009 サイレン
夜の校舎は月明かりに照らされてぼんやりと霞んで見えた。はぐれないように、あたしはお兄さんに駆け寄った。柔らかそうな金髪、緑のピアス、鋭い瞳、触れたら溶けて消えてしまいそうな、どこか寂しさをまとった後ろ姿。あたしがなんとなく手を伸ばしたところで、お兄さんが気が付いて振り返った。
「なんで付いてくんだよ」
「おにーさんひとりじゃ心細いかなぁって思って」
なんにも言ってないのに「おれは幽霊なんか怖くないぞ」と虚勢を張りながらお兄さんはすたすたと歩く。あたしは頭に両手を乗せて影で目を作ってみせたが、お兄さんは相変わらず怪訝そうにあたしを見て「ぜってーやんねー」と笑った。あたしは持て余した指をくねくねと動かして、ひとつ目は、虚しくまつげをなびかせた。
「あの、ジャングルジムの人、綺麗な人だったな。でも良かったよ、人がいて。おれ、実はこの世界から人がひとりもいなくなったんじゃないかって思ってひやひやしてた」
「でもあのお姉さん、ちょっと不思議だよね。こんな夜中にひとりでジャングルジムにいるんだよ、ロリータ姿で。もしかして人じゃなかったりして」
「……やめて」
お兄さんがか細い声で呟いた。しばらく沈黙の中を二人で歩く。あたしは思い出したように声を上げた。
「ねえ、すっごいこと教えたげよっか!」
「もう怪談はいいぞ、あきた」
「ふふ、違うよ。実はね、この小学校、あたしの母校なの」
卒業記念にみんなで描いた壁画の横を通る。ピーターパンと、ティンカーベル。その後ろに6ー1組のみんなが続いている。その群れの中にあたしも居て、満面の笑みで夜空を飛んでいる。ネバーランドが本当にあったのなら、あの頃のあたし達は大人になれないまま、どこかにいるのだろうか。
「もっとすごいこと教えてやるよ」
「なあに?」
「おれ、あんたの先輩」
不敵に笑うお兄さんを見て、途端に嬉しくなってあたしは目を輝かせた。確かにこんなに小さな街だ。母校のひとつ被ったところでなんの不思議もないはずなのに、あたしはまた一つお兄さんとの共通点を見つけては胸が高鳴った。
それからあたし達は、体育祭の予行練習で必ずバット割りを披露する体育教師のこと、3階の南奥のトイレの花子さん伝説のこと、事務のおばさんがロッテンマイヤーさんに似ていて怖かったこと、たくさんの懐かしい話で盛り上がった。
「わあ見て、飼育小屋! 懐かしいなあ、あたし飼育委員だったの。おにーさんは?」
「おれは確か美化委員だったかな。ああそうだ、ほら、そこの花壇にパンジー植えようって企画したのおれらの代なんだぜ。案外続いてるもんだな」
7年前、あしげく通いつめた懐かしい飼育小屋だ。飼育委員会のみんなでカラフルに塗り上げた小屋の周りの柵の塗装は、所々はげていて見栄えが悪かった。雑草も生い茂っており、あたりは鬱蒼としていた。
まただ。また、呼吸が乱れる。心臓から手の先にかけて流れる血が、どこか冷気を帯びる。あたしは恐る恐る柵の扉を開き、中に入った。あの頃の活気がまるで嘘みたいな衰退の仕方だった。
「……こっちは続いていないみたい」
錆びた鉄の中。正方形のコンクリートは痛いほどに無機質で、生命の気配をひとつも感じられなかった。あたしは怖くなった。だめだ。ここへ来ちゃだめだ。どこか遠くへ逃げなくちゃ。頭の中で遮断機の警報音がけたたましく鳴り響く。それなのに、影を誰かに踏まれたみたく、あたしはここへ一歩も動けずにいた。飼育小屋の片隅に、ひどく傷んだアイスクリームの棒が視界に入った。心臓がどくんどくんと脈打つ。鼓動が早くなる。何か書かれている。見ちゃだめだ。名前。雨風にさらされて読み取れない。でも、名前だ。目をつぶらなきゃ。どんな、名前だっけ。とても大事にしていたもののはずなのに。
「ここ、お墓か?」
お兄さんはポケットから煙草をひとつ取り出して、火をつけた。煙をふわりと吐き出す。あたしは冷えてゆく心臓音を隠しながら、ようやっと頷いた。
「……うん、多分」
アイスクリームの棒の前に、あたしはしゃがみ込んだ。正確には、もう立っていられなかったのだ。乾いた土をゆっくりと撫でた。爪の中に砂が少しだけ入り込んだ。
「なんでだろ、なんか、すごく、ばかみたいに熱心だったんだよね。せっかくの夏休みだってのに、毎日毎日、蟬時雨の中ここに通ってたの。確かうさぎとニワトリがいたんだっけ。でも、夏の暑さのせいかな、あの頃のこと、あたしあんまり憶えてないんだ」
あんなに熱心だったはずなのにね。なんでだろうね。あたしは苦笑いをしてお兄さんを見上げた。だけどお兄さんは笑い返さない。真面目な、真っ直ぐなその鋭い視線は、まるであたしに「茶化すなよ」と諭しているようだった。そうだ、誤魔化したらだめなんだ。あたしは、もう一度お墓に向き直った。
「……なんで、ニワトリは空を飛べないんだろう」
いつか、そんな事を考えた気がする。ずっと、そんな事を考えていた気がする。それなのに、あたしはどうしてこんな大事な事を思い出せないでいたんだろう。お兄さんがふわり、煙を吐く音が後ろで聞こえた。
「実は飛べたりしてな。飛べないって決め付けてんの、おれらだけで、実はあいつら飛べるくせに飛ばない怠け者だったりして。飛び方、忘れたふりしてさ」
木々が揺れる。雲が流れて、月明かりが、あたしたち以外は誰もいない飼育小屋に差し込む。あたしはお兄さんの返答を聞いて、なぜか自分の頬が微かに濡れているのに気付いた。なんとなく恥ずかしくて振り返れなかった。お兄さんは何にも言わないでくれた。
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