裂くように、光のほうを目指すように、ただ一心に駆け抜けた。俺達は確かに、あの歌のように泥臭くて、汗まみれだった。


境内がもうすぐそこまで見えている。俺達は後少しでこの坂を登り切る。アルファルドも、俺も、最後の力を振り絞って、一滴だって力を残さないようにして、最後の階段を踏みしめた。


それは本当に同着のように思えた。しかし、たったの一段だけ、アルファルドの方が早かった。そのほんの一瞬、青白いアルファルドの肌が発光したように思えた。


“——ッ!”


俺もアルファルドも石段の上に倒れ込む。もう立てない。全身が痛い。一言だって言葉が出ない。足も手も、自分のものじゃないみたいだ。体全身で呼吸をする。心臓の鼓動が速い。寝転んだまま、俺達は夜空を見上げた。路地裏で彷徨っていた頃が嘘みたいに、月の光がずっと近く、大きく、明るく輝いていた。


***


閃光寺から見下ろすしおかぜ街は、形容し難いぐらいに美しかった。

港沿いの街灯が等間隔にオレンジ色に輝いている。瀬戸内海の上に架かるしまなみ海道。波風のひとつも立っていない静かなしおかぜ水道。この街をなぞるように続いている細長い線路。

呼吸をなんとか整えた俺達は、境内横の大きな岩の上に隣り合わせで座って、ジオラマみたいな街並みを見下ろした。


“……綺麗ダネ”

「ああ。しかし驚いたな。本当にあの迷路のごたぁ路地ば突破できるとは。アルファルド、やっぱりお前さんは凄い奴やが。まるで俺の心を全部見透かしとるごたあ。ここまで辿り着くことが出来たんは、きっとお前さんが側に居ってくれたけんやろうな」


俺はアルファルドを向いて言った。アルファルドは相変わらず強張った表情で、虚ろな瞳で俺を見つめていた。


「約束は、約束だ。俺はずっと、お前さんの友達で居り続けるよ」


ま、やけん友達としてメシ付き合えよ。どっちが勝っても美味しい勝負って良かね、と俺は笑った。柔らかい夜の風が俺達の間を通り過ぎた。汗ばんだシャツを揺らして、ひんやりと涼しくて心地がいい。アルファルドは、ためらいがちに俺の心の中に語りかける。


“八鹿……ボク、ボク実ハネ”

「ああ、うん。そういやまだ聞いとらんかったな。お前さんの名前」

“……な、名前?”


被さるように放った俺の言葉を、アルファルドは拍子抜けな声色で聞き直した。この坂を登りきった時、景色は一層鮮やかに塗り替えられて。俺は全てに気付いたんだ。これは夢なんかじゃない。アルファルドは幻覚でも、俺が創り出した友達でもないってことを。彼が何者なのか。どうして俺の元に現れたのか、本当は、なんとなく俺には分かっていたんだ。


「そう。アルファルドとかいうヘンテコなあだ名やなくて、本物の名前ば言おうとしとるとやなかとね? だって、友達ってのは、本当の名前で呼び合うとが基本っちゃけん」

“ボクの、本当ノ、名前……”


俺はアルファルドの悲しい魂に、アルファルドは俺の寂しい魂に、まるで共鳴し合うように、きっと惹かれ合うように出逢ったのだろう。


“ボクの名前ハ、古川奏ふるかわ かなで。もうズっと、誰にもそう呼ばレテはいないケド”

「良し。じゃあ、俺は今日から、そげんやって呼ぶ。お前さんの名前を誰ひとりとして呼ばんくなったって、俺がお前さんの名前をちゃんと、呼んじゃるけん」


俺は深く息を吸った。もっと酔い潰れていれば良かっただろうか。嫌なぐらいに痛いぐらいにこれから起きる事が手に取るように鮮明に予感できた。ひどく感覚が研ぎ澄まされている。人の心に触れる事は、恐ろしい事なんだろう。それでも俺は、たったひとり、友達として、彼がそうしてくれたように、彼の心の内を救いたいと、心からそう思ったんだ。


「な。良かろ、奏」


名前を呼んだ瞬間だった。俺達の座っていた岩は小さな粒状の砂となった。サラサラと足元が流れる水のように高台から地上へと流れていく。はじめて、アルファルドの口元が微かに動いた気がした。俺は目を閉じて、砂時計の底に沈んでいくように、夜の街へと落ちていった。



✳︎✳︎✳︎



 俺のからだは、鈍い重力の中でゆっくりと沈んでいった。俺は、恐る恐る目を開けた。そこは青い海の中だった。俺はたったのひとりぼっちで、果てしなく続く海の底へと落下してゆく。呼吸は不思議と苦しくなく、だけどほんの少しだけ、喉のあたりが不自由な感じがした。俺は抗う事もなく、沈みゆくからだをただ青に任せて、遠のいてゆく柔らかな光を見つめているだけだった。


 もうどれぐらい沈んだのだろうか。白、青、群青、そしてゆっくりと暗闇になるほんの少し前。俺は自分の身体が形を成していないことに気付いた。この感覚。確かレグルスの時もそうだった。だとしたら、やはり俺は今、アルファルドの心の中に潜り込んでいるんだろう。手は、足は、髪は、どこ行った。泡がぶくぶくと青を揺らす。そうだ。これは三人称だ。夢を見るとき、自分自身を客観的に見ているようなあの感覚だ。水面はもう随分と遠く、今にも消えてしまいそうなぐらいの脆い光が、静かに揺れていた。



 気付くとそこは、真っ白な部屋だった。白い壁、白い棚、白いベッド。何もかもが気分が悪くなるぐらいに清潔すぎる場所だった。


 青年はそこに硬い表情のまま横たわっている。喉から細い管が痛々しく伸びて青年は機械のようなものに繋がれていた。ピッピッと、心臓の鼓動に合わせて機械が玩具のような音で等間隔で鳴り響く。


 青年は人気者だった。1日に、たくさんの人が青年を訪問しては、ベッドの横で涙を流した。青年は数えきれないぐらいの沢山の人達に愛されていた。髪の長い美しい恋人、お金持ちそうな紳士、真面目そうな職場の同僚、背筋のぴしっと伸びた上司、物腰の柔らかそうな部下、やんちゃそうな学生時代の友人達、恩師、兄弟、両親。何百人、何千人が青年の元を訪れては、花束や色紙や折り鶴なんかをベッドの側に置いた。青年にはたくさん友達がいた。それは端から見ても良く分かった。


誰もが青年の回復を祈ったが、青年はいつまで経っても目を覚まさなかった。白い髭を生やした医者が、重たい表情で両親に言った。「意識の回復は見込めないでしょう」両親の泣き崩れる声。悲鳴のような、ケモノのような恐ろしく甲高い叫び声が響く。青年はちゃんと聴こえていた。意識がなくたって、心は、感情は、魂は、はっきりとそこに在り続けた。


両親の悲しみはいつしか不安へと移行していた。「回復の見込みが無いのにこれ以上の延命治療を続けて一体何になるの!」「そんな事を言うな、奏はまだ生きているんだ!」「じゃあいつまでこんな事を続ける気なの!」「お前は奏を愛していないのか!」「愛しているからこそ早く楽にしてあげたいんじゃないの!」「そんなのはエゴだ!」「あなたこそ!奏が延命を望んでいるかなんて分からないじゃない!」両親は青年のことでよく喧嘩をするようになった。止めてよ。止めてくれよ。僕はここにいる。ここにいるのに。手を握ってよ。頭を撫でてよ。優しく抱きしめてよ。青年の声は届く事なく、二人の怒声にかき消された。


いつしか両親の足取りも重くなり、日に日に見舞客も減り、ついに青年は独りぼっちになった。百人も、千人もベッドの横に寄り添って、手を握ってくれたのが嘘みたいに、青年の病室はがらんとしていた。花は枯れ、色紙は色褪せ、カラフルな千羽鶴は病室の空調に静かに揺れるだけだった。


それからは、地獄のような毎日だった。たったの1分が経つのに1時間はかかる気がした。褥瘡にならないように、体位変換をしてくれる名前も知らない看護師の手の温もりが、青年にはあまりにも虚しかった。誰が青年の事を、心から想い続けた事だろう。誰が青年の事を、心から愛して続けただろう。青年はひとりぼっちだった。百人も、千人も青年の元に訪れたというのに、本当は、友達なんか、たったの一人だっていやしなかった。あれらは全て、人の不幸に巣食うただのハイエナだった。


途方も無いぐらいの長い時間を、果てない時間を、青年はたったの一人で過ごした。何もできないまま、どこへも行けないまま、ただ時間が過ぎていくのをじっと待つだけの生。それは死ぬよりずっと苦痛だった。死んだ方がマシだった。死んでしまいたい。そう思った。殺してくれ。心からそう思った。


自分の命を繋ぐものは、喉から伸びたたった一本のこの管なのに、青年は指ひとつ動かすことができなかった。動け。動けよ。青年は願った。動け、動け、動け動け動け動け動け動け、動け!一瞬でいい!そのたったの一瞬だけで、総てが終わるのに!長いこの孤独に耐えるだけの強さは、僕は持ち合わせてはいない。どうか、殺してくれ。だけど、それは叶うことの無い願いだった。


それから三年間、青年はひとりぼっちで過ごした。青年にとってその時間は、三年間なんてものじゃなかった。百年。百年の孤独だった。それはまるで、砂漠を彷徨うようだった。大海原を漂うようだった。百年もの時間を、誰と話す訳でもなく、笑う事も泣く事も出来ないまま、ただただ、静かな死を願いながら、ひとりぼっちで生きて、いつか来る終わりを待った。

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