018 Home Sweet Home
「アタイの大事なもの? 知らないワヨ、そんな小汚い写真。アンタ何の話をしているノ?」
「あなたが月光ステーションで降りたのは、負の感情でいっぱいだったからじゃない」
みずたまはお構い無しに言った。レグルスが瞳を大きく開く。なんだ?月光ステーション?一体なんの話をしているんだ。レグルスは何かを思い出したように真っ青な顔で頭を抱えた。ぼろり、ゴーレムの右腕が崩れ落ちた。
「……違ウ。違ウ、違ウ、違ウ、違ウ! そんな筈はナイ! 憶えていナイワ! アタイが覚えているノハ、ただただ負の感情。憎シミ、悲シミ、怒リ、苦シミ、そういう、ドロドロとした感情ダケヨ!」
明らかな動揺だった。ああ、そうか。そうだ、間違いない。今、目の前で、ガラクタの中で苦しそうにもがいているのは、この少女の魂だ。みずたまが真っ直ぐな目でレグルスを見つめたまま、一歩、また一歩、歩み寄る。その度に、レグルスは怯んだような顔になり後ずさった。
「違う。あなたは負の感情の塊なんかじゃない。それでも、あなたが月光ステーションで降りたのは、この写真のおじいさんの魂を探していたからでしょ?」
はっきりとした口調だった。月光ステーション。そうだ。深海のような夜の中で、微かに揺れる記憶の中で、少女の魂が星の光のようにきらきらと輝き流れたのを、おれは見ていた。彼女は願っていた。途方にくれるような真っ暗な夜の中で、ただ一人、ぐちゃぐちゃに交差する感情の中で、ただひとつ、その願いは光った。もう二度と逢えないその人に、ただもう一度、名前を呼んでもらいたいと、ただそれだけを願って、その魂は輝きを纏って、夜の闇を切り裂いたのだった。
「ウ……ァ……ア゛ッ……!」
レグルスは全てを思い出したように、頭を抱えたまま、瞳を大きく開いた。残された力を振り絞ってみずたまに鉄の爪を向けたが、それは届くことなくほろほろと砂のように崩れ去った。息は絶え絶え。肩はぶるぶると震えている。さっきまでの殺気が嘘みたいだ。パチッ、パチッと、火花が散るような音を立てながら、レグルスの感情が弾ける。ガラクタのゴーレムが、おれ達の後ろでばらばらと形を崩した。
「あなたは、おじいさんが負の感情を抱いたまま死んでいったと思った。おじいさんを捨てて、酷い言葉をぶつけて、家を飛び出したあなたの事を、おじいさんは恨んでいると思った。負の感情を持ったまま死んでいった魂は天国には行けないから、だから月光ステーションで降りれば、またおじいさんに会えるんじゃないかって。そう思ったんでしょ?」
随分と饒舌だった。まるで別人みたいに、澄んだ瞳で、みずたまは言葉を並べた。
「でもね、おじいさんはきっと、月光ステーションで途中下車なんかしていないよ。だって、おじいさんは、負の感情のまま死んでいってなんかないもの」
「……アンタなんかニ、アタイの何が分かるノヨ!」
「分かるよ」
弱々しく反論するレグルスに、みずたまはそれでも真っ直ぐに言い放った。頬から真っ赤な血が滴り落ちる。いつものあのとぼけた雰囲気はどこにもなく、何かもっと、ずっと強い感情にでも取り憑かれたみたいな表情を浮かべる。みずたまは、写真を優しく撫でて埃を払った。
「だって、あなたと話している時のおじいさん、とても優しい目をしていたんだもの。それがたとえ、あなたの事が分からなくなってしまっても、あなたにどれだけ酷い言葉をぶつけられたとしても」
ボロリ、泥だんごを潰したみたく、レグルスの右腕が崩れ落ちた。みずたまはそれでも構うことなく続けた。
「あんなに優しいこころのそばで育ったあなたが、宝物のように大事に育てられたあなたが、どうして負の感情の塊だって言えるの?」
「違ウ! じいじハ、アタイのことナンカ、本当はどうだってよかッタ! 引き取ったのダッテ、ガラクタを拾ってくるのと一緒! 可哀想だと思ってやったことデショ! そんな偽善にまみれた愛情なんかクソ喰ラエ! アンナ! ガラクタミタイナ! 毎日! 本当ニ……ッ!」
レグルスは言葉に詰まった。ぼろり、今度は左腕が砂のようにサラサラと落ちて、頭を抱える両腕を失ったレグルスの表情が露わになった。所々に亀裂の入った顔。おれ達は誰一人ととしてそのみすぼらしい姿を笑ったりはしなかった。
「本当は、ずっと探していたんだよね」
「違ウ」
「本当は、ずっと後悔していたんだよね」
「違ウ……」
「おじいさんのこと、本当は、大好きだったんだよね」
「ヤメテ!」
「止めない!」
みずたまは、強く、真っ直ぐに、言い放った。
「おじいさんとあなたの大切な思い出を、ガラクタなんて言わないで!」
レグルスはハッと顔を上げた。亀裂の入ったボロボロの顔を、ひどくしかめて、歯を食いしばって、それでも、耐えきれず、ぼろ、ぼろ、と大粒の涙がレグルスの頬を伝った。涙を拭う手もなく、流れるままにその雫はぼたりぼたりとゴミ屋敷を濡らした。
「……ダッテ、ダッテアタイ、あんなに酷い言葉をぶつけタンダ。じいじだってキット、アタイのことナンカ」
みずたまは、首を振って、もうなんの力の残っていないレグルスに歩み寄った。
「おじいさんはきっと分かってたよ。誰よりも、何よりも、あなたが傷付いていた事。あなたが、ちゃんとおじいさんの事を大好きだった事。おじいさんは、きっとーー」
言葉をつぐんだ。みずたまは震える手を握りしめたままレグルスから目を逸らした。あんなに饒舌だったのに、どうして。スピカが、みずたまの肩をそっと撫で、その言葉の続きを代弁した。
「おじい様は、きっと幸せでした」
その言葉を聞いた瞬間、レグルスは淡い輝きを放った。青や、白や、緑や、橙なんかのいくつもの淡い光が、レグルスの胸のあたりからぽうっと浮かび上がっては、くるりくるりと踊るように彼女の周りを飛び、割れた窓ガラスから零れる月明かりへと溶けていった。
もういなくなってしまった人が幸せだったかどうかなんて、誰にも分かるはずがない。それでもみずたまがそれを言葉にしようとたのは、少女の心の中で、おじいさんの心さえも、感じ取ったからだろう。スピカがそれを言葉にする事ができたのは、きっと月光ステーションでおじいさんが降りなかった事を知っていたからだろう。
「アンタ達ッテ、やっぱり変わっッテル」
「……レグルス」
割れた窓ガラスから零れる月明かりを浴びて、レグルスの感情が青白い光を帯びて蒸発してゆく。憎しみ。怒り。悲しみ。 嫉妬。孤独。段々と柔らかくなってゆくその顔をおれ達に向け、レグルスは言った。
「きっと、アタイの魂がアンタ達に共鳴したノハ、アンタ達が酷く、神様に似ているカラネ」
「あたしたちが、神様に……?」
レグルスは小さく頷いた。ぼろり、今度は片足が崩れる。
「神様ハネ、アタイ達ガもう苦しまなくて済むヨウニ、月光ステーションをお造りになったのだと思ウ。ダケド、七年前の七夕。別の神様が突然現レテ、七夕の短冊に願いを込メタ。強イ強イ、負ノ感情を纏ッテ、神様はコノ世界の終焉を願ッタ。アマリニも身勝手で、欲望に塗レタ、コノ街の夜を終わらせる為ニ」
胴と頭だけになってしまっていたレグルスは、胸で浅く呼吸をする。その苦しそうな姿を、おれはもう直視出来なかった。全ての負の感情を浄化したレグルスは、穏やかな口調で言った。
「……ネェ、アンタ達なら、神様の事、救ッテあげられるカモネ」
スピカは、一歩前に出た。白いレースをなびかせ、両手を広げたかと思うと自分の胸の前でそっと手を合わせる。それは、彼女が月光の魔法をかける時の仕草だった。スピカの細い指の隙間から、少しずつ青白い光が零れる。おれは咄嗟にスピカの肩を掴んだ。
「スピカ、待てよ、だって、こいつもう……」
「私の中の名もなき感情が、こうしろと、叫んでいるのです」
そう言うと、スピカは、レグルスを抱き上げて、その胸に月の光のかざした。その時だった。割れた窓ガラスからふわりと潮風が入り込んで、思わずおれは目を閉じた。百合のような甘い匂いがして、そっと目を開けると、そこはゴミのない、綺麗に整頓されたあの六畳間だった。
——泣かないで、香夏子。
それは青白い輝きを纏った光だった。月明かりが窓から差し込み、次第にそれは形を成した。腰の曲がった、白髪の老人。困ったような顔で、その人は優しく微笑んで、四肢のないレグルスを抱きしめた。
「……じい、じ?」
レグルスは、泣きながら笑った。天真爛漫な、三つ編みの、前歯の抜けた少女の顔で、あの日、「じいじ大好き!」と言っておじいさんに抱きついて、転げて笑った、幸せな日々の表情で、レグルスは笑った。
「ずっと会いたかった、ずっとごめんねって、言いたかったの。じいじ、あのね、じいじ……」
再び、潮風がどこからか吹き込んだ。ネガフィルムをかざすように、短編映画集のように、二人の思い出が、パラパラパラとおれの心に流れ込んだ。おじいさんと少女が出会った日、一緒に卵焼きを作った日、肩もみをした日、テストを褒められた日、遊び疲れた少女を、曲がった腰でおんぶして帰った日。綺麗な、綺麗な夕暮れの中、手を繋いで歩いた日。
「じいじ、大好き!」
彼女の言葉と共に、きらきらと光を放った。それは息をのむほど美しい、輝きだった。幸せそうに笑って、二つの魂は、月の明かりに静かに溶けていった。
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