第16話
「こいつは仮病を使っとるだけです」
偶然ファミレスに居合わせた兄夫婦から連絡を受けた富田林茂と素子の夫婦は、あわてて病院に駆けつけた。しかし、息子のどこにも外傷がないことを見てとると、この父親は医者に食ってかかったのだった。
「急性虫垂炎かと思いましたが、そうではないようです」医者は所見を告げた。寛は救急車で運び込まれたのだった。今回もまた小田原市立病院だった。
「だから仮病だと言ってる」父親は言い張った。
「おそらくストレスや過労から来るものでしょう」
「過労!」茂は叫んだ。「働いてもいないのに!」
寛には、父親が自分に恥をかかせるためにわざと大声を出しているとしか思えなかった。時代錯誤なこの父親にとって、アルバイト労働など仕事のうちに入らないのだった。
「それにストレスときた!」この暴君は、常日頃から精神という掴みどころがないものの存在を認めようとしなかった。「こいつは甘ったれとるだけですわい!」
寛は、慣れ親しんだ虚無感が今また霧のように立ち込め、自分をすっぽり包み込むのを感じた。
無抵抗主義者と化した彼は、父親によってされるがままにベッドから引きずり出されそうになったが、医者と看護師がなんとか食い止めてくれた。両親があきらめて帰っていくと、寛は脇腹の痛みがいくらか和らぐのを感じた。
「あの教授がそういうことをしかねない人間であることは確かだ」
見舞いに訪れた世良は言った。ケンブリッジ大学で開かれていた学会からカイロ大学で開かれる学会への移動中に、回り道をして小田原の病院に立ち寄ったのだ。
「しかし、そんなことはしないと思う」世良は公平を期すかのように付け足した。
「今お前が言ったことを合わせて考えると、わけがわからなくなる」寛は気だるげにまばたきをしながら言った。
「彼自身はなんて言ってる?」
「私は、何もしていない」寛は教授の言い草を思い出して憂鬱になった。
「やはりな」
「でも、したんだ」
「あるいはそうかもしれない。でも、してないんだ。あの教授は次期学部長になるという噂だ」
「何?」
「まぁ、すぐにおれがその座を奪うことになるわけだが」
「論文のことはもういい」
寛は賢明にもその話題に深入りすることを避けた。この一件もストレスの大きな原因になっていたため、無理に考えたくなかったのだ。
「それより、おれには考えていることが……」寛は身体を起こしながら言った。
「ぬあっはっはっはっはーっ!」
そのとき、病棟の彼方から低くてよく響く、まるで黄金バットのような笑い声が聞こえてきた。
「おれは世界最軽量のブリーフケースを作ることになるだろう」常盤が喋りながら現れた。
「本当のところ、こいつはブリーフケースじゃない。ロボットなんだ。必要が生じたらボタン一つで変形し、主人であるサラリーマンと合体してスーパーロボリーマンに変身だ。会話機能も搭載して商談のパートナーになれるようにしたい。世界中のありとあらゆる言語に対応できるものになるだろう。世良、その辺のことでちょっと協力しろよ。ところで、おれは今ハンスト中で忙しい。だがこいつがうまくいけば、おれが作った法案が議会に通る可能性が高い。都内の地下鉄をすべて高架にするという法律だ。実現したらすごいことになるぜ。おれは地面の下が好きじゃないんだ。モグラみたいな気分になるからな。はっはっは。富田林、元気そうで何よりだ。それじゃあまたな。安達と岸和田にもよろしく言ってくれ」
常盤は来たときと同じように笑いながら去っていった。
安達と岸和田はすでに見舞いに来て帰っていた。二人は、安達の所有する瀬戸内海の島から女の子同伴でヘリコプターでやって来て、帰るときにはまた別の女の子を連れて帰っていったのだった。
「それでだな」寛は切り出しかけていた話を続けた。
「おれは大学をやめようと思う」
寛は言ってしまうと心が楽になるのを感じた。
「どういう意味だ、大学をやめるというのは」世良の顔に当惑が浮かんだ。
「やめる。退学するんだよ」
「そんなことはできないぞ。二十二条を忘れたのか」
「二十二条」寛は険しい目つきで中空を見据えて言った。「それが一体何なのか、誰もはっきりと知らない。調べてみたんだ。だが、学則二十二条なんてものはどこにも書かれていなかった。それは存在しないんじゃないか?」
「するさ」世良は顔を強張らせた。「誰でも知ってる。知ってるからこそ我々なんだ」
「その我々もだ!」寛は叫んだ。「おれにはそれも分からない。我々とは何なんだ?」
「富田林、質問が間違っている。我々がまさしく我々である限り、我々のことを客観的に定義することはできない。我々は我々の外にはいない。我々はその中にいるんだ」
「世良、お前はうまくやってるのか。そこで。その中で」
「おそらくそういうことになるだろう」
「そうするとどうなる? その中でうまくやり続けるとどうなるんだ?」寛はその先を知りたくてたまらなかった。
「どうなる? ただうまくやり続けるだけさ」
「どうにもならないのか?」
「どうもこうもない。やれるだけやり続ける。それだけだ」
「我々とは、宇宙人か何かなのか?」寛は半ば真剣な気持ちで訊ねた。
「そんなことを訊いてはならない」世良もまた真剣な気持ちで答えた。
「とにかく、おれはどんな我々の一員でもない。おれの方から御免蒙るよ」
「そんなことは不可能だ」
「やってみるさ。おれはおれの道を行くことにする」
「どの道?」今度は世良が寛を質問攻めにする番だった。
「おれの」
「どんな?」
「分からん」
「そいつはよした方がいい」
「でも、それしかなさそうだ」
「よく調べてみたのか」
「調べるも何も、おれにはこれしかない」
「その道にはどんな保証がある?」
「分からん」
「その道を進むとどこに出る?」
「分からん」
「おれの知ってる限りじゃ、どんなギャンブルにだって攻略法はある。絶対にだ」
「おれの道にはないんだ」
「そんなまさか」論文が三万部売れても動じなかった男が、心底驚いた様子で言った。
「そのまさかだよ」
「お前、死ぬ気か」
「そんなひどいことにはならないと思う」
実のところ、寛が学校をやめると言い出したのは、これが初めてではなかった。はるか昔、まだ小学一年生のときに彼は宣言したことがあった。
「学校に行きたくない」
両親の返答は、この時点からすでに華麗なる論理のすり替えを特徴としていた。
「大学に行くのが当たり前」
寛は小学校のすべての学年において、中学校のすべての学年において、高校のすべての学年において、同じ要望を言ったのだった。しかし、そのたびに同じ返答によって希望を打ち砕かれていた。
大学にはもう行った。そこには何もなかった。小中高大、十六年間の学校教育。何もなし。十六年もの長い間、冤罪で牢獄に放り込まれていたようなものだった。これよりひどい話があるなら聞きたいくらいだった。
寛は、自分が何をしたいのか、今ようやく理解したのだった。
自分をだまして生きることはできなかった。それが問題の核心だった。
この八方塞がりの状況にけりをつけ、一人になって最初からやり直すこと。それこそ彼に必要なことだった。
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