第12話
夏休みに入ってまもなく、寛は京都に来ていた。
「和歌と短歌と日本史」の講義で、勉強会をかねた京都旅行が計画されたのだ。主催は担当教授の高山(慶應義塾大学・文学部教授)だった。もちろん絲山遼子も参加していた。彼女が参加すると知ったため、寛も参加することにしたのだ。
実を言うと、絲山遼子から聞かされるまで彼はこの企画自体を知らなかった。試験がすべて終わり、ねぎらいのメールを送るついでに夏の予定を訊いてみたところ、彼女がこの旅行のことに触れたのだ。講義の中で何度となく説明があったらしいが、寛は完全に聞き逃していた。
彼はすぐさま高山教授に連絡した。申し込みはとっくに締め切られていたが、そこを何とかと拝み倒して参加を許可してもらった。一泊二日の旅だった。二日間ともファミレスのバイトが入っていたが、それも尾尻に頼み込んで代わってもらった。
参加者は高山教授を含めて十四名だった。京都に現地集合ということで、多くの者は新幹線で来ていた。飛行機という者もいた。寛だけが、安上がりな青春十八切符で来たのだった。
講義で扱った和歌や短歌と縁のある名所旧跡を訪ね歩くのが、勉強会の目的だった。堅物の教授は、観光しながら授業のときと同じように話をし、学生たちに京都に来てまで講義を受けているような気分を味あわせた。
絲山遼子と二人きりになる機会に恵まれないまま、夜になった。
ホテルにチェックインすると、教授の部屋に集まって飲もうという話になった。寛は気乗りしなかったが、絲山遼子が参加するとなれば行かないわけにはいかなかった。
一同は車座になって座り、そこでもまた古典文学の話をするのだった。それだけではなかった。国家間の紛争について、福祉制度について、古代文明から学ぶべきことについて、これからのエネルギー資源について、税金の使い方について、二十一世紀の芸術について、ありとあらゆるトピックについて議論が交わされたのだった。今度は学生たちも活発に発言した。まるで国連総会だった。
寛は一度、ユーロ諸国の財政状態についてどう思うか、経済学部に在籍するものとして専門的な意見を求められた。しかし、彼はどうやって絲山遼子と二人きりになるかばかり考えていて、ろくに話を聞いていなかった。そもそも、彼はリボ払いというものがどういう仕組みなのかさえ理解できない経済学部の学生だった。
寛がうまく答えられないでいると、一同は彼に話を振ったことなどなかったかのように議論を続けた。やがて、夜も更けると会はお開きとなった。取り上げられた問題のいずれが解決したわけでもなく、世の中が一ミリでもよい方向に動いたわけでもなかったが、各自がそれなりに満足を得たようだった。
寛はパンクしたタイヤのようにぺしゃんこな気分だった。それでもへこたれず、ちょっと外の空気を吸いに行かないかと絲山遼子を散歩に誘った。彼女は少し疲れた顔をしていたが了承してくれた。
「夜の、京都だね」
寛は言った。確かに夜の京都だった。二人きりになったらああしてこうしてと、何百万通りものシミュレーションをして備えていたはずだった。しかし、そういいように事を運ぶことはできなかった。
「私、留学するんです」絲山遼子が思いがけず言った。
寛は、突然もたらされたこの情報によって思考停止に陥った。彼は、必死に手繰り寄せた命綱が途中で切断されていたのを発見したかのように、ショックに言葉を失った。夜の京都は、まるでこの世の終りだった。
「留学?」
「はい」
「誰が?」
「私です」
「いつから?」
「八月半ばには発つ予定です」
「す、すぐじゃないか!」
「すぐです」
「どこに?」
「カナダのマギル大学というところに」
「マギル大学」寛は恨みがましい口調でうなるように言った。「レナード・コーエン、バート・バカラック、ジノ・ヴァネリ、ウィリアム・シャトナー」
いずれも寛が知っている著名なマギル大学卒業生の名前だった。芸能関係に偏ってはいたが、そのリストを見るだけで優秀な人材を輩出する大学だということが分かった。だが、そんなことは彼にはどうでもよかった。
「いつまで?」
「最低でも一年」
「一年!」寛の声はリアクション芸人のように裏返った。
「もしかしたら、二年」
目の前が暗くなった。寛は、彼女を乗せた旅客機が音速を超えるスピードで遠ざかっていくイメージに襲われ、目眩に倒れそうになった。音速とは秒速約340メートルで、そうすると飛行機が飛び去る音を目で見るよりあとに聞くことになるのだ。
「あぁカナダ」
寛は、ジョニ・ミッチェルの歌にあるように口の中で呟いた。
カナダはとてつもなく遠かった。英語とフランス語が公用語で、森林地帯が多く、アイスホッケーが盛んだ。そして何より、寛にはまるきり縁のない国だった。
「おれはみんなに嫌われている」寛は沈痛な面持ちで言った。
何もかもが手をすり抜けていくようだった。どこに行っても仲間はずれにされ、いつも彼だけが蚊帳の外なのだ。さっきの国連総会かと思うような宴会の席でもそうだった。
寛は、この旅の参加者たちを「いやになるほど精神のまともな連中」と感じていた。それだけではなかった。彼を取り巻くすべての人々が「いやになるほど精神のまともな連中」なのだった。そして、みんなが寛を仲間はずれにするのだ。
寛はこれらすべての人々を忌み嫌った。声をあげて泣きたいくらいだった。カナダという言葉が彼の頭の中でこだました。カナダ、カナダ、カナダ、カナダ、カナダ……。カナダという言葉をこんなに連発したことは、かつて一度だってなかった。彼は、猛烈にメイプルリーフクッキーが食べたくなった。もうどうにでもなれだ。
「どうしてそんなこと言うんですか」絲山遼子は悲しげに言った。
「それが事実だから」寛はやけくそだった。
「私には、富田林さんが嫌われていると言うより、富田林さんが他の人のことを嫌っているように見えます」
寛ははっとなって絲山遼子を見た。しかし、彼にはまっすぐ訴えかけてくる彼女の目を直視することができなかった。
「こっちが嫌いだから」寛は弁解した。「みんなから嫌われてるように感じるのか。あるいは、みんなから嫌われてるように感じるからこっちも嫌いになるのか。どちらが先か分からない。卵が先か鶏が先かの関係なんだ」
「としたら」絲山遼子は努めて理性的に言った。「好きになれば、好かれてると思えるようになるんじゃないでしょうか」
寛には返す言葉がなかった。
旅の二日目は、絲山遼子と口を聞くこともなく終わった。
一行は京都駅で解散した。絲山遼子はこのあと和歌山の実家に立ち寄るということだった。他の学生たちもこのまま別のところへ旅行に行くなどする者がほとんどだった。
寛は、またしても一人で、青春十八切符で、小田原まで帰った。
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