第13話
一年は長すぎた。二年ともなれば、ほとんど永遠だった。
寛は絲山遼子のことを忘れようと、延び延びになっていた卒論の完成に集中した。すでに書いてあった分も大幅に書き直し、さらに予定していたよりも倍近くの分量を書き足してそれは完成した。これほど何かに打ち込んだことは久しくなかった。
夏休みがあけて最初のゼミで、寛は沼尾教授が数年ぶりに発表したという論文を目にすることになった。一読して愕然となった。教授の論文は、寛が昨年度にいったん未完成で提出していた論文から論旨やフレーズをいくつも借用していたのだ。
「どういうことですか」寛は、沼尾教授の研究室に乗り込むと怒りを滲ませて問いただした。
「なんだね」沼尾教授はしらばっくれて言った。
「これはぼくの論文だ」寛は論文が掲載された研究誌を机の上に叩きつけた。
「違うな」沼尾教授は顎を撫でさすりながら一考して言った。「これは私の論文だ」
「おれの卒論からパクりまくってる!」寛は思わず声を荒げた。
彼は盗用された文章を蛍光ペンでマーキングしていた。まったく同じフレーズを用いているところだけでも、その数は三十以上に及んだ。段落ごとそっくりそのままコピーされている箇所もいくつかあった。
「そういうことを気安く言うもんじゃない」教授は眉一つ動かさずにぬけぬけと言った。「ところで、きみの新しい卒論に目を通させてもらったが、このままでは私の論文の盗用と考えざるをえないだろう。改稿して再提出してもらう必要がありそうだ。いっそ、別のテーマに変えた方がいいかもしれないな」
寛は完成した論文をすでに提出していたのだった。一度ならず二度までも致命的なミスを犯していたことに、今更気がついた。
「あんたがおれの論文を盗んだんだ」寛は糾弾した。
「私の論文は完成し、発表されている。苦労の甲斐あって好評を博しているよ」教授は厚かましくも言った。
「きみの論文はそれよりあとに完成したものだ。発表もされていない。これをどう説明するかね。もっとも、優れた教師の教えがまだ論理的思考力のない学生に大きな影響を与え、似たようなことを考えるに至るという例はいくらでもあるが」
何を言っても手遅れだった。汚い真似をする人間は用意周到にするのだ。寛は自分が敗北を運命づけられた男であることを改めて思い知った。シャドーボクシングでさえ負ける男、それが富田林寛だった。
「訴えてやる」寛は歯ぎしりしながら言った。
「つまらない真似はよしたまえ」教授は笑っていなした。
「富田林くん、私がきみの指導教授だ。きみの問題は私が処理する。私の権限でいかようにもできるのだよ。もし、それ相応の振る舞いをするなら、大学院に口をきいてやらないでもない。きみはまだ進路が決まっていない。違ったかね? 学問はいいものだよ。きみもやってみたらどうだ」
寛は、最も握られたくない人物に己の運命を握られているのだった。絶望というより他なかった。
「それ相応の振る舞いとはなんだ」寛は言った。この薄汚い男は、あまりにもあからさまに不誠実な取引を要求しているように思われた。
「それ相応の振る舞いとは、それ相応の振る舞いだ」教授は答えた。
「まさか」寛は突如恐ろしい考えに襲われた。「二十二条か」
「二十二条?」沼尾教授は一瞬眉をひそめた。それから何か心得たような表情になって、薄気味悪い笑みを浮かべて言った。「もちろん二十二条だ」
寛は、またしても現れた正体不明で理解不能の学則を前に、どんな抵抗も無力と化してゆくのを感じた。
「あんたは自分のしていることが分かってない」寛は最後の力を振り絞って言った。
「私は何もしていないよ」教授はいつもの返答をよこした。
寛はその足で学生課に向かった。
対応した職員に事情を話すと、ふいに相手が「しかし、学則二十二条がありますので」と言葉を濁した。寛の顔からさっと血の気が引いた。どこに行っても二十二条が現れるのだった。彼はよろよろと後ずさるようにして逃げ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます