第15話

 これでは去年の失敗の繰り返しだった。


 未だ就職が決まらず、卒論は白紙に戻り、そしてまたしても恋に破れたのだった。このままではどうにもならないと分かってはいたが、どうしたらいいか考えてみたところで何も思いつかなかった。


 富田林寛を歓迎してくれる場所はどこにもないということが、今や明らかとなった。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼に落ちたような気分だった。


「尾尻って、どうして学校やめたの」


 寛はふと気になって、若鶏の甘酢炒めの定食セットを盛り付けながら訊いた。


「くだらないから」尾尻は巧みなヘラ捌きで二枚の厚切りステーキを焼きながら言った。


「くだらない」寛はおうむ返しに言った。


「くだらねぇよ」


「そう思うか」寛ははっとなった。


「そう思うかとは何だよ」


「いや、おれも最近同じようなことを考えてたもんで」寛は思いがけないところで友を見つけたような気持ちだった。


「へぇ」尾尻は、しかし、小馬鹿にしたように笑った。「でも、お前はそんなことしない方がいいぞ」


「どうして」寛は不服そうに言った。


「お前は一人じゃ何もできないからさ」尾尻は声をあげて笑った。


「分かってるのか? 今までここに入ったバイトで、皿の洗い方さえろくに知らなかったのはお前だけだぞ。高校一年のバイトにさえ、お前は使えないお坊ちゃんだと思われてるんだ。最初なんか火の付け方さえ知らなかっただろうが」


 寛は思わず頬を赤らめた。それは本当のことだった。しかし、今では皿の洗い方も火の付け方もちゃんと分かっていた。青春十八切符を使って一人で京都に行くことだってできた。失恋したあとでも迷わず帰ってくることもできた。そんじょそこらのお坊ちゃんには、こんな真似はできまい。


「富田林! フロアの片付け行って!」


 寛の動きが悪いので、店長の高橋(駒澤大学・経営学部卒)は指示を出した。


 高橋は、昨年寛に対して「もしその気があるなら、うちで社員登用できないこともない」と話を持ちかけたところを、たいして考慮もされずに断られて以来、彼に冷たい態度を見せるようになっていた。そこにきて、寛が七月に無理やりシフトを代わって旅行に行ったのに土産の一つも買ってこなかったことから、その冷たさには拍車がかかっていた。


 ランチタイムの混雑はピークを迎えていた。会計が済んだテーブル席をあわてて片付けはじめた寛は、小鉢を取り落として割ってしまった。小さい食器だったが、割れる音だけは惜しげもなく大きかった。


「失礼いたしました!」


 寛は、客というよりもむしろスタッフに向けて言ったが、店長の苛立ちの視線が背中に突き刺さったのを感じないわけにはいかなかった。もうすぐ四十になる店長の高橋はまだ独身で、この五年というものは恋人さえいなかった。


 そこへフロア担当の女子高生バイトの柴田(私立相洋高校二年)が、状況をさらに悪化させる報告を持って厨房に戻ってきた。


「クレームつけられました」柴田は、自分のせいではないことで客に頭を下げなければならなかったときに裏でいつも見せる不快さに歪んだ顔で言った。やや舌足らずな喋り方をする女の子だった。機嫌がいいときには、その喋り方はとてもかわいらしかった。


「何?」店長の高橋は、相手が若い女の子だからといって少しの愛想を見せることもなく訊き返した。彼は柴田を見もしなかった。


「クリームつけられたって言ってます」柴田が、堂々とふて腐れて説明した。


「だから何」店長が、せかせかとご飯を盛りつけながら、再び彼女の方を見もしないで言った。


「クリームつけられたって」柴田は、洗浄機にがちゃがちゃと食器を突っ込みながら、うんざりして繰り返した。


「だから、何て」店長は語気を強めて問いただした。


 柴田の説明は店長には通じていなかった。彼女はクリームをつけられたというクレームをつけられたのだ。だが、飛び交う雑音と彼女の舌足らずな喋り方のせいで、高橋にはクレームとクリームを聞き分けることができなかったのである。


「クレームです」柴田は、もはや明らかな敵意を見せながら声を張った。


「だから、どんな!」店長もまた苛立ちをあらわにして声を荒げた。


 柴田の舌足らずで若者じみた平坦な発音にも問題がないわけではなかったし、店長の己の仕事に対するほとんど憎悪と言ってもいい感情ゆえのスタッフへの思いやりを欠いた態度にも問題がないわけではなかったが、厨房のあわただしさと店内の喧騒の中で、話は混乱の一途を辿った。


「クリームつけられたんですよ!」柴田は悲鳴をあげるように叫んだ。


「だからどんなクレームかって訊いてんだよ!」店長がフロアにも聞こえるほどの声で怒鳴り返した。彼は女子高生が嫌いだった。特に、学校の制服姿でないときの女子高生が大嫌いだった。


「クリームつけられたって!」柴田も負けてはいなかった。彼女の声は興奮で甲高くなり、ますます何を言ってるのか分からなくなった。


「何言ってんだよ!」店長はもどかしげに叫んだ。


「クレームだっつってんだろ!」柴田は育ちの悪さを丸出しにして言った。


「だからどういう内容なんだよ!」店長は怒鳴り返した。


「だから! クリーム!」傍で聞いている者にも、もはやクリームともクレームとも、どちらとも聞きたいように聞こえた。


「あぁもう!」店長は両手で宙を無茶苦茶にかき乱し、話にならないと投げ出した。


「デザート皿に残ってたやつ! 多分プリン・ア・ラ・モード!」柴田は少しも引き下がる様子を見せず、詳しい内容に踏み込んで言った。


 これを聞いた寛は、さっと血の気が引いた。身に覚えがあったのだ。先ほど食器を下げたとき、クリームの少し残ったデザート皿を乗せていたのだ。おまけに客とも接触していた。すれ違いざまにわずかにかすっただけだったが、そのときにクリームをつけてしまったに違いなかった。


「は?」店長は眉間に深いしわ作った。


「だから、そのクリームつけられたって客が怒ってんだよ!」柴田が金切り声を上げた。


「クリームつけられたのか!」店長はようやく事態を理解した。


「最初からそう言ってんだろうが!」


「いつ? どこに?」店長は今や怒りの矛先を変えつつあった。


「多分、富田林がさっき食器下げたとき! 客のスーツに!」寛は女子高生に呼び捨てにされた。


「スーーーーーーーツ!」店長の頭に「クリーニング代として一万円」という言葉が急浮上した。「とんだばやしーーーっっ!」店長は声の限りに叫んだ。


 寛は思わずフロアに逃げ出していた。


 ところが、彼は店の真ん中で突如呪いにかかったように立ちすくんでしまった。この世のものとは思えない恐ろしい光景が、彼を取り囲んでいたのだ。


 店内は彼の顔見知りで溢れかえっていた。


 寛の恥ずかしい過去を知っている小学校の同級生がいた。中学校の部活で先輩だった意地の悪い男がいた。理不尽に叱られてから一度も口をきいていなかった数学の教師がいた。近所に住む不良姉妹がいた。この姉妹は、その昔田んぼの真ん中で寛の服を無理やり脱がせて裸にしたことがあった。所属していたリトルリーグのコーチがいた。このコーチはどんな負け試合であろうと決して寛を起用しようとしなかった。昔ちょっと好きだったファーストフード店の店員が恋人らしき男と来ていた。勉強が忙しいとウソをついて一月足らずでバイトをやめた雑貨屋のオーナーがいた。飯田成美もまた恋人らしい男と来ていた。親戚の伯父夫婦までいた。


 いずれも寛が会いたくない人々だった。全員が彼を指さし、腹を抱えてその失敗を笑っていた。まるで地獄だった。寛の視界がぐるぐると回った。とどめに、店内の有線で「ゴッドファーザー 愛のテーマ」が流れ出した。


 寛は、突然下腹部に刺すような鋭い痛みを感じた。このような事態に陥って、彼はどう振る舞うべきか分かっていた。


 寛は気を失って、その場に倒れた。

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