005 街中ハック
コンビニの制服を着た緑色のピアスのお兄さんは、煤けたテーブルに煙草の火を押しつけて消した。少し考え事をするような素振りをしてみせた後に、あたしをちらりと見て、おいでと手招きしてから喫茶店のカウンター横にある階段へと進んだ。あたしはコンクリートにぺったりと張り付いた体を起こし、砂埃を払ってわけもわからずお兄さんについていく。
「あんた何かお願い事した?」
「おねがい?」
「七夕のお願い事だよ」
ボロボロの階段をのぼりながら、振り返らずにお兄さんが言う。七夕なんかちっとも興味のなさそうなお兄さんが思わぬ話題を振ったので、あたしは嬉しくなってつい声が大きくなった。
「空を飛べますようにってお願いした!」
「ふうん、なんで、空を?」
「……あれ、なんでだっけ」
あんなに願っていたことのような気がするのに。学校の帰り道の商店街で、雪と二人で水色の短冊に、どんな気持ちでお願い事を書いたのか、不思議なことにあたしはすっかり思い出せなかったのだ。とても大事なことのはずなのに、霧がかかったみたいに記憶の向こう側がぼんやりとしていて見えない。あたしはなんとなく思い出してはいけないことのような気がして、慌ててお兄さんに尋ねた。
「おにーさんは何かお願い事したの?」
「バイト先の表に出してる笹に、店長が転勤しますようにって悪戯書きしたくらいだな。ひとりのお得意様のために科学学会しなんか発注する変わり者でさ」
「あ、でも七夕のお願い事って、7年後にしか叶わないんだって」
「嘘だろ、あと7年は科学学会誌発注すんのかよ」
「でも、7年前のお願い事なんて、7年後にはどうでもいいことになっちゃってるかもね」
あたしは雪の真似をして小さく呟いて笑った。階段は人がやっと一人通れるぐらいの狭さで、壁には劣化して印字の薄くなったポスターがいくつも貼ってある。黄ばんだボロボロのA4紙には、目をこらすとやっと読めるぐらいのフォントで「スナックゆうひ」「BAR探偵」「展望珈琲 街灯り」などお店の宣伝が連なっていた。どうやら3階は複合商業ビルになっていて、狭い廊下を挟んで沢山のお店が入り組んでいたようだ。お店の宣伝だけでなく、名前も知らないバンドのライブ情報やあやしげな金融機関のポスターも無造作に貼られていた。ずんずん進んでいくお兄さんの後ろで、あたしは目を輝かせてそれらを眺めた。
お兄さんはふと立ち止まった。あたしはぶつかりそうになる体になんとかブレーキをかけ、お兄さんの先を覗こうとした。背中の向こう側は見えないが、月明かりを浴びていた。どうやらこの先は屋上みたいだ。お兄さんはあたしを振り返って悪戯っぽく笑った。
「あんた、たぶん驚くぞ」
お兄さんの言葉の意味を理解できないまま、あたしは最後の階段を踏みしめた。いたずらで懐中電灯の光を浴びたみたく、階段を抜けて視界がひらけたその時、あんまりにも目の前が眩しすぎて、一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
夜空を見上げるとこぼれ落ちそうなくらいのまばゆい光が、視界いっぱいに広がっていたのだ。満天の星空が屋上にはあった。無数の星々が、きらきらと瞬いている。それはいつかみたプラネタリウムのようだった、でも、あの星々は偽モノなんかじゃないって、あたしには解る。全身をめぐる細胞がはじけるような感覚だった。あまりの美しさに、あたしは混乱した。
星を見たのは小学生ぶりのことだった。この街では7年ほど前から急に星の観測が難しくなっていた。空気汚染の影響だとか、宇宙人の仕業だとか、あるいは祟りだとか、専門家の人たちがテレビで議論していたけれど、この瞬間にあたしはその答えを見つけた。この場所が、星を、光を、この夜のすべてを、盗んで閉じ込めて、独り占めしていたのだ。
あたしがやっと、何か言葉を放とうとしたその時、お兄さんが先に上ずった声をあげた。
「な、なんだありゃあ」
お兄さんの視線の先を見ると、彗星のような青い軌跡が夜の闇を裂いて東の空へと落ちていった。落下した青い光が弾けた瞬間、合図を受けたかのように、夜空にあった赤や紫や橙の、色とりどりの星々も、それぞれの光を放ち飛び散った。ガラス玉が弾けて割れたみたいな勢いで、それは放物線を描いて街中に落下してゆく。花火みたいだった。思わずお兄さんとあたしは頭を抱えてかがんだが、その光がうずしお観光ビルの屋上に落下することはなかった。
あたしたちはしばらく声を出せないでいた。恐怖からではない。あまりにもその光景が美しかったからだ。夜空を見上げると、光は線となり、残像としてまだぼんやりとひとみに映っていた。流れた星の数だけ、この街は暗闇に覆われた。一瞬の嵐が通り過ぎたみたいな静けさの中、月の光だけがやけに眩しく輝いていた。
「なんだったんだ、今の」
「おにーさん、あれ!」
屋上から街を見下ろすと、向こうから何やらパレードみたいな音楽とともに、行列が踊り歩いてきた。街の道路の真ん中を占拠して、古いラジオカセットを持った女の子が先頭を歩いている。女の子に続いて、うさぎやくまの着ぐるみを着た集団が、ずらりと連なって街を行進しているではないか。数は500、いや1000体ぐらいだろうか。うさぎやくまのぬいぐるみが、くるくると踊りながら女の子の後を続いてゆく。中にはリコーダーや太鼓を持っているものもおり、ラジオカセットから流れる音楽に合わせてリズムをとっている。あたりは陽気な音楽に包まれ、しおかぜ街は一瞬にして遊園地と化した。
「ハーメルンの笛吹きみたい、すてき!」
「なんかやべえ宗教団体みたいなのきたぞ、あんたの仲間じゃないのか」
「あたし着ぐるみのお友達はいないよ」
お兄さんは怪訝そうにあたしと街のパレードを見比べた。夜中のしおかぜ街に人影はなく、観客は屋上から見下ろすとコンビニの店員と女子高生だけだった。そんなことには気にも留めず、パレードはまるでこの世界が自分達だけのものにでもなったようなつもりで、街を占拠していた。
もう何がなんだか、訳がわからないことが立て続けに起きて、あたしはまだ夢の続きでも見ているんじゃないかと思った。さっきみた、なんだか懐かしい気持ちになるような夢を思い出そうとしたその時、酒に焼けたようなガラガラの笑い声がパレードの音楽を台無しにして、あたしはハッと我に返った。
「お化けの大名行列らぁ、すごかねえ、かぶぽよ!」
ふと声の聞こえた方を見下ろすと、足元のおぼつかないおじさんが、傍に止めてある郵便屋さんの赤いバイクに話しかけている。酔っ払いだ。おじさんの汚い声に、着ぐるみ達はぴたっと行進を止めた。音楽もいつの間にか止み、街には再び静寂が訪れた。お兄さんとあたしは目を合わせ、だけど何も言わないままでまた街を見下ろす。どうしたことか、酔っ払いのおじさんの周りを、1000体もの着ぐるみが囲い始めたではないか。なんだか、ただならぬ狂気を感じる。おい、なんかヤバイぞとお兄さんが呟きかけたその時、再び酔っ払いのおじさんが、だははと笑った。
「なんねぇ、誕生日会れも開いてくれるとかいね? うさぎさんこんばんわぁ、可愛か耳やねぇ」
うさぎの着ぐるみの耳をおじさんが触ろうとした瞬間だった。おじさんの顔にうさぎの拳がめり込んだ。うめき声がか細く響いて、おじさんはバタンと道路の真ん中に倒れこんだ。それにも関わらず、着ぐるみ達はおじさんに飛びかかろうとしていたのだ。
お兄さんが血相を変えて、階段を4つ飛ばしで飛び降りた。あたしはまた、何が何だか訳のわからないままお兄さんの後に続いた。
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