008 ジャングルジムの魔女

「おにーさん、不法侵入が好きだね」


プリーツスカートがパラソルみたく開花する。強い風が吹いた日みたいに、このままどこか遠くへふわり飛んでゆけたら素敵なのに、あたしの跳躍はただの落下に終わった。体操選手のようにむんずと胸を張って両手を広げられたのならまだ格好がついたが、不器用なあたしは着地失敗して地面に突っ伏した。


「あんたもだろ」


呆れ顔でお兄さんが飛んだ。ポケットに片手を突っ込んだままの見事な着地。続いて酔っ払いのおじちゃんも千鳥足のくせに軽々と錆びた門を飛び越える。おじちゃんは突っ伏したままのあたしに手を差し伸べて「鈍くさかね〜」とげらげら笑った。あたしは立ち上がりながら頬を膨らませる。


「しかし真夜中の小学校に忍び込むたぁ、肝試しみたいで面白かねぇ」

「近道なんだよ、ここ抜けたらすぐだから、ちゃんとついてこいよ」


夜の校舎は青く美しく佇んでいた。緑の屋根のボロボロ体育館、今はもう使われていない観察池、短いスロープ。そういう無機質なものに、あたしたちの影が重なりうごめく。あたしたちの分身こそ、まるでおばけや怪物みたいな不気味さだった。花壇のパンジーが揺れる。校舎の裏からグラウンドに出て、裏門から正門に抜ければ、すぐそこがお兄さんのバイト先のコンビニだ。


「ねえねえ、ほんとに幽霊でたらどーする? あ、でもあたし幽霊なんて――」


信じてないけどね、と冗談っぽく笑おうとしたが、お兄さんは真っ青な顔でゆっくりと振り返った。顔面蒼白。生まれたての子羊のように微かに震えているようだった。あたしと八鹿のおじちゃんは、きょとんと目を合わせて、それから悪戯に笑った。おじちゃんがお兄さんに続き、あたしがおじちゃんに続く。じゃんけん列車が如く一列に整頓してみせる。


「お、おい! なんでおれが先頭なんだよ!」

「だって、ちゃんとついて来いって言われたもん!」

「道が分からんっちゃけん、仕方のなかろうもん!」


やんややんやと言い合いながらじゃんけん列車はせっせとグラウンドを進んでゆく。ふとお兄さんが立ち止まり、列車は急停車、あたしはおじさんの背中で鼻をぶつけた。「どげんしたね兄ちゃん、ついにちびったとかぁ?」と八鹿のおじちゃんがお兄さんの心情を煽る。ふわりと砂ぼこりが、だだっ広いグラウンドを舞い、あたしは目を細めておじちゃんの背中からその視線の先を見た。



ジャングルジムのてっぺんに、魔女がいた。



タランチュラみたいに長いまつげ。深い海のような青い瞳。長く艶やかな髪は夜の闇より黒く、肌は雪のように白い。それはとても美しい顔立ちをしたロリータ姿のお姉さんだった。

白いカーテンのようなレースが幾重にも重なって、ふんだんにリボンが付いている。足元はロッキン・ホース・バレリーナ。不安定なジャングルジムの上で、どのようにバランスをとっているのか解らない。ただ真っ直ぐに夜空を見上げる横顔。


夜の闇の中で、真っ白なシルエットがくっきりと浮かび上がる。お姉さんは、月光を浴びて、真珠のような淡く白い輝きを纏っていた。まるでお姉さん自身が発光しているかのような、淡い輝き。



「……綺麗」


零れるようにあたしは呟いた。あまりにも綺麗な姿だった。隣でお兄さんが「幽霊じゃなかった」と呟いて胸を撫で下ろしている。ロリータのお姉さんはあたしの声に気付いたようで、ジャングルジムからあたし達をゆっくりと見下ろした。無表情。感情という感情をどこかへ置き忘れたみたいな、まるで人形みたいなその表情さえ、あたしは美しいと思った。



「お、おい、そんなとこで何してんだ、危ないぞ」

「……星を見ていたのです」

「星ぃ? ロマンチストは良かばってんくさ、お嬢ちゃんがこげな夜中にひとりで出歩くのは関心せんが。それにこの街の星はとうの昔に消えたろうもん。せっかくの七夕の夜ばってん、もうお月様しか出とらんばい」


八鹿のおじちゃんの言う通りだった。夜の空を見上げても、どれだけ目を凝らしても、星はひとつも見えやしない。だって、あのうずしお観光ビルが、この街の星を全部独り占めしているんだもの。お姉さんは、そのことを知っているだろうか。それとも、あのはじける彗星は、ここからも見えたのだろうか。


ロリータのお姉さんはじっとあたし達を見下ろしたままだった。やっと、お姉さんが口を開いて何か言葉を発そうとしたその時、下品なえずき声がグラウンドに響いた。


「おぇ、吐きそ」

「おじちゃん、お酒飲み過ぎだよ、大丈夫?」


出逢ったばかりの時よりも舌が回るようになってきたと安堵していたが、おじさんは後から気持ち悪くなるタイプだったようだ。酒瓶は手に握りしめたまま、四つん這いになって青い顔でなにか呻いている。あたしはその情け無い丸い背中をさすりながら、お酒が飲める歳になったって、飲み過ぎだけには注意しようと心に誓った。お兄さんは深いため息をついた。


「仕方ねえなあ。ちょっと一服してくる。すぐに出るから、それまでに酔い醒ましとけよ、おっさん。それから、あんたも、よかったら街まで送るよ。今おれたち、駅の方に向かってるんだ。そっから降りて準備しててな」


そう言い切って校の裏に向かうお兄さんの背中を、ロリータのお姉さんは、相も変わらず無表情で、静かに見つめていた。

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