022 ただ耳鳴りの中へ

 しおかぜ街は海に面した坂の街だ。坂を上り切ったところに閃光寺というこの街を一望できる小さな寺がある。スピカは閃光寺に向かう長い長い階段と路地の入り組んだ道をその歩きにくそうなパンプスで弾むように軽々と登って行った。続いて木津、みずたまも、急勾配のその階段を飛び越えていく。どういう訳か、まるで俺だけが、この街の重力に足を捕まれているような感覚だった。なんだ、酒を飲んでトランス状態になれるのは戦闘中だけなのか。足取りが重たい。呼吸が乱れる。


 しばらくスターゲイザー一行は黙々と坂道を登った。閃光寺ロープウェイ乗り場の横の辰巳神社の横の抜け道から、細く続く舗装されていない道を俺達は一列縦隊になって歩く。地元の水産高校の寮を通り過ぎ、若者達が営む空き家を再生させたカフェの連なりを抜け、木々の鬱蒼と生い茂った細道をゆく。五重の塔のような謎の建物や斜面に不安定に立ち並ぶ墓地を歩き、俺達は古民家の間の路地に潜り込んだ。


 古民家が続く路地を歩いてからもうどれぐらいが経っただろう。そういえば、ロクネンが言っていたように、今までのステラは必ず集団で出現していたと言うのに、今回は一人たりともステラを目撃していない。木津もみずたまも、最初は武器を構えて慎重に進んでいたのに、今はもうすっかり武器を仕舞い込んで無防備に歩いていた。


 青い瓦屋根の古民家の前を通り、しおかぜ小学校の体育館の見える坂を下り、消化井戸のある廃アパートの横の階段を登る。その後でまた、先程と同じような青い瓦屋根の古民家の前を通り、しおかぜ小学校の体育館の見える坂を下り、消化井戸のある廃アパートの横の階段を登る。その後もまた青い瓦屋根の古民家の前を――。


「……なんかさ、いや、気のせいならそれでいいんだけどさ」


 ついに耐え切れなくなった木津が沈黙を破った。


「おれ達、さっきから、ずっと同じ所歩いてねえか?」


 よくぞ言ってくれましたという顔でみずたまと俺は木津を見上げた。スピカは月明かりを後ろに浴びながら、俺達を見下ろしたまま静かに頷いた。夜の風に長い髪がふわりと揺れる。


「気のせいではありません。とても近くに“魂の共鳴”を感じてはいるのですが、不思議な事にはっきりとその場所が特定出来ないでいるのです。おそらく、この堂々巡りステラの仕業ではないかと」

「ステラの仕業?」

「ええ。これはステラの魔法だと思うのです。つまり、私達は今、永遠に続くこの迷路に閉じ込められているのです」


 どうりでいつまで経ってもどこまで歩いても細長い路地が続いている訳だ。元々迷路みたいな街なのにこれ以上ややこしくしてくれるとはとんだステラが居たもんだ。木津は少し考え込むようにして言った。


「闇雲に動いたんじゃ体力が持たないな。それがステラの狙いか? どうしたらいいんだ」

「ステラの気配を感じている事は事実です。あと少しだけ階段を登ってみましょう。それでも進展がないようであれば、何か別の策を練るのはどうでしょうか」


 木津とみずたまは頷いて、白いロリータ服を翻すスピカの後を追う。一段、一段と階段を登るたびに、呼吸が乱れる。何故皆はそんなに軽々と登っていく事が出来るんだ。まるで重力を無視しているように。俺の身体はこんなにも重たいのに。階段を少し見上げる。あ。嫌な感じがする。これは、アレだ、俺がいつも酒で揉み消している感情だ。チロチロと小川のようにその感情が俺の心の中に流れ込もうとして、俺の呼吸はますます乱れた。


「……ちょ、ちょっと休憩ばせんか?」

「八鹿のおじちゃん、おんぶして連れてったげてもいいよ」

「どっかで聞いた台詞だなそれ」


 みずたまが、階段の上から俺を見下ろしてにこにこと笑う。木津が抱っこでもいいぞ!と笑う。なんだか俺にはそれが随分遠くに感じた。あれ。おかしいな、たったの数段の差の筈なのに、スピカや、木津や、みずたまの居る所がずっとずっと遠くに感じる。視界がぐらりと揺れる。いかん。分かってはいたが飲み過ぎだな。でも、じゃあこの押し潰されそうな不安を一体どうやって忘れたら良いっていうんだ。「八鹿が休憩したいって!」と遥か前方を行くスピカに木津が声を投げかける。それすらも語尾が波紋のように反響して聞こえる。


 おかしいな。頭が痛い。目の前がぐらぐらする。頭の中で銅鑼が鳴る。脳みそを誰かに鷲掴みされて、揺さぶられているみたいだ。身体が重たい。甲高い耳鳴りが頭の奥に響く。背中に冷たい汗が流れる。果てしなく続く坂道と迷路のような路地を俺は見上げた。ああ。人生だ。眩暈がする。スピカも、木津も、みずたまも、ただ真っ直ぐにその階段を、軽々と登っていくのに。気が狂いそうだ。どこまで続いていくのかも分からない、この迷路を。一歩踏み外せば直ぐにでも奈落の底に堕ちてしまいそうな、誰かが誰かを蹴落としてまで登りつめようとする坂を、この迷路を、一体俺はどこまで歩き続ければ良いんだ。


 はっとして目の前を見上げた。誰も居ない路地がそこには真っ直ぐ伸びていて、俺は一気に焦燥に駆られた。迷ったか?それとも置いて行かれたのか?スピカは、木津は、みずたまは、俺を置いて、先に行ってしまったのだろうか?不安が込み上げる。独りぼっちだ。俺は急いで片手に握っていた酒瓶を空けた。焼酎を煽る。


 喉が焼けるように熱い。俺にとって酒はもはや薬やお守りみたいなもんだった。俺は立っていられなくなって古民家横の段差にしゃがみ込んで頭を抱える。耳鳴りが遠のいてゆく。そうだ、これは夢か、あるいは幻覚だ。だから安心していい。夜空を見上げる。狭い路地の間から、月明かりが優しく差し込む。カチカチに凝り固まっていた気持ちが柔らかくなっていく気がする。ああ、ステラの負の魂が月の光りで浄化されるっての、少し分かる気がするな。身体が軽くなっていくみたいだ。俺は静かに眼を閉じた。

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