第一夜

001 青い街

「そういえば昨日、神様に会ってきたの」


雪は、黒板にびっしりと敷き詰められた二次方程式を消す手を止めて、怪訝そうにあたしの顔を覗き込む。放課後の教室には、あたしと雪のふたりだけだった。濡れたアスファルトの匂いが清潔感のある薄緑色のカーテンを膨らませた。


もう7月だというのに、雨はしばらくのあいだ降り続いていた。あたし、雨上がりの夕方が好きだ。雨は空気中の汚れを全部、地面に落としてくれる。だから今日は、ビー玉みたいに透き通った赤い空だった。夜までここで待っていたら、星がひとつくらいなら見られるかもしれない。そう思わせるぐらいに空気が澄んでいたのだ。雪が日直の仕事を終わらせるのが夜までかかればいいのに。なんて考えていたら、日直日誌に落書きしたプチ芥川龍之介がこっちを見て、格好つけてにかっと笑った。あたしは嬉しいような可笑しいような気持ちになって、にかっと微笑み返す。


「いつも言ってるけどさ、あんたその妄想癖どうにかしたほうがいいよ。モテないよ? 彼氏できないよ? せっかく顔はまあまあなのに、本当もったいないわ」


雪は、綺麗だ。くるくるした栗色の髪の毛や、桃色のチーク、長くて華奢な指先。街を歩けば、田舎の高校に通う女の子だなんて、きっと誰も思わないだろう。短いスカートからすらっと伸びた白い足なんかは特に、昔、雪は人魚だったんじゃないかと思わせるぐらいに、綺麗だ。


「妄想じゃないよ。宇宙人だの、未来人だの、幽霊だの、現実味のない話をしている人達と一緒にしないでいただきたい」

「神様という単語には現実味があるって?」

「さいです、大有りです」


クリーナーを使えばいいものの、雪は窓際で手に持った黒板消しをシンバルみたく大胆に叩く。ピンクと白の混じった粉は、風に乗って教室の中に舞い戻り、雪はけほけほと咳き込んだ。あたしは雪のそういう、綺麗な女の子のくせに、ちょっとだけガサツで、ちょっとだけドジなところが好きだ。


「ふうん。じゃ、超能力者は?」

「ないね、全然、ナンセンス」

「サンタクロースは?」

「いるよ、常識だよ。そんなの、小学生だって知ってる」


相変わらず、雪は怪訝そうにあたしを見て、そして優しく笑う。それに比べて、日誌の端に落書きしたプチ太宰治ときたら、ちっとも笑わないのだ。口角をあげる努力さえしない。あたしは太宰をにらみながら考える。雪はあたしに呆れない。あたしは、きっと雪が好きだ。グラウンドから野球部の掛け声が聞こえる。雨上がりだから、ズボンの裾はきっと泥だらけなんだろう。そういうのって、悪くない。


「それで、聞いてあげるわよ。神様に会ってどうしたの」

「うん。昨日さ、あたし商店街で短冊書いたでしょ、空を飛べますよーにって。で、今日は七夕でしょ。でもね、七夕のお願い事って、7年後にしか叶わないんだって、スターゲイザーでやってたの。だって、お星様ってのはそんだけ遠いところにあるんだから、お願い事が星に届くのに、7年もかかるんだって。あたし、7年も待てないよって言ったの」


昨日の帰り道、歩道橋の下で神様と。神様はめっぽう寡黙な人で、無精髭を撫でながら、いつも静かに瞳を閉じている。あたしは一方的に、今日は古典の先生が、口癖の「であるからして」を何回言ったかとか、自動販売機のルーレットは今日も当たらなかったとか、そういう話をする。そしてお賽銭の代わりにお昼ご飯に残したおにぎりや溶けかけのチョコレートなんかをあげる。すると神様はきまってお告げをくれるのだ。「接続詞を数えるよりも授業に集中すること」「期待値を下げること」と一言だけ呟いてくれるのだ。


「おにぎりあげたら神様ね、”待てないのならば、自分で叶えにゆくこと”だって。言うことがかっくいいよね。やっぱりあたし神様の弟子でよかったって思ったよ」


それは良かったけど、あんたおにぎりカピカピになってんじゃないのそれ。そう呟きながら、教室の窓を全部閉め終えた雪は、あたしの前の席に座る。頬が赤く照らされて、それは本当に綺麗なシルエット。


「でもさあ、7年前のお願い事なんて、7年後にはどうでもいいことになってるかもね。ああ、でもあんたは、7年経っても相変わらず神様だのサンタクロースだの、言ってそう」

「確かに、7年前のお願い事なんて――」


憶えてないものね、そう言いかけて、あたしは思い出した。はっとして腕時計を見ると、針は17時30分を指す。あたしは慌てて立ち上がり、今日一番の大きな声で叫んだ。


「帰るよ!」

「どうしたのよ急に!」

「スターゲイザーはじまっちゃう、はやく電車乗らなきゃ!」

「あんたってほんとひとを振り回す天才ね」


椅子もろくに仕舞わないまま、日直日誌の落書きも消さないまま、あたしはスクールバックと青色の傘を手に取り教室を飛び出した。雪も慌てて教室のドアに鍵をかける。


長い廊下を走る走る、上履きのかかとを踏んだまま、あたし達は三段跳びだってできる。踊り場で変なステップを踏んで。なんだか楽しくなったみたいで雪が笑う。あたしもつられて笑い出す。こんなの、生徒指導部のカメちゃんに見つかったら、奉仕活動行きだ。短く切り揃えた前髪が乱れる。セーラー服のリボンが、2回だけ折り曲げたスカートが、ぱたぱたとなびく。修学旅行のおみやげ屋さんで買った、雪とお揃いの不細工な犬のキーホルダーが揺れる。


こういうとき、あたしは体の中に心を収めることができる。あたしは今、とんでもなく一人称でいられる。規則正しく並んだ窓から、夕日の赤がこぼれている。きれい。すてき。こういう気持ちになれることが、あたしは嬉しくてたまらない。


「あ、ちょっと待って!」

「なに!急いでる!」

「ねえ、ちょっとだけ売店寄ろ、売店!」

「なんで!」


疾走しながら雪は言う。二人とも、息をきらしながら叫びながら話しているのが笑える。雪はよく分かっている、立ち止まるなんて、そんな野暮なことはしないのだ。


「いやさ、こないだ新しくバイトに入ったお兄さんが、かなりイケメンらしくって!もう学校中のアイドルになってるみたいでさ!今クラスの皆も見に行ってるみたいでさ、気になるでしょ、緑色のピアスしてるらしくってさ、」

「耳に穴を開けるだなんて、考えただけで痛いよ、帰ろ!」


休み時間に教室ががらんとしていると思ったら、なるほど皆売店に行っていたんだ。それにしても、耳たぶにあいた穴、確かに素敵だとは思う。耳たぶに空いた穴から向こう側を見たら、どんな気持ちになるんだろう。別の世界が見えるとか。ピアスの色を変える度に人格が変わるとか。そんなことが起きるんだったら、あたしだって容赦なく穴を開けてしまうかもしれない。あたしは穴の空いていない耳を塞いで、後ろを走る雪の非難が聞こえないふりをした。


「ばーか、けち!妄想女!」

「けちで結構、こけこっこー!これじゃ電車間に合わないよ、走れ、雪!」

「仕方ないなあもう」


走りながらあたしはふと思った。どうしてニワトリは空を飛べないのだろう。いつかそんなことを考えていた気がする。まるで空を飛んでいるように、大きくあたしはジャンプする。ひるがえるスカートなんて気にしている場合じゃなかった。両手を広げて、夕方の階段を落下する。こんなとき、あたしは訳がわからないぐらいに大きな声で叫びたくなる。単語ならなんでもいい。単語にならなくたって構わない。叫びたい衝動に駆られるのだ。


規則正しく並んだ窓から、夕日の赤がこぼれていた。



***



海底2万マイルみたいなその潜水艦は、もうまもなく青い街へと着水する。少しずつブレーキが踏まれるをの体感しているからそう予感する。セーラー服の女の子はボックス席で目を閉じる。そしてゆっくり目を開ける。まつげが視界に入るぐらいのぼんやりとした世界を、まばたきひとつで切り替える。カラカラカラと、錆びた音がする。ストロボみたく、女の子はフラッシュを焚く。車窓に映る、海底に沈んでしまった街の夜を泳ぐクジラ。五線譜みたいな電線に連なる椋鳥の歌。街を横断するブレーメンの音楽隊。古民家の間を縫うように飛んで行くペンギンの群れ。いつもの景色を、女の子はまばたきひとつで記憶する。


ゆるやかなカーブに差し掛かったときだった。女の子の大きな瞳はそれをとらえた。その一瞬で、取り逃さなかった。これまで何度もこの街のこの景色を眺めていたはずなのに、この街のすべてを知り尽くしていたはずなのに、女の子は生まれて初めてそれを見た。割れた窓ガラスに反射する水色。今にも崩れ落ちてしまいそうなむきだしの鉄筋コンクリート。それは昨日まではそこになかった、蔦絡まる古びた廃墟だった。まばたきひとつで、その全てに魅了された。


――まもなく、しおかぜ、しおかぜ駅です。降り口は左側です。


しわがれた男性のアナウンスが遠くに聞こえる。

大好きなスターゲイザーのこともすっかり忘れて、女の子は踊るように着水した。

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