第10話

 絲山遼子(慶應義塾大学・文学部一年)というのが彼女の名前だった。


 寛は、文学の講義で教壇にばらばらに提出される出席カードの整理を買って出て、彼女の名前と学部を突き止めたのだった。


 彼は、糸が二つ並んだその漢字にえもいわれぬ魅力を感じた。苗字と名前は、画数の多い漢字と少ない漢字の組み合わせから成っており、その配列は横書きにしても縦書きにしても見事なバランスで見映えがした。知性を感じさせ、力強くて品があり、どこか謎めいていた。思わず口に出して呟いてみたくなる名前だった。


 寛は、こっそりあとをつけ回すという古来から伝わる方法によって、自分が日吉に来る水曜日の絲山遼子のスケジュールを調べ上げた。一限が語学、二限が近代思想、お昼はピアノサークルの仲間たちと一緒に部室で過ごす。三限が寛と一緒の文学、四限が心理学。


 絲山遼子はいずれの授業にもきちんと出席し、たいていは友人たちと一緒だった。なかなか隙がなかったが、四限が終わるとようやく彼女が一人になるチャンスが訪れた。心理学に一緒に出席した友人らと別れ、大学図書館で自習をするのだ。


 翌週の水曜の午後、寛は学生会館の物陰に隠れて絲山遼子を待ち伏せた。彼女が図書館に向かうところを捕まえるつもりだった。


 四限が終わり、絲山遼子が校舎から出てきた。寛は、彼女の姿を確認すると、食堂棟を回り込んでいったん日吉駅に向かって走った。逆方向から来たように見せかけて、図書館前で偶然を装って出くわそうという魂胆だった。


 このときのために、寛は日本の古典文学に関する本を数冊借りて読んでいた。それらの本を返却するという口実にもなり、同じ講義を取っている彼女と話題にするにも自然だという計算だった。


 寛は、平安貴族を気取って、彼女に贈るべく和歌も書いてみた。昔の貴族はそうやって女性を口説いたという話を講義で聞いたのだ。しかし、イマジネーションに欠ける彼にはまるで歯の健康週間の標語のようなものしか作れず、この案は却下となった。


 図書館の前にある大学創設者の銅像の前で、寛は計算通りのタイミングで絲山遼子と出くわした。入口のところで、お先にどうぞと互いに譲りあう格好になった。

「あの」寛は、内心どきどきしながら声をかけた。「文学の講義で一緒だよね。三限の」


 小柄な絲山遼子は、見上げるようにして寛の顔を確かめた。すぐに彼のことが分かったような表情になった。


「あぁ、そうですね。三限の」


 寛は脈ありだと直感した。


「図書館?」寛は、聞くまでもないことだと知りながら、行く先を確認した。


「はい」絲山遼子は少し口元を緩ませた。


「おれも」寛はそう言って先を譲った。


 入館ゲートを抜けながら鞄から本を取り出すと、寛はさりげなく彼女に題名が見えるようにした。「これを返さなくちゃ」


 寛の言動は、何から何まで全然さりげなくなかった。


「文学にはちょっと興味があって」寛は格好つけて言った。「特に日本の古典文学にはね。自分たちがどんな言葉を使ってきたのか、その歴史を知ることは大事だと思うんだ。それに、物事を考えるときには、何でもルーツまで遡って考えないとね」


 拾い読みした本のどこかに書かれていたフレーズの借用だった。


「私もそう思います」絲山遼子はおかしそうに笑いながら言った。


「自分と同じように考えている人がいるなんて嬉しいな」寛は、彼女が富田林寛という男に抗いがたい魅力を感じていると手前勝手に思い込んで言った。彼は、自意識過剰であるばかりか、調子に乗りやすい男でもあった。


「そういえば」寛は彼女にもう一歩近づく口実をひねり出した。「今日の講義だけど、レジュメをコピーさせてもらえないかな。欠席してしまったので」


「確か、出席されてたと思いましたけど」絲山遼子はすぐにこれがウソだと分かったが、礼儀を欠くようなことはなかった。


 その日の文学の講義がはじまる前に、二人は一度目が合っていたのだ。寛が絲山遼子を探して小鳥のようにきょろきょろしているところへ、ちょうど彼女が近くのドアから入ってきたのである。寛はさりげなく目を逸らし、さりげなく授業の準備をするふりをしたのだったが、そのときの彼の行動もやはり全然さりげなくなかった。


「そう。そうそうそう。そうだった」寛自身もそのことを思い出し、慌てて辻褄を合わせようとした。「出席したんだけど、だからつまり、なんと言うか……」


「なくしちゃったんですか?」


「そう。それ。まったくその通り」


 コピー機のある談話室で、寛は絲山遼子と十五分の会話をする機会に恵まれた。


 絲山遼子は和歌山県出身の十八歳。地元の女子高を卒業した彼女は、大学進学のために単身上京したのだった。実家は老舗の和菓子屋で、六つ離れた兄がいるという。彼女の品のよさや落ち着いた雰囲気は、そうした環境で育まれたものだった。


 祐天寺のマンションで一人暮らしをしている彼女は、授業が忙しくてアルバイトをする暇もなかった。語学が得意で、将来海外で働くことを希望しており、大学の勉強とは別にそのための勉強も進めているということだった。


 まだ一年生の彼女がすでに将来を見据えているということに少なからず焦りを感じた寛は、思わず自分は週に一度日吉に来て学生相談室でカウンセリングを受けているのだと告白した。


「自分でも何が問題なのかはっきり分からないんだけど、問題があることは確かなんだ」


「きっと根が深いってことなんですね」


 絲山遼子は寛の告白に真剣に耳を傾けて言った。寛には思いがけない言葉だった。


「そう思う?」


「はい」


「そうなんだ」寛は我が意を得たりと勢い込んで言った。「おれもそう思ってた」

未だかつて、自分には何か問題があるという己の考えにこれほど自信を持ったことはなかった。絲山遼子の優しさと率直さは、過去の女たちから受けた心の傷をすべて払拭してくれそうなほどだった。


「自分でもそう思ってたことは何となく知ってた気がするけど、今はっきりと分かった、自分がどう思っていたのか。どう思っていたか分かって、はじめて自分がおぼろげに思っていたことが何だったのか、はっきり理解できた。つまり、自分の中でもやもやしていたものをうまいこと対象化できたというか」寛は自分の身に起きたことを懸命に説明した。「ぼくには根の深い問題がある」


 絲山遼子は、こらえきれない様子で、それでも控えめに笑った。


「ごめんなさい。笑っちゃいけないんですけど、でも、富田林さんって面白い人ですね」


「そうかな」寛は、自分ではよく分からずに言った。


「私、自分が真面目で面白くないので、すごいと思います」


「そうかな」寛は、なんとなくよく思われているように感じて気をよくした。「あの、よかったらまた話したいな」


「はい。是非」絲山遼子はそう言ってにっこり笑った。


 カウンセリング四年間分よりも効果のある十五分の会話だった。寛は、小田原までの一時間半の道のりを、絲山遼子との会話を何度も反芻しながら帰った。

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