老兵は死なず、消え去らない
今神栗八
★★★
新沢、大久保、伊藤……ブルータス、お前もか。
さすが神田八丁堀の老舗鍋料理屋「いろは」だ。確かにこの店の鶏の水炊きは通をも唸らせるものがある。ほとんど全ての鍋に食材が残っていないことが、その実力を物語っていた。
議長の新沢の提案で、二階広間を借り切って理事会の会場に設定し、会議に先立って鍋をつつこうという趣向は、そこに他意が無ければ、皆と同様、私を喜ばせただろうし、この店を切り盛りしている女将、
水田は、料理の締めの挨拶を新沢に請われて、
「お粗末さまでございました」
惜しみない拍手に混じって賛辞が飛ぶ。カーテンコールに応える主演女優のように、充分な間を取ってから鷹揚に頭を上げた彼女の、細い一重瞼の奥からキラと発せられた一閃は、彼我三間半をひと飛びして理事長である私を突き刺した。
畜生、舐めるんじゃない!
確かに私は、水田や他の多くの理事のように料理人あがりではない。一介の鍋好きなサラリーマンが、バブル時代のグルメブームに浮き足立って鍋料理評論家を自称し、ラーメン評論家の向こうを張ってムキになって食べ歩いた結果、テレビで少々有名になったに過ぎない。しかし、そのノリで会社を辞めてまでこの協会を立ち上げ、爾来二十有余年、ここまで育て上げてきたのは、他ならぬこの鍋島久三ではないか。
新沢、お前だって、私がお前を可愛がって西や東の名店を連れ歩いてやったから、今があるんじゃないか。
その新沢が会議開始早々、私のことに触れた。
「さて皆さん、サプライズではありますが、ここで当協会理事長の鍋島さんに、永きにわたるご在任の感謝を込めて、理事一同から花束を贈呈したいと思います」
当惑する私に向かって、水田が障子の向こうから花束を持って現れた。
「鍋島さん、本当に永年おつかれさまでした」
拍手の中、半ば押し付けられ気味に花束を手渡された私は、起立したまま何かコメントせざるを得ない状況になり、それを察した皆はしんと静まった。
「おいおい、まるで私が引退するみたいな言いぐさじゃないか」
私は照れ笑いを浮かべつつ頭を掻いた。しかし、どっと笑いが起きるどころか、誰も私の冗談めいた言葉を否定しなかった。
私は悟った。ああ、今夜は皆で示し合わせて私に引導を渡す会だったのだ。
私は笑顔と真顔の間で口を半開きにして茫然と立ち尽くしていた。
皆でして私をたばかりおって……。
大久保が挙手し、即座に新沢が指名した。
「えー、緊急動議を提出します。来年度の理事改選に伴い、この際人事の若返りを図るべきかと存じます。水田菊枝副理事長を新理事長へ、稲村幸平理事を副理事長へ推薦いたします」
新沢が推薦理由を訊くや、メモを読むかのように大久保が流暢に答えた。
「和食が世界無形文化遺産に登録された以上、鍋料理も当然その範疇にあり、なお一層の普及を期し、世界に発信していくべきでありましょう。稲村理事は、すっぽん鍋の料理人としては若手随一の腕を持たれ、さらに英語に堪能でいらっしゃるので、長年料理界に籍を置かれる水田さんの片腕として、鍋文化発信に大いにご活躍いただけるのではないでしょうか」
間髪入れず理事たちが、お互いに顔を見合わせ、頷きながら拍手を始める。
私は花束をハリセンにして、空になった手元の鍋に渾身の力を込めて叩きつけたかった。
おそらくシナリオ通りに、ここで伊藤が質問した。
「して、鍋島理事長は?」
大久保が私から目を逸らせたまま答える。
「鍋島さんには、名誉顧問として、理事を抜けられた後も、我々後進の者に時折アドバイスをして頂いては?」
名誉顧問? 理事を抜ける? 時折?
文化庁や農水省などから鍋文化発信に関する政策ブレーンとして度々招聘された、理事長の私だった。グルメ番組のコメンテーター、食品メーカーの鍋関連商品企画顧問、全国鍋料理事典の監修……。理事長は多忙で、そして、豊かだった。宴のあと……。この後の私の人生は、目の前の空鍋のように、うつろで冷めたものになるというのか。
最近、収賄を疑われて激しい議会の追及を受けながらも、「職責を全うしたい」と繰り返す政治家をテレビで見ていて浮かんだ言葉が無秩序に脳裏に渦巻く。潔い引き際。見苦しくない身の処し方。後進に託す気宇……。
その時、突如として、私を感謝と尊敬の目で見上げる、九つになったばかりの孫娘の顔がよぎった。
「おじいちゃんがリジチョウのお蔭で、家族で、シサツリョコウに来れるんだよね。すごいね、おじいちゃん」
新沢が淡々と議事進行を図る。
「では、満場一致で賛成のようですが、ご異議ございませんか?」
私は花束を置いて、ゆっくりと手を挙げた。
「異議あり」
(了)
老兵は死なず、消え去らない 今神栗八 @kuriyaimagami
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